第100話 わたしの懐郷(3)

 その料理には、生け花の要素がどこにもなかった。

 肉と野菜がたっぷり入ったスープと、おやきに似た見た目をしている焼き物。朝食に出てくるパン代わりの芋、ポナとも違い、潰した穀物を丸めて焼いているようだ。

 ある意味ではものすごくありふれていて、マクニオスでは見たことのない食事。

 たかがスープとは思えない上品な盛り付けがされているけれど、それ以上に五感へ訴えかけてくるのは。


「……湯気が」


 スダ・サアレが部屋に戻った瞬間からわたしの嗅覚を支配し始めた、食欲を誘う香ばしい匂い。口の中で唾液が分泌されたのがわかる。今目の前にあって、やわらかく頬にあたる湯気から、それは漂ってくる。

 ――そう、湯気が!


 マカベの生活で目にする湯気は浴室内くらいだ。冬でも寒くなることはないので身体を温めるような熱いものは必要ないけれど、それでもやはり、物足りなさは感じていた。

 これは期待できる。いっきに気分が浮上して、しかし、スダ・サアレはとんでもないことを言い出した。


「あぁ、冷ましてやるから待て」

「なっ……やめてください、もったいない! せっかくの温かいスープがっ!」

「は?」


 キッハを組むように手を出した彼から食事を守ろうと、器に覆いかぶさるわたし。訝しげな視線にハッとして取り繕うも遅い。


「や、火傷をしないように、気をつけて食べますから。お願いします、温かいままで食べたいのです」


 マカベの食事が冷めているのにも理由があるのだ。けれどこの機会を逃せるはずはなかった。開き直ったともいう。

 言葉を重ねた必死の懇願が届き、なんとか冷まされないことに成功する。感想を述べる必要もないという事実に歓喜しながら、わたしは「いただきます」と手を合わせた。


 先端に切り込みのある匙で肉をほぐす。予想していた抵抗はなく、ほろりと崩れるほどにやわらかい。

 よく煮込まれて透き通った野菜も、同じように崩して肉と一緒に匙に乗せて。


「ふぅ、ふぅ……」


 ひと口。


「ん……」


 ふっと鼻の奥に抜ける香辛料の香り。それからピリリと舌に刺激がきて、けれど押し潰すように咀嚼してみれば、じゅわりと滲み出てくる具材の旨味――スープが撫でるように痛みをさらっていく。それら全部一緒くたになってあっという間に溶けてしまった。残った脂の舌触りが良い。感嘆の溜め息が出る。

 続いておやきを手で千切るともっちりとしていて、口に含めばほのかに甘い。スダ・サアレの真似をしてスープにつけてみる。

 これでもかというほどに旨味を吸い込んでとろとろになったおやきは幸せの味がする。


 ……美味しい、おいしい!


 頭で考えていたのは最初だけで、あとはただひたすら口へと料理を運んでいた。


「……おい」


 だから気づかなかった。


「あんた、なに泣いてんだ?」


 ギョッとしたような顔でこちらを見てくるスダ・サアレ。

 彼はなにを言っているのか。

 マカベは泣いてはいけなくて、泣いたら魔法石になってしまうから、だから泣くわけがなくて。


 けれど、無意識に頬に触れた指は確かに濡れていて。


「わたし、泣いて……?」


 自覚してしまえばどうしようもなかった。あとからあとから溢れてきて、止まらない。涙がぼたぼたと太ももに落ちる。


「……っ、だって、仕方ないじゃないですか。こんなに美味しいの、久し振りで。……ずっと我慢してきたんです。美味しくないな、楽しくないなって、見た目の美しさなんてっ、どうでも、良いのに。でもマカベのご飯はこれだけだから、仕方ないなって、そう思いながら、食べてたんです」


 みっともない。わかっている。マカベどころか、日本人だって、こんなふうに泣きわめくことはない。

 だけど止まらなかった。もうギリギリだったのだ。


 帰りたくても帰れなくて、帰る方法に繋がる魔法を見つけてもいつできるようになるかわからなくて。

 ただ音楽があるから踏ん張れていただけで、とっくに限界を迎えていた。

 そのことに、今気づいた。


 スダ・サアレの表情は読めない。なにも言われないのを良いことに、わたしは大声を上げて泣いた。




「スダ・サアレはお嫁に欲しいですね」

「……は?」


 恥ずかしさを紛らわすため口にした冗談だったが、予想より剣呑な声が返ってきた。ふざけすぎただろうか。


「それくらいご飯が美味しかったということです。ごめんなさい、みっともないところをお見せしました」

「まったくだ」


 優しさの欠片もない言いかたではあるが、木立の舎で向けられたときのような嫌悪も一切ない。それがありがたかった。


「にしても、あんたはここへ来るまでの記憶がないんじゃなかったか? 久し振りと言っていたが……」

「あ」


 取り乱していたのですっかり抜けていた。どう説明したものか。

 この身体の本来の持ち主である、土の国の子供としての記憶は確かにない。けれどわたしの、あまねとしての記憶はある。


「えっと。か、身体は覚えているのかもしれません」


 苦し紛れかつしどろもどろな言い訳だったが、スダ・サアレはそれ以上追求することなく滞在用の部屋を貸してくれた。

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