第97話 戦争という名の(4)

 ヒィリカが紡ぐのは、子守歌のような、優しい雰囲気の曲だった。

 鈴が転がしたような澄んだ声が、指先から溢れる竪琴の音が、やわらかく響く。乾燥した大地に染み込むように鳴る、微睡みの旋律。こんなときにも拘らずうっとりしてしまう。

 おもてなしの相手にとっても聞き惚れる美しさなのかもしれない。心なしか……いや、確実に、砲撃の数が減っている。


 ……まさか本当に歌で改心を? なんて思ってしまうほどの変化だ。おそらくそういう効果の魔法なのだろう。

 もっと聞いていたいような気もしたが、しかし子守唄はすぐに終わる。


 気づけば招かれざる客の進行はほとんど止まっていて、巻き上がる砂煙の名残だけがそこにはあった。

 それでも一人ひとりの姿かたちがぼんやりわかる程度には近づいていたようだ。彼らは全員が鎧を着ていて、歩きだけでなく、ラクダに似た動物に乗っている人や、砲台に掴まっている人がいる。

 まだ時々、兵器は飛んでくる。勿論芸術師たちの魔法によって阻まれ、こちらまで届く前に地面へ落とされていた。


「上手に描けると良いのですけれど」


 アクゥギをしまったヒィリカが、今度はヌテンレを取り出した。

 あれだけ練習しておいて上手に描けないということはないだろう。音楽が特別ずば抜けているので忘れがちだが、そもそも彼女は多才な人。音楽以外の芸術も得意なのだ。


 さらさらと宙にヌテンレを走らせる動作に迷いはない。なにも見ずに描いているとは思えない緻密な筆さばき。

 魔法の真髄は即興にあるという。その場の景色や、空気感に応じて構築される芸術。神さまを楽しませるための、美の表現。


 軽く伏せられた目は、絵のさらに先、招かれざる客に向けられているようにも見えた。

 ヒィリカの魔力によって赤い色彩が広がる。花畑だ。赤い花が咲き乱れた丘の風景に、彼らが重なる。


 視界の端でチラと赤色が揺れた。それはヒィリカが描いたものとは違うような気がして、芸術師たちも描いているのかと納得し、目をやる。

 思考が止まった。


「え……?」


 それは炎だった。招かれざる客たちのいるところ、花開くように現れた赤い炎。


 ……なに、これ。


 次々と花が咲いていく。あたり一面、花だらけ。ヒィリカが描いたのと同じ、花畑。

 ――違う。花は、炎だ。花畑ではなく火の海。どこが? ……招かれざる客の、いるところ。


 耳鳴りがして、脳がぐわんと揺れた。感じた吐き気に唾を飲み込む。こんなところで吐くわけにはいかない。


「どうしましたか、レイン?」


 すぐ隣にいるはずのヒィリカの声が遠い。なんとか声を絞り出す。


「……なにが、起こったのですか」


 訊ねてはいけない。頭のどこかではわかっていた。けれど信じたくなかった。知りたくなかった。陽射しよりも、どんな魔力よりも煌々と光る炎の出どころなんて。

 真実、これは戦争だ。生きている人たちの命のやり取りがここにある。だけど。

 浮かぶ答えを、どうか彼女が否定してくれますように。そう、願うのに。


「芸術の一部に加えて差し上げたのです」

「え、と」

「美しさが足りないようでしたから。……あら、あのあたりはもう少し赤みを抑えたほうが良いかしら? どうでしょう?」


 なにを言っているのだろう、この人は。耳鳴りは続いていて、すべてに膜がかかっているかのような、そんな感覚があった。このまま線を引いて、知らないふりができたなら。

 けれどヒィリカが、この世界でのわたしの母親が、それを許してはくれない。


「レイン?」

「……あそこにいる人たちは。その、亡くなって、しまいますよね」

「当たり前のことでしょう? 神への冒涜を、そのままにしておくわけにはいきませんもの」


 ヌテンレを操るヒィリカの腕は休むことなく絵を描き続ける。遠国の知らぬ誰かを飲み込む炎を。それを生み出すための風景画を。

 自身の言葉に偽りはないと、至極当然といった微笑みのままで。


 ……無理だ。


 もう、いろいろなことが。消化できない。わかっているつもりでも、全然わかっていなかった。

 自分たちの命を、住んでいる土地を守るために抵抗が必要なことくらいわかる。無抵抗でいれば、明日がないことも。けれど、だからといってマクニオスの人間が、身近な人が能動的に手をかけるなんて、想像すらしていなかった。

 結局のところ、わたしはなにも考えられていなかったのだ。自分の周りで悪いことなど起こらないと、どこか楽観視していた。けれど違う。違った。悪いことですらないのだ。


 怖いと思った。暴力のない、穏やかな世界だと思っていたのに、ここにあるのは美しさを至高とした排他的な価値観のみ。わたしのなかの常識とはあまりにかけ離れている。


「……帰り、たい」


 心のなかで渦巻くのは、たったそれだけの願いだった。

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