第70話 魔力の色とキッハ(2)

 絵画室の壁はなめらかに加工された講堂や寮のそれとは違って木の幹がそのまま使われている。部屋自体も壁の凹凸に合わせて作られているらしく、ところどころで不思議な曲線を描いた形だ。

 何か所か大きくせり出した幹の部分には絵が掛けられていて、教室というよりも美術館のような雰囲気であった。


 すでに大勢の女の子たちが絵の前に並べられた机で模写をしていた。

 描いたときの魔力を覚えるためには何度も繰り返して描かなくてはいけないのだ。彼女たちが脇に重ねた紙の量を見て、気が遠くなる。


「わたしたちには難しい課題が続きますね」

「……本当に。あれがすべて楽譜であったなら、と思わずにはいられません」


 顔を見合わせることが癖になっているカフィナとぎこちない笑みを交わす。

 魔力の色を変化させるだけでも大変だったのだ。絵を描くこと自体も苦手なのだから、簡単に終わるはずがない。

 寮の部屋に置いてきた楽譜のことを考えていなければ、とてもじゃないがやっていけないと思った。早いところ習得して、心置きなくアクゥギに触りたい。そのためにも頑張ろうとわたしは決意する。


 魔法になる芸術――マクァヌゥゼとなるその絵に描かれているのは、風に揺れる一輪の花だ。ひなげしに似た橙色の花や草原の背景は写実的で、風も色つきではあるが、複雑に、本物らしく表情されている。

 わたしはそれをできるだけ丁寧に模写していく。構図や線画は勿論、彩色もだ。

 しかし、描きはじめてすぐ、ペンの魔道具であるヌテンレを使うと線の太さや色を変えやすいことに気づいた。


 ……こんなに使いやすいのなら最初はヌテンレで色変化を練習させてほしかったよ。


 あの苦労はなんだったのかと思いながらヌテンレの使い心地を確認していると、子供たちの様子を見て回っていたらしい教師たちが、ふふ、と笑みを溢す。


「あくまでも魔道具は魔力の動きを補助するためのものですから、複雑な魔法はともかく、色を変える程度のこともできないようでは困りますよ」


 わたしの考えなどお見通し、といったふうに釘を刺されて、気まずい空気で作業を続ける。

 魔道具はとても便利だし地球の物理法則ではありえないような現象を引き起こせる。けれど、魔道具に頼るばかりでは美しくないとされているのだ。

 それに魔道具も万能ではない。基本的な構造を理解していなければ、いざというときなにもできなくなってしまうと教師は言った。

 そういえば日本では仕組みのわからない機械がほとんどだったな、と思いながら、魔力の色を自分の意思で変えていく。


 一枚描き終えたところで肝心の「絵を描いたときの魔力の動き」のことをすっかり忘れていたことに気づき、抑えきれない溜め息が漏れた。




 女性のキッハはいくつかの文字や図形を重ねた記号だ。

 教師がヌテンレを使って青や緑の光でキッハを描いていく。カラフルな魔法陣、といった感じで、ネオンサインのようにぽわんと光る魔力は幻想的だった。


「フェリユーリャは魔力を光らせるものですし、四つ灯の魔法は魔力を神殿に溜めるためのものですね。このように、音楽をマクァヌゥゼとする魔法は魔力そのものに干渉しやすいと言えます。一方で、舞踊や絵画をマクァヌゥゼとした魔法は、ある現象を引き起こしたり、物に干渉したり、といったことが得意なのです」


 キッハが完成すると彼女の周りで風が起こる。ふぁっと一瞬だけツスギエ布が舞い、それが落ち着くのと同時に薄い空気の膜ができた。風を纏う魔法だ。

 教えてもらった書きかたは大して難しくないが、まずは魔力の動きを覚える必要がある。引き続きマクァヌゥゼを描いていく。


 しかし、九の月も残りわずかとなっても、わたしはキッハを使えるようになっていなかった。カフィナもである。

 ヌテンレのおかげで絵を描く行為そのものは苦労せずに済んでも、画力と魔力という高い壁が立ちはだかっているのだ。そう簡単にはいかないとわかっていたけれど、さすがに焦ってくる。


「レイン様、カフィナ様。キッハの課題はどうですか?」

「……ラティラ様」


 絵画室へ向かう途中でラティラに呼びとめられ、わたしとカフィナは口ごもる。そんな二人の様子に、しかし、ラティラは同情とも揶揄とも違う笑みを浮かべた。


「お二人が絵を描くときの魔力を覚えることに苦労されているのなら、ですけれど……」


 まさにそれです、と大きく肯定したくなるのをぐっと堪える。

 わたしたちに助言をくれるつもりなのだろうか。あの感覚を説明できるなら教師たちもしているのではないかと思うけれど、彼女がなにを言うのか、気になる。わたしは美しい薄青色の瞳をじっと見つめた。


「マクァヌゥゼの絵を描きながら、心のなかで音楽を演奏するのです。あの絵を見るときに聞きたいと思う音楽を」


 ……え、音楽?


「大事なのは魔力の動きを覚え、再現することでしょう? 音楽ならば、簡単だと思いませんか?」


 思いもよらぬ解決策だが、言われてみれば確かにそうだ。わたし自身、魔力を動かす歌がなくても空を飛べるように、歌を思い出せるような言葉を心のなかで呟いていたではないか。

 ただそれを、歌と絵画という別のものに繋げるという発想はまったくなかった。

 なんてことはない、といったふうに微笑むラティラに、期日までに合格できるだろうかという不安で張りつめていた緊張の糸が緩む。


「……なんだか、できるような気がしてきました」

「わたくしもです。ラティラ様、ありがとうございます」


 頑張ってくださいね、とわたしたちを送り出すラティラから「早く一緒に演奏をしましょうね」という副音声が聞こえてきた気がした。これでできるようになればラティラのおかげだ。彼女の気が済むまで付き合おうと思う。




 わたしとカフィナは揃って九の月が終わる一日前に合格を勝ち取り、その翌日はご機嫌なラティラと演奏三昧の一日を過ごしたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る