第101話 リィトゥ視点 そよ風に揺蕩う
木立の日に開催する披露会の招待状、そこに宛名を書こうとした手が止まりました。
指向性を失ったツスギエ布が一瞬、空気を雑に孕み、ふいに落ちてゆきます。
……仕方ありません。
どうにも溜め息をつきたい気持ちになってしまうのです。披露会に招待すべきとわかっていながらも逡巡してしまうお相手――レイン様のことを考えると。
バンル様、あるいはルシヴ様との婚姻を想定して、彼女があの家族に迎え入れられたことは明らかです。でなければ、ジオ・マカベがなんの関わりもない子供を引き取るはずがありません。
初めは気立子が何故、と思ったものですけれど、レイン様の音楽の才能や堂々とした立ち居振る舞い、魔力量を考えれば確かに釣り合ってはいるのでしょう。あのヒィリカ様が思いつきそうなことだとも、理解はできます。
ただわたくし個人の気持ちとして、納得がいかないのです。
わたくしはずっと、バンル様をお慕いしてきました。
親どうしの仲が良いので幼い頃から交流がありましたし、彼の伸びゆく才能に、また溢れんばかりの美しさに憧れて、隣に立っても恥ずかしくないよう努力もしてきました。その甲斐あって、周囲からもお似合いだと言われるようになっていたのです。
けれどそれも、去年のマカベの日までのことでした。
また零してしまいそうになった溜め息を飲み込みます。
レイン様が悪いわけではありません。むしろ、彼女がバンル様に対してわたくしと同じような感情を抱いているならば、わたくしは多少の未練だけを残して、この心の奥でくすぶっている熾のような想いに水をかけることもできるのです。
釣り合う相手と木の種をまくことの重要性から目を逸らすほど、子供でも、夢見がちでもないつもりです。
しかし彼女に、バンル様へ寄せる想いがわずかでもあるでしょうか?
――いいえ。わたくしはそう断言できます。バンル様をお慕いしている女の子のことは、なんとなくわかるのです。でも、それならば、ルシヴ様に決めてしまえば良いではありませんか!
……なんて、そのように美しさに欠けることを言えるはずないのですけれど。
「お姉様?」
手を止めたことを不審に思ったのか、向かいに座るフッテアが首を傾げました。披露会の準備を一緒にするため、部屋に呼んでいたのです。
彼女はジオの土地の家でもわたくしの部屋によく遊びに来ますし、まだ小さな妹ではありますが、人の心の機微に敏いので良き話し相手でもあります。
このどうしようもない気持ちを和らげるためにも、わたくしはフッテアに話してみることにしました。
「あなたは、レイン様のことをどう思いますか?」
「……バンル様について考えているのですね」
パチリと不思議そうに目を瞬かせたのは一瞬で、フッテアの鮮やかな赤い瞳はキラキラと楽しそうに輝きました。
頬に熱が集まったのがわかります。お母様に似て、彼女は恋のお話が大好きなのです。
「本当に目敏いこと」
「当然です! ……えぇとそれで、レイン様のお相手がどちらになるか、ということですよね?」
直接的な言いかたを窘めるように、わたくしは控えめに頷きました。
今はわたくしたち姉妹しかいませんし、フッテアも外では美しい会話のできる子です。わざわざ口に出すことはしません。
彼女もそれを理解しているのか、嬉しそうに破顔します。
「そうですね……、バンル様のお考えはわかりませんけれど、ルシヴ様がレイン様を望むことはないのではありませんか?」
予想通り、フッテアは彼らに関してしっかりとした考えを持っているようでした。続きを促すと、彼女は「うぅん」と考えるように指を頬に当てます。
「悪い感情はないと思いますけれど」
なにかを思い出すように窓の外へと向けられたまん丸の瞳。暗闇にぼんやりと浮かぶ精霊の灯りが映りこみます。
「ルシヴ様はレイン様を、女性として好い人とは思っていませんよね。そういうのは、えぇと……『良縁ではない』、ですよ」
――良縁ではない。それはお母様がよく口にする言葉です。
わたくしは驚きました。レイン様を慕い、隠すこともせず憧れの目を向けるフッテアです。それでもぴしりと言い切った彼女は、「棘持ちの
「……ルシヴ様のお気持ち、ですか」
加えて、わたくしがバンル様のことしか考えていなかったという事実にも。四つも下の妹が気づけたことに少しも考えが及ばなかった自分を恥じます。
よくよく思い出してみれば、ルシヴ様がレイン様へ向ける表情はいつだって、妹に対するものでした。それなのにルシヴ様と決まってしまえば良いなどというのは、あまりにもわたくしの都合しか考えていません。
「気立子ではなく、互いをよく知った上での枝拾いならともかく……。彼の年齢で、突然できた妹と種の準備をしようと考えるのは難しいでしょうね」
