六年椿組・極道先生

紗水あうら

六年椿組・極道先生

(一)


 イヤな予感は、ずっとしていた。


 僕らが順当に六年生になって、初めて迎えた始業式。クラス替えはなかったが、五年生のときに担任だった向川夏海むかいがわなつみ先生が、ご実家の都合が有って去年度いっぱいで退職された。つまり少なくとも、僕らの担任教師は、この大事な六年生と言う時期に変わる。

 向川先生もそのことは、ずっと気にしていたのだと思う。担任として卒業まで面倒を見たい、そう思っていたと離任式で語った先生の目には涙が光り、その声は震えていたものだから、僕らも居た堪れない気持ちになったものだ。

 そうして向川先生は学校を去り、新たな担任を迎えることになった僕ら、御来堂ごくどう学園小学校・六年椿組のクラスメイトたちの話題は、もっぱらそのことで持ち切りだった。

「別に、誰が担任だろうと問題ないでしょ」

 そう言ったのは、去年女子の学級委員だった、もとさくら。成績良し、スポーツ良し、おまけにある有名な児童劇団所属で子役もこなす。才色兼備の絶対ヒロインにして、女子のリーダー的存在。恐らく今年も、女子の学級委員は彼女でなければ、このクラスはまとまらない。

 ただし滅法気が強く、男子からは「野本はおっかねぇ」と敬遠され気味だ、と言うのも付け加えておこうか。

「そうは言うけど……でも、岸田先生みたいな、厳しい男の先生はイヤだよ」

 この道三十年のベテラン教師・岸田俊輔きしだしゅんすけ教諭を警戒しているのは、木村きむら美緒奈みおな。独断専行しがちな野本の女房役、と言うか参謀役で、普段は大人しいけど言うことはちゃんと言う。成績は中の上、体育はあまり得意じゃない。代わりに木村は音楽が好きで、音楽の時間は彼女の独壇場だ。

「確かに岸田の爺さんの口煩さはカンベンだけど、爺さんは今年指導主事に御昇進だ、面倒なクラス担任なんてやりっこない。有るとすれば中学入試に定評の有る前六年榴組の西野か、去年は代打で低学年に回された三島辺りじゃね?」

 妙に学校の内情に詳しいのは、広橋翔太ひろはししょうた。父親は診療所を構える開業の内科医で母親は小児科医。PTA会長を務めているから、学校内の人事には詳しいのだろう。本人も医者になることを押し付けられているそうだけど、本人の成績は良く言って中の下、特に算数が嫌い。

 兄貴が優秀だから、兄貴が後を継げば良い、俺は俺で好きなことをするさ、と小学生のくせに達観している。別名「椿組のスピードスター」で、徒競走は滅法早い。もちろんそれ以外の運動も、小学校であることを考えたらオールマイティと言って良いだろう。リトルリーグやサッカー少年団からも引く手数多のようだ。そんなキャラだから、女子人気も高い。柏組や榴組と言った隣組からもモテる。

「西野が担任なんてオレやだよー、だってあのおばはん、体育や音楽の時間潰してまで国語とか算数とかにするんだぜ?」

 そんな心配をしているのが、横川淳也よこかわじゅんや。勉強はからっきしだが、ノリの良い男子のムードメーカー。広橋と良くつるんでいるが、単なる腰巾着ではなく、むしろ人とつるまない広橋をクラスの輪に繋ぎ止めている、波止場のもやいみたいなヤツだ。良いヤツだけど、広橋のお父さんからはあんまり良く思われてないらしい。

「川端ぁ! お前はどう思うんだ!?」

 ……そんな彼らを中心とした雑談を離れて聴いていたところを、横川に無茶振りされたのが僕、川端裕かわばたゆう。恥ずかしながら、昨年は学級委員を務めていたから、先の野本の性格はよく存じている。成績は一応学年上位、クラスでは残念ながら、一人とんでもないヤツがいるので、ずっと二位。運動は恐らく平均的。趣味は人間観察と言えば言葉は優しいが、要するに大した趣味はない。

「……野本と同意見だ」

「なにアンタ、興味ないフリしてあたしらの話聴いてたの?」

 僕の答えに対して意外そうに、ついでに不服そうに野本が言った。

「聴いてたんじゃない、聴こえてただけだ。そんなデカい声でワイワイやってりゃあ、自然と耳に入る。それとも、興味がないなら耳栓でもしておけと、そう言いたいのか野本?」

「べっ、別にそんなこと言ってないでしょ!?」

 なにを慌ててるんだ野本は。

「それより、そろそろ講堂に行かないと、着任式と始業式が始まっちまう。野本、後は頼んだ」

「またそうやってあたしに丸投げなの!?」

「いやー、さくらちゃんと川端君、良いコンビだよねぇ」

「全くだ。野本を操縦できる男子は、このクラスにはバタヤンしかいねぇからな」

「誰が操縦されてるですってぇ!?」

 木村も広橋も、余計なガソリンを火に投げ入れるな。

 野本の機嫌を損ねた罰として、前学級委員の僕が仕切らねばならんようだ。

「みんな、そろそろ講堂に行こう」

 僕がそう言うと、みんなはぞろぞろと教室を後にした。全員いなくなったのを確認して、ロッカーと教室の戸締まりをする。今年はこの役、誰かに代わって欲しい。




 全校生徒がクラスごとに二列縦隊で並ぶと、さっぱり内容のない校長先生のご挨拶で始業式が始まる。入学式は三日後だから、まだ一年生はいない。

 これから僕らが最初にやる仕事が、この入学式の準備と言うのが、この学校の決まりごとだ。特に僕らは最上級生になるから、仕事もその分多い。受験のことも有るし、なるべくなら学校行事からは縁遠く有りたいと思っているのだけど。

 あくびを噛み殺し、話が長くてそこかしこで倒れ込る音がし始めると、校長が話を止める。始業式と言う儀式の重要性は、入学式や卒業式から見れば遥かに下だ。

「続いて、着任式を行います。本年度より着任されました先生方、壇上にお上がりください」

 御来堂学園小学校は私立だから、公立と違って異動の概念が希薄だ。離任式や着任式はない年だって普通にある。ただ今年は向川先生の他に、定年退職で二人この学舎を去った。新たに採用された先生も、どうやら三人。

 しかし、登壇した三人の新任教諭のうち一人が、どうも様子がおかしい。今年の着任は二人が女の先生、一人が男の先生だが、その唯一の男の先生の見た目はどう見たって教師然としていない、と言うか社会人として疑問を呈するナリをしている。

「……おい、なんだあの男の先生」

「アウトレイジとかに、出てきそうだよね」

 彼の姿を見た児童は、なにせまだ小学生だ。思ったことは、すぐに口に出る。そんなざわめきが講堂に自然と波を起こす。そう、その男の先生はどう見ても映画で見るヤクザそのものだった。

 やがて、二人の女の先生の――こちらは至って普通の先生のようだ――挨拶が終わると、そのヤクザの挨拶は始まる。まだ講堂には、動揺が広がっている。他の先生方もどこかしら表情が不安気だが、校長と教頭は何食わぬ顔でその様子を見ていた。


「――うるせぇぞガキ共ぁ! 静かにしやがれぇ!!」


 開口一番そのヤクザ――もとえ、新任の先生は、マイクをスタンドから取り外し、ラ行の発音を見事な巻き舌で怒鳴った。新任の挨拶の最初が、もうこれだ。イヤな予感は、この時点から始まっていたわけじゃない。ずっと僕の中に有った。ただそれが具現化されただけだ。

「……よし、静かになったな」

 嘘つけ、静かになったのは高学年だけだ。低学年の子の中には恐怖で泣き出す子も出ているぞ。

「あー、今年から縁有って岩田校長先生の子分になった、極楽ごくらく重顕しげあきだ。一応こんなナリでも、ちゃんと大学を出て正規の教員免許を持った教員だ。おかしなヨタ吹いたら、承知しねぇからな!」

 見た目と言動からは想像もつかない、まるで戦国武将みたいな名前をしたその教師は、相変わらず軽快にラ行の発音に巻き舌を駆使して捲し立てた。正規の教員免許を持ってることを主張しなければ、明らかに何らかの反社会的勢力の介入を匂わせるその風体。小さめのフレームにハマったメガネのレンズにはスモークが掛かり、やけにノリの利いたスーツはピンストライプ。シャープな顔立ちに鋭利な目付き。子供でなくとも、こんなヤツに凄まれれば警察を呼ぶか全速力で逃げるだろう。

 僕はこの時点で予感していた。彼は、極楽寺先生は、間違いなく六年椿組の担任になるために、校長がこの学園に招聘したのだ、と。同時に、僕のクラスメイトたちは、頼むからこいつだけは担任にならないでくれ、と願っていたはずだ。いや、児童全員がそう思っていただろう。少なくとも、僕を除いて。

 まだざわつきが収まらず、少しばかり混乱と昂奮状態に有る中、広橋の情報どおり今年から指導主事に昇格した岸田先生が言う。

「それでは、三年生と五年生、それから六年椿組の本年度の担任の先生方を発表します。それ以外のクラスは昨年から持ち上がりになります。それでは三年柏組、入野静香先生――」

 どう考えても極楽寺先生は、一年生の担任ができるタイプではない。五年生ならもしや、と思うがそれも微妙だ。早速今年着任した入野先生の名が告げられ、学年が上がって行く。どこかで極楽寺先生の名前が出れば、六年椿組は恐らく安泰だが、五年生の発表が終わっても彼の名が告げられることはなかった。


「――六年椿組、極楽寺重顕先生。以上になります」


 こうして六年椿組に、いや、御来堂学園小学校に、まるで本物の極道モノがやってきた。その日から先生は、極楽寺先生などとは呼ばれず、誰彼となく「極道先生」と呼ぶようになった。



(二)


 始業式の混乱をよそに、「極道先生」は見た目と口調はともかく、意外にもかなり本筋の先生だった。

 僕らの多くは、今年中学受験を控えている。この学校にエスカレーター式の中学校はないから、早いウチから進路を決め――もっとも、決めるのは大半の場合は親なのだけど――目標に向かって前進しなければならない。僕も分相応かはともかく、世間的にはそれなりに名門と呼ばれる中学を受験するわけで、塾にも通わせてもらっている。

「極道先生」はそんな実情を知っていたから、最初から教科書通りの授業などしようとしなかった。

「良いか貴様ら! 貴様らが行こうとしている中学ってぇなぁ、こんな教科書で教えることなんざ一通りアタマに入ってんのが当たり前なんだよ! だから貴様らには、最初から入試問題で教える。解き方と着眼点をしっかりアタマん中に叩き込みやがれ!」

 この調子だった。

 これに困ったのが、成績の悪い勉強嫌い組だった。「極道先生」は毎週月曜日に決まってテストをさせ、成績の悪い連中は一週間掛けて補習授業を行っていた。何せ「極道先生」であるから、万事口調はあの通りで、授業は超の付くハイペース。彼らは塾と学校の課題を掛け持ちしながら、その上ハードな補習授業を夕方までさせられていたのである。

 ただ、「極道先生」は一つ大きなポリシーを持っていたようだった。先生は、僕らが私語雑談をしたり、集団行動を乱すような行為をすることについては、はっきりと口頭で叱責するが、成績が悪いとか運動ができないとか、そういうネガティブな評価から児童を叱るようなことはなかった。意外にも、「極道先生」はその点において言うならば、相当優しい先生だったのだ。

「最初はもうふざけんな、って思ってたけどよ。極道先生のおかげで、算数だいぶできるようになってさ。親父も最初は、とんでもないヤツが来たみたいに言ってたけど、最近じゃむしろ感謝してるぜ」

 算数嫌いだった広橋は、当然のように当初は居残り補習組だったが、それも修学旅行前には脱出できたのだ。それまでクラスの半分近くは「補習組」と呼ばれていたが、その数も時を追うごとにめっきり減って行った。それでも横川のように勉強はからっきし、と言う連中は数人は残されていたけれど。

 だが、「極道先生」のホントの極道っぷりは、そんな座学の授業中からは垣間見られなくとも、それ意外のところでは問題行動として炸裂していく。




 道徳の授業も、もちろん教科書や副読本なんか使わなかった。ある日の道徳の授業は、なぜか株式市場の話から始まった。

「株屋っつーのはよ、株の売買に手数料を掛けてんだ。だからアイツら株屋はカモにデタラメを吹いて、買わせたり売らせたりするわけだな。この会社の株の株価は今後上がりますよ、持っておいたほうが得ですよ、なんて明日の天気も読めねぇくせに言いやがる」

 株屋、と言う言い方もどうかと思うが、証券マンが親にいる児童だって居るのだから、もう少し表現はオブラートに包めないものか。

「だがもっと悪いヤツがいやがる。『仕手筋』っつってな、こいつらは先に銘柄押さえておいてから、ネットとかでカモにガセネタ掴ませて買わせることで値段を釣り上げて、てめぇらはキリの良いところで売り抜けてガッポリ儲ける。するってぇと当然、その銘柄の株価は音を立てて下がっていく。これが『風説の流布』ってヤツだ。小川、これは善か悪か?」

 題材が経済ヤクザそのものですよ先生、とツッコみたいところで、質問はクラス一どころか学年一位を譲ったことのない小川博敏に振られると、小川君が椅子から立ち上がる。

 そう、このクラスのルールに「発言する時には起立」と言うルールが追加された。これも「極道先生」の施策である。

「悪いことだと思います」

「なぜだ?」

「自分たちが儲けるために、ウソをついたからです」

「良いだろう、正解だ。座って良し」

 小川君はそんな簡単なことを僕に訊くなんて、と思わせるような少し憮然とした表情で着席した。

「つまり連中は、自分たちが安く仕入れられる銘柄を先に大量に押さえちまって、しかも自分たちで急激に買いを入れて値上がり感を演出し、有りもしねぇ理由でこれからさらに値上がりすると言うウソをつく。だから国もこれを法律で禁じた。『株価操作』はお上が厳しく法律で裁く。だがよぉ、貴様ら――」

 さっきから道徳の授業なんだか、社会の授業なんだかわからない話を続けながら、先生がそれまで黒板に図を書いてお金の流れを説明するのをやめて、六年椿組二十八名に向かって問い掛ける。

「――それに引っ掛かったヤツは、本当にただの被害者か?」

 そのとき、ほぼ全員がハッとした。

『風説の流布』に乗せられてその株を買った人たちは、確かに騙されていたことには違いないけれど、反面として彼らもまた濡れ手に粟を求めた欲深さを持ち合わせている。それを以ってただの被害者だと、本当に言って良いのか、と先生は問うている。

「……木村。どう思う」

 誰もがこのタイミングで指されたくない、と思っていたところ、その矛先は木村に向いた。木村はおずおずと立ち上がる。

「ただの被害者だと思います」

「なぜだ?」

「誰だってお金は儲けたい、お金はあるに越したことはない、でもそんな心の弱みに付け込んでウソの情報を掴ませられたのは、ただの被害者です」

「良いだろう、座れ。川端、てめぇはどう思う?」

 ちくしょう、僕に矛先向けやがった、仕方がない。

「……騙されたほうにも問題は有ると思います」

「なぜだ?」

「情報の確かさを確認せずに飛び付くのは、詐欺被害者に有りがちな対応です。そんな心理を巧みに突くことは確かに悪いことだけど、被害者もまた彼らに加担した側面は、否定できません」

「……良いだろう、座れ」

 先生はこういう時、相反する意見が出ることを好む。国語の授業では、教師が喜びそうな偽善者を装って答案を書け、なんて目も当てられない指導をする癖に、実際には百家争鳴のような意見のぶつかり合いを好むのだ。

「木村の言うことも、川端の言うことも、言ってることは正反対だが実は正しい。それが『観点の違い』と言うヤツだ」

 そう言って、また先生は黒板に新しい図を描く。

「木村の意見は仕手筋に巻き込まれたカモの観点からの意見だ。日本は資本主義国家だから、ゼニの有る無しは立場を超えて有るに越したこたぁねぇ。それに対して川端の意見は仕手筋の、つまり悪党のモノの見方だ」

 そう言って先生は、僕のほうを見ながらニヤリと微笑む。途端に背筋に悪寒が走った。

「『株価操縦』は歴とした犯罪だ。つまりこれは、国が悪いことだと認めている。だから川端はサツにパクられるが、木村もまた損を取り返しようがない」

 教室に軽い笑いが起きる。僕はその仕手筋とやらの連中じゃないです。やめてくれよ、大人になったら経済犯にでもなりそうなイメージを植え付けないでくれよ。

「俺は貴様らに、法を犯すような曲がった人間にはなって欲しくねぇ。だが、悪いことをしようとする連中の手口を、心理操作を甘く見たら貴様らも嵌め込まれる。そいつを知らねぇと、どこかで手痛い損をするもんだ。だから木村も川端も正解だが、貴様らに恐らく欠けているのは、川端の視点だ」

 よっ、さすが地獄耳のバタヤン! などと冷やかしの声が掛かる。やめてくれ、僕はそんな謀略家じゃない。

「正義と悪、その形はキッパリとシメられるほど簡単じゃねぇ。道徳心に外れてようが、現実はカネ持ってるヤツの言うことが正義になることだってある。だが俺は、なるべく貴様らには道徳心を忘れねぇで居て欲しい。そこで、貴様らにちょっと早目の『夏休みの宿題』を言い渡す」

 教室がブーイングで沸き返ると、先生は出席簿を教壇に叩き付けた。「静かにしろ」と言う意味である。

「なに、これ以外の宿題は出すつもりねぇからよ。どうせ夏期講習で忙しいだろ? 俺から貴様らに出す宿題は、たったこれだけだ」

 そう言って先生は、また黒板に向き合うと、小学校教員とは思えない相変わらずの乱暴な筆跡でこう書いた。


『なぜ殺人は犯罪か、〝自分の言葉〟で論ぜよ』


 ……先生、普通にドリルと絵日記にしてください。




(三)


 修学旅行も大概だった。お決まりの「東京で社会見学」と言うコースだったが、その間僕らはほとんど先生の姿を見掛けることはなかった。

「良いか貴様らぁ! 貴様らが見てきたもの、見てきたこと、そこから学び取ったこと、それを作文にして提出さえすれば、犯罪と迷惑行為以外はなにをしようと何処に行こうと構やしねぇ、貴様らの勝手にしろ! 但し、集合時間には遅れんな! 良いか!」

 東京駅の丸の内南口に並ばされた僕ら六年椿組一同は、その一言を前に元気良く返事をして、それぞれが思い思いの場所に散って行く。その様子を僕は眺めて、一人ぽつんと取り残される。

「川端。なに考えてやがんだてめぇ」

「僕は学級委員ですのでね。万が一のときは先生と非常連絡を取る必要がありますし、先生がお好きなパチンコや、首都圏では当たり前の昼飲み、なぁんてところにシケ込むようでしたら、学年主任様にチンコロさせていただかなければなりませんから」

 そう言うと、先生は苦虫を百匹噛み潰したような顔をした。

「クソッタレ、どこで覚えたんだチンコロなんて」

「先生のご指導のお陰ですよ」

 チンコロとはヤクザ用語で言う「密告」のことだ。

「主任がインネン付けてきたら、新橋のパチ屋にでも居るんじゃないですか、とか適当なこと言っとけ。俺は俺の用事を済ませる、てめぇもちゃんと課題に向けて動きやがれ」

「それは良いですけど、先生はどちらへ?」

 先生はすでに改札口を通ろうとしていて、僕に向かって振り返ることもなく言った。

「母校の師匠に、ご挨拶だ。ちゃんと先公になりやしたぜ、っつってな」

 やれやれ、師匠も弟子がアレでは気を揉むだろう。

 各々が好きに東京観光をし、レポートの提出をどうしようかと言う談義に華やぐ、ホテルへと向かう観光バスの中、極道先生は引率のバスガイドさんにビビられながら、一切を無視して居眠りを漕いていた。

 その晩、ホテルで一斉宿泊だったが、椿組の人間は消灯時間を正確に守り、一切の悪ふざけもせずに行動規範を守った。そのことを後に、学年主任が相好を崩して賞賛していたが、なぜ椿組だけがそれほどにまで従順だったか、その理由は極めて簡単だ。

 ルール違反者は、通知表の評価を2つ下げると言うお達しで、廊下で正座などと言う屈辱的な刑罰よりも重い足枷が嵌められていることを僕らは体感的に知っており、且つ「極道先生」ならその罰を確実に実行するだろう、と言う確信が有ったからに過ぎない。


 我らが「極道先生」と言えば、やっぱり学校行事のことは欠かせない。修学旅行もそうだが、夏休み前に実施される合唱コンクールもそうだ。

 それまで「補習組」と呼ばれ、週一のテストの結果で放課後に補習を実施される児童はまだ居たが、野本と木村が、放課後をコンクールに向けての練習に当てたいと申し出たところ、合唱コンクールまで補習授業を中止すると先生が言った。

 クラスの実質的なボスがそう言い出してしまった以上、僕らもコンクールに向けて懸命に練習した。こと、音楽に関しては人後に落ちない木村の奮闘と、それをバックアップする野本の存在が、僕らを懸命に奮い立たせたが、結果は三クラス中三位と惨敗に終わった。

 コンクールが終わって、教室に戻ってから、木村はずっと泣いていた。あれだけみんな一生懸命練習したのに、どうして、と。野本もまた、参謀役の手酷い落ち込みぶりを見せられては、励まさざるを得ない。そこに、何食わぬ顔をして先生が教室に入ってくる。

「貴様らは、この一ヶ月良く頑張ったんだろうが、結果がそれについて来なかった。さぞや悔しかろうよ。だがな貴様ら、このことから貴様らが学ぶことが一つある。貴様らはこのことを実感するに足る体験をした、それはコンクールで一位になることより、いくらも重要で絶対的なことなんだよ」

「勝つことより重要なことってなんですか!?」

 泣き崩れる木村のそばに寄り添っていた野本が声を荒げた。

「努力っつーのは、報われないこともあんだよ」

 クラス全員が、思わず顔を見上げた。

「良いか貴様ら、履き違えんじゃねぇぞ。努力は絶対に報われるなんて思い上がるな。努力はそら必要だぜ、当たり前だろ。だがそれを評価してやれんのは、貴様らがこの一ヶ月どれだけ努力してきたかを目の当たりにした、俺だけだ。その頑張りを評価してやれるのは、俺しかいねぇ。コンクールの審査員には、貴様らが本番で出した結果しか評価する材料がねぇんだよ」

 ほぼ全員が俯く。そうだ、僕らは確かに勝利に向けて努力を積み重ねてきた。だけど、結果は出せなかった。その「努力」の部分は、「結果」として結実しなければ、誰もそのプロセスを評価してくれるはずもない。

 先生が言っているのは、今回の合唱コンクールのことだけじゃない。僕らが実際に、一人ひとりがその場に立たされる時、つまり来年の中学受験に向かってこの話をしているのだと、クラスの全員が気付くのに時間はかからなかった。

「天才でもねぇ限り、努力はしなきゃ勝てねぇ。でも努力したから全員が勝てるわけじゃねぇ。どれだけ頑張ったって負けるときゃあ負けんだよ。努力の量は誰も評価しねぇ、評価されたきゃ結果を出せ。これが図らずも、合唱コンクールが貴様らに突き付けた、残酷な現実と理不尽な社会の一端だ」

 先生の言葉は、一見厳しい様で実は優しい。理想で語るのではなく、具体化された現実を明確に見せ付ける。それが「極道先生」のやり方だった。

 先生はそれだけ言うと、教壇を降りて木村のもとに赴いた。

「木村、すまねぇ。勝たせてやれなくて、すまなかった」

 先生は深々と頭を垂れる。

「先生のせいじゃないです! 私が……私がもっと、みんなのことをちゃんと見られていれば……」

 泣きじゃくる木村を、先生が抱き締めた。

「木村は十分頑張ったじゃねぇかよ。木村だけじゃねぇ、椿組全員が木村のために頑張った。今回は届かなかったけど、貴様らが頑張ったことだきゃあ、俺が絶対に忘れねぇ。でも悔しいよな……俺だって悔しいよ」

 強面の目から、ポロリと涙が零れた。

「勝たせてやりてぇ、もっと練習時間をくれてやりてぇ、そう思ってた。でもすまねぇ、俺が捻出できた時間はあれだけだった。木村の悔しさは、俺の悔しさだ。貴様らの負けは、俺の負けだ。だから俺だって悔しい」

 そうだ。悔しいのは、木村だけじゃないのだ。だから先生は、最初に僕たちの気を締めるために、敢えて厳しい言葉を使ったのだ。

「貴様ら、今日の悔しさを、今の気持ちを、絶対に忘れんじゃねぇぞ。それは貴様らが、これからずっと生きていく上で大事な、教科書よりも大事な教材なんだぜ。なぁ木村、お前がこれから立ち上がるとき、絶対に振り返らなきゃいけねぇ、大事な足跡なんだ」

 気が付くと、クラスからはまるで葬式にでも来たような啜り泣きが聴こえる。

「だから、俺は貴様らに嫌われても、これだきゃあ絶対に教えてやる。努力は必ずしも報われるとは限らねぇ、けれど努力を怠ったヤツに勝利は得られねぇ。忘れんな、貴様らの努力を! 忘れんな、今日と言う敗北の日付をぉ!」

 奇妙なことに、僕らは敗北したことによって逆に結束した。僕はこのことを「極道マジック」と呼んだことを記憶している。

 それと同時に、僕らは「極道先生」と言う人間をクラス担任として認めた。僕らの担任は、口も悪いし字も汚いし、何より僕らをほとんど放任しているけれど、誰よりも僕らのことをちゃんと見てくれている。

 始業式の日に感じていた不安は、この日を以って完全に椿組から払拭されたのだ。




(四)


 夏休み。

 僕らは先生の言った通り、夏期講習に追われていた。しかも、微妙に困った「宿題」を抱えたまま。

 ある日の夕方、塾から帰った僕に母が言った。

「裕貴、アンタちゃんと学校の宿題やってんのかい? 何でもえらいおっかない先生だって言うじゃないか、ちゃんとやんなきゃダメだよ」

 おっかない、ね。まぁ確かに怒るときはメチャメチャ怖いよ、何せあの風体にあの口調だからね。でも僕らは少なくとも、極楽寺重顕と言う教師を「怖い」人間だとは思っていない。

 いや、ある意味怖い側面はある。人間と言うものを、社会と言う次元で輪切りにしたその断面を、小学生に容赦なく突き付けてくると言う部分に於いては。

「宿題なぁ……確かに困ってはいるよ。取り付く島もないからね」

「そんなに大量に出てるのかい? 中学受験だって有るんだし、その点に手厚いと聞いたから御来堂に入れたのに」

「量はたった一つ、しかも科目は道徳でね」

「道徳の宿題?」

「うん。『なぜ殺人は犯罪か、〝自分の言葉〟で論ぜよ』、ってね。作文が出てるだけだよ」

 母はそれを聴くと、呆気に取られた顔をしていた。母がどう言う理由で驚いたのかは、正直わからない。子供に出す宿題ではないと思ったのか、中学受験に結び付かないと嘆いたのか。

 どちらにしろ原稿用紙を三枚ほど埋められれば、夏休みの宿題にはケリが付くけれど、その難易度は思った以上に高い。何せ〝自分の言葉〟で論ぜよ、と言うのだから、参考文献を借りてきて引用したのでは、先生の本意とはかけ離れたものになる。

「それよりお母さん、この間の模擬テスト却って来たよ。叡智学園やっとA判定が付いた、後はこのまま行けたら良いかな」

 まだ呆気に取られている母に結果表を渡すと、僕は自室に籠もり、模擬テストで出来の悪かった部分の復習を始めた。

 努力は必ずしも報われない、けれど努力を怠った者に結果はない。その言葉を重く受け止めるのか、それとも「ダメな時きゃあダメだろ」と、まるで先生の台詞のように軽く考えるのか。どちらにせよ、選択は自分の選んだベストだと信じるしかない。

 僕は、重く受け止めていた。




 夏休み中のある日、気分転換に学校の図書室に来てみた。と言うより、塾の自習室が満員だったので、避難所を求めてやってきた、と言うだけなのだけれど。

 学校は夏休み中も普通に開放されていて、先生たちは授業がなくとも勤務のために学校に来ている。当然ウチの「極道先生」も、クソ暑くてやってらんねぇ、などと言いながら頑なに脱がないピンストライプのスーツを着て、学校に日参しているに違いない。

 図書室もごった返しているのかな、と思ったが、逆にほぼ無人に等しかった。そんなガランドウの図書室の中に、見慣れた顔が本を読んでいるのを見掛ける。

「小川君じゃないか、なぜこんなところに?」

「ここが一番家から近い図書館だからだよ。それよりバタヤンこそ、なんでわざわざ電車に乗ってまで学校に?」

「ああ、塾が家の近くなんだけどね。自習室が満員で、家に居ると妹が構われたがってうるさいんで、どこか無いかと考えていたらここを思い出した、って寸法さ」

 ふぅん、と小川君は一言だけ返すと、また読んでいる本に意識を向けていた。背後からチラリと覗いたその文面には、何か見たこともないけどたぶん数学っぽい式がズラズラと並んでいる。彼はとっくに小学校の教育課程なんか飛び越えていて、きっとこういうのも理解しているんだろうと思った。

 取り敢えず、見知らぬ顔でもないのに離れて座るのもそれはそれで微妙だと思い、僕は小川君の目の前に座った。別に僕が向かいにいるからと気が散るタイプでもないだろうし、僕は僕でわからないところを彼に訊くことができる。

「……そう言えばバタヤン、叡智行くんだっけ?」

 珍しく小川君が、僕に向かって話し掛けてきた。

「ああ、第一志望はね。まぁ、行けたら良いかなと言うレベルだけど。小川君は教大付だっけ?」

 教大付と言うのは、見たまんま大学の付属校で六年一貫の中等学校だ。生徒の自主性を重んじていて自由な校風ながら、有名大学への進学率が高い。僕が目指している叡智学園よりも偏差値は高く、国立だから学費も安い。だから県内から優秀な連中がこぞってやってくる名門中の名門だ。

「そうだけど、別に僕は中学なんてどこでも良いと思ってる。僕が御来堂に入ったのは、単に家から近かったからだよ」

「へぇ、家に近かったから入れちゃうなんて、六年前の僕の母親が聞いたら腰抜かすかもね」

 からかい半分に言った言葉を、あまり小川君は意識してくれなかったようだった。

「バタヤンも、教大付来いよ。どうも今年御来堂から教大付受けるヤツ、僕しか居ないらしいんだ」

「えぇ? 柏組の久松とか、榴組の吉原は?」

 僕は学年のトップスリー、と言っても小川君に勝ったことはないが、毎回二位争いで鎬を削る二人の名前を挙げた。

「久松は東京に下宿だってさ。東大理Ⅲまっしぐらだよ、現に修学旅行だってわざわざ本郷キャンパスまで下見に行ってきたらしいしね。吉原は鳳陽女子、吉原観光グループの御令嬢だからね。そんなわけで、今のままだと仮に教大付に受かっても同級生が一人もいない。それはさすがに、僕だって寂しい」

 そんな感情を持っているなんて思ってもみなかった。第一僕はともかく小川君なら教大付でも寝ながら合格するだろうし、同じ小学校からの進学者がいないことを寂しいと表現するような人間だとは、考えたこともない。

「うーん、せっかくだけど僕にはちょっとね。久松に並ぶくらいの成績になったら、そんな大口も叩けるんだろうけど」

「……バタヤンは、目立ちたくないだけだろ?」

 本から目を上げた小川君が、まるでウチの「極道先生」のような鋭い目付きでそう言った。

「良く知ってるね。誰にもそんなこと、言ったことないのに」

「知ってるよ。一年生からずっと同じクラスで、気付かないんだとしたらよっぽどのバカか、他人に関心がないかの二択だよ」

「小川君は後者だと思っていたんだけどね?」

「そう見えるだろう、けど僕はバタヤンと同じくらいちゃんと周りを見ているよ」

 それはそれは、僕はこの天才児の性質を五年以上に渡って誤解していたようだ。

「でもねバタヤン。君は君が思っている以上に、十分目立つ存在だ。君が自分のことを、目立たない人間だと思い込んでいるのなら、その認識は小学生のうちに改めたほうが良い。第一、野本が君に良いように使われていることも、野本が君の才気を見込んだ上でのことだと、ちゃんと気付いていると思っていたのだけどね?」

 おっかねぇ、この小学生。

「ああ、まぁ……その辺の現状認識は追々改めていくとして……ははっ」

 ここまで来るとさすがに笑ってごまかすしかない。無理矢理僕がその話題を打ち切って、問題集に取り組んでいる様子を見せ掛けると、小川君はまた意識を本に戻してくれた。

 でも、僕の気持ちは大きく揺らいでいた。

 教大付かぁ、と、心の中でそっと呟いたつもりが、いつの間にか右手のシャーペンはノートに「教大付」と書き記していた。




 夏休み中に、この学校では「三者面談」が行われる。

 もうすぐ夏休みも明けて、早々には実力テストと言う名の「夏休みの頑張り度合い」を計測する例のヤツが待っている、と言う状況で僕の順番が回ってきた。母と僕の二人は、面談室の前で、母は特に少し緊張した面持ちで呼ばれるのを