第86話 マクニ・オアモルヘ(2)
それからマクァヌゥゼの楽譜が配られる。
ついに、ついに。ドキドキしながら受け取って、愕然とした。
……これ、本当に演奏できるものなのだろうか。
意味がわからないほどに難しい。イェレキをアクゥギにするためのクァジもかなり難しかったけれど、それの比ではない。
難しいだろうことはわかっていた。わかっていたのに、ヒィリカやスダ・サアレが普通に演奏していたからか頑張れば自分にも演奏できると思ってしまっていた。だけど、今のわたしではどう考えても無理だ。
それでも練習しないわけにはいかないので、とりあえず音をなぞってみる。
まず指がちゃんと届かない。
低音が常に複雑怪奇なリズムを刻んでいる。中高音は包み込むように――というより流れるように分散和音を奏でていて、その上を厳かな主旋律が変幻自在に動き回る。マクニオスの曲の定番ともいえる繰り返しにも規則性がなく、覚えるのにも苦労しそうだ。あちこち記号だらけの楽譜は初めて見た。
極めつきには早口な神さま賛美の歌詞。舌も回らない。それはもう、この場で大の字になりたいくらいの、全力のお手上げ。
身体の大きさもあるけれど、まさかここまで技術力が追いつかないとは思わなかった。
「レイン様?」
「あ……いえ。これはまたすごいですね」
「えぇ。挑戦しがいがあります」
このような楽譜を前にしてもラティラは楽しそうだ。
カフィナも「できるところから少しずつ練習しましょう」とやる気を見せている。
わたしは……わたしも、うん。頑張れる。
目の前に日本へ帰るための手がかりがあるのだ。当然ながら焦りはある。だけど、だからこそ、確実に掴みたい。
ふぅ、と息をひとつ吐き、楽譜と、その先に待っているはずの未来を見据えた。
講義で練習を重ねていくなかで、マクニ・オアモルへに関する教師たちの思い出話も耳にする。
初中級生を担当する教師には中年が多い。つまりわたしたちの親世代。そんな彼らの思い出には必然的に知ってる人の名前が出てくるものだ。
「マカベを目指せるくらい優秀な人は上級生のあいだにマクニ・オアモルヘを成功させることが多いんだ。スダ・マカベもそうだったよ」
ギッシェはスダ・マカベと同い年らしい。彼がラティラを見ながらそう言うと、ラティラは軽く首を傾げながら微笑んだ。
「お母様もそうですけれど、確かに上級生でマクニ・オアモルヘができるのは優秀なようです。ですが、ヒィリカ様は中上級生で完成したと、わたくしは知り合いにお聞きしました」
「……あのときは大騒ぎだったな」
無表情のなかに呆れを滲ませたヴァヅの言葉に、女性教師たちがクスクスと笑った。「ヒィリカ様を基準にするのは……」とティチェが困ったふうに手を頬に当て、それにウェファが「目標にするのは良いことだと思いますよ」と答えながらラティラを見やる。
「……当時のヒィリカ様にとてもよく似ていらっしゃいますし」
「ありがとうございます」
ウェファの口調にはただ褒めただけではないような含みが感じられたが、ラティラは気にした様子もなく嬉しそうに受け取っていた。今更である。
わたしもヒィリカが普通ではない人扱いをされるのはいつものことなので特に気にしておらず、しかし、ヒィリカが中上級生でマクニ・オアモルヘを成功させたという事実に逆の意味で考え込んでいた。
……この様子だと、どんなに頑張っても成功は再来年か。ヒィリカより自分が優秀だとはとても思えないので、それ以上にかかる可能性のほうが高い。
「長いな……」
口の中で、小さく小さく呟く。言葉にすると本当に長く感じられて、その絶望感を振り払うように軽く首を振った。カフィナが不思議そうにこちらを見てきたのを微笑みで返す。
「わたしたちもラティラ様と一緒に頑張りましょうね」
「えぇ」
明らかにできないとわかっていても、挑戦してみる子というのはどこにでもいるものらしい。
勿論それが悪いことだとは言わない。けれど、魔法に「あわよくば」は通用しないのだ。わたしは手が届きそうな部分の運指練習をしながら彼らの挑戦を聞き流す。他人の演奏にも耳を傾けることが多いラティラも練習を優先させていた。
「君たちは挑戦しないんだね。さっきの彼よりよほど弾けてるというのに」
自分の練習はせずに壇上の演奏を眺めていたインダがこちらを振り返った。もう声をかけられるのにも慣れてきて、ラティラとカフィナは
「わたくしはできるだけ完璧な演奏をしたいのです」
「神と繋がる魔法ですもの。今は自分の技術力を磨くときだと思っています」
「ふぅん……レインは?」
だんまりを決め込んでいたわたしにも目を向けてくるインダに内心で溜め息をつきつつ、ラティラやカフィナと似たような理由を述べる。
「弾けないとわかっているときは、演奏より練習のほうが大事ですから」
「そっか。そういう効率的なところ、良いと思うよ」
とりあえずわたしを褒めようとするインダの様子にとうとうこらえきれなくなったのか、ユヘルがプッと噴き出した。
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