「そう思います。まぁ、ルシヴ様が家族や親しい友人以外に表情を和らげることは珍しい気もしますけれど」
ふふっ、と笑ったフッテアに、しかしわたくしは首を振りました。ルシヴ様の立場になって考えてみれば簡単なことです。
「家族として、ジオ・マカベの娘として、レイン様を認めたということなのでしょう」
「なら、これからのことはわかりませ――」
「っ、待ってくださいませ」
ふと思い至ったとある可能性に、さぁっと血の気が引きます。
ジオの土地でルシヴ様とレイン様が一緒にいるところをあまり見たことがなかったので、わたくしは木立の舎にいるお二人の様子を思い浮かべていました。
いくら大人びているといっても十歳と少しで、さらに言えば昨年マクニオスへきたばかり。不慣れなところはルシヴ様が手を貸していらっしゃいました。そして去年はまだ最上級生だったバンル様がその役目をしていたはずです。
あのとき彼はどのような表情をしていたでしょうか。どのような考えで、レイン様に接していたでしょうか。
「……わたくし、もう、諦めなければなりませんね」
「お姉様?」
「バンル様は誰にでも優しくありますけれど、特別だと勘違いされないようきっちり線を引くかたです。けれど、レイン様へは今まで見たことのないような、やわらかい笑顔を向けていらっしゃいましたもの。きっと……」
小さな手がすうっと伸びてきてわたくしの右手を掴みました。ヌテンレに、フッテアの魔力がわずかに触れるのを感じます。血の近さがわかる、温かな魔力です。
「お姉様。わたくしはお姉様がずっとバンル様をお慕いしていたことを知っています。簡単に諦めて欲しくありません。可能性だってたくさんあるのですから」
「可能性、ですか?」
「そうですよ。レイン様だってまだ恋に興味がおありかわかりませんし、お兄様がたとの婚姻は望まないかもしれません」
そういうフッテアも自分自身の恋には興味を持っていません。
しかし確かに、可能性はあるようです。レイン様がバンル様に向ける笑顔は無邪気で、わたくしやほかの人に向けるそれと変わらないように思えますから。
それにしても、恋心のなんと難しいことでしょう。
人によって態度を変えないところはレイン様の美点でもあるのですけれど、素敵な殿方にも簡単に可愛らしい笑顔を向けてしまえる彼女にはやきもきしてしまうものです。わたくしのようにお慕いする相手がいる人は皆、同じような気持ちでいるに違いありません。
いっぽうで、レイン様のお気持ちはそよ風ほどもわからないのです。
それは彼女が気立子だからなのか、一度記憶を失くされているからなのか……。
ある意味、バンル様の線引きに似ているともいえます。が、心底楽しそうな様子を見る限り、そのつもりはないのでしょう。
「ねぇ、お姉様」
甘えるような声に懐かしさを感じながら思考を止めると、そこには思いのほか真面目な表情をした妹がいました。
「バンル様はとても優秀なかた、ですよね?」
「えぇそれはもう」
考えるまでもなく肯定します。まだ成人して間もないというのに、次のジオ・マカベと目されているのですから。
魔力量や芸術の腕に限らず、目端が利きますし、あのご両親からも大いに期待されています。
「そのようなかたが、ジオ・マカベがレイン様を迎え入れた理由に気づかないわけありませんよね?」
わたくしでも気づけるのです、と目もとを緩めたフッテアの言葉に、ハッとしました。
そうなのです。彼らが気づかないはずないのです。その上でまだなにもお話が聞こえてこないということは、決める段階ですらないということではありませんか。
レイン様が将来のジオの土地を担う者として相応しいか、そうではないか。
今の段階でほかの人に木の種を渡されることがないように。レイン様自身がないがしろにされていると感じて離れてしまうことがないように。
そしてできることなら、互いが納得しあえるように。
「そう、ですね」
ならば、わたくしはわたくしにできることをするまでです。バンル様のお相手として、そして女性として魅力的だと思っていただけるような努力を――
……今までと変わりありませんね。
それでもレイン様の意向は伺っておいたほうが良いでしょう。恋敵――になるかもしれない人のことは気になってしまうものです。
もとより彼女だけを招待するつもりで準備していたのですから、あとはわたくしが勇気を出すだけ。前向きな気持ちにさせてくれた妹に感謝しながら、まずは書きかけの招待状を仕上げることにいたしました。
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