第98話 わたしの懐郷(1)
「あの、わたし……」
「顔色が悪いわ、レイン。慣れない環境だからかしら。こちらはもう少しかかるでしょうし、木立の舎へ戻ったほうが良いですね。どなたか……」
手の空きそうな人はいないかと絵を描く手を止めて下のほうを見るヒィリカ。
彼女はおもてなしの要としてここを離れることはできない。そのため、自身の代わりに娘であるわたしを木立の舎まで送ってくれるよう、誰かに頼むつもりなのだろう。
純粋な優しさからの言動であるとはわかっている。けれど、今のわたしにはそれを素直に受け取れる自信がなかった。
「……あの。一人で大丈夫です。マクニオスの中に入れば、良くなると思うので」
「あなたが心配なのですけれど」
その心配が苦しいのだ、とは言えなかった。言うどころか、思うことすら難しい。
……招かれざる客がマクニオスの地を踏むことを許せばどうなるか。そう、考えれば。
ただ神さまのため、美しさを求めるため、当然のように火を放ったヒィリカにすり寄るのかという気持ちと、音楽好きの気立子として役立つとはいえ、本当の子供と同じように育ててくれている彼女を突き放すのかという気持ちで、心がぐるぐるとかき乱されていた。
「マクニオスの木に向かって飛ぶだけですし……仕方ありません。無理をしてはいけませんよ」
「……はい」
今はとにかく、この場を離れたい。
逃げるようにデリの土地に入り、わたしは少しだけ冷静になった頭で今向かっている先のことを考えた。
木立の舎にいるのはおもてなしに参加していない人たちだ。それなりに顔の知られているらしいわたしがそこにいないことは明らかで、ならばシルカルかヒィリカのもとにいると、前線にいると知られているだろう。
そこへわたしが一人やってきたとして、彼らはどのような行動に出るか。
……絶対に、おもてなしの様子を訊ねられる。
シルカルもヒィリカも、マカベにとっては憧れの存在だ。「神を冒涜する者」に対して抱く感情が皆同じなら、彼らをどのようにもてなしたのか、気にならないはずがない。
はたして、わたしは笑顔を維持したままで期待に応えられるだろうか。
「……ぁ」
できない。断言できる。考えるだけでなにかを吐き出してしまいそうになるのに、実行できるわけなかった。
ならばどうしたら良いのだろうと悩んでみても、わたしの羽は西へとわたしを運ぶ。
心情を表すかのように速度は抑えられ、いまだマクニオスの木は遠い。
眼下に広がる青い森。その真ん中に、岩から生えたひと際大きな木が見えた。吸い寄せられるようにして、地面に降り立つ。
「……あの」
「良い。顔を見ればわかる。だが……」
シルカルとよく似た顔に強い呆れを滲ませて、デリ・サアレがわたしを見下ろしている。
ここはデリの神殿、祭司たちが会議などで使う部屋だ。
同じマクニオスの人間でも、マカベより、ヨナよりも、感情の振れ幅がちょうど良いサアレやクストと話すのが一番落ち着く。さらに言えば実際あの場でおもてなしをしていたのはマカベだけだ。神殿ならばもしかしたら、という期待もあった。
が、この様子では追い払われてしまうかもしれない。
考えてみれば当然のことだ。彼らのほうがずっと、神さまに近いのだから。
「うちは駄目だ」
やはりそうかと、わたしは項垂れた。もはやマカベの娘として取り繕うことすらできず、視線を落としたままでいると、上から「ハァ」と面倒そうな感情を隠しもしない声が降ってくる。
「ジオ・マカベやヒィリカにも言わずに来たのであろう? ならば匿っておけぬ。……いや」
途切れた言葉に視線を上げれば、意外にもそこに面倒そうな表情はなかった。
「私では隠し通せる可能性が低い、と言うほうが正しいか。血の繋がりがあるゆえ、あれは私に遠慮がないのだ」
だからほかの土地の神殿へ行けとデリ・サアレは言う。思いもよらない言葉に目を丸くしていると、今度は何故か楽しそうな口調で「そうだな……」と思考を巡らせていた。
「そなたはジオの土地の人間なのだから、やはりジオの神殿へ行くのが良いのではないか? 音楽会でもジオ・サアレと話していただろう」
言われるまま、ジオの神殿へ行く自分を想像してみる。キラキラして華やかなジオ・サアレ。女の子には特別優しそうだし、気遣いもよくできるだろう。しかし、普段のわたしですら遠慮願いたいほど苦手意識があるのだ。今の精神状態となると――
「え、っと……」
「だろうな」
わかっていて提案したらしい。意外で、思わず彼の顔を凝視してしまう。
青い瞳の奥で愉しげに金色の光が揺れている。……ふ、と笑い声が漏れた。なんだか久し振りに自然に笑った気がする。
「スダかアグはどうだ?」
「アグ・サアレとは面識がありません」
「なら決まりだな」
それから、魔力に余裕があるならできるだけ高度を上げて飛びなさいと助言をもらい、わたしはさらに西へと向かうためにデリの神殿をあとにする。
高度を上げている途中、銀色に光る鳥がものすごい速度でわたしを追い抜いていった。
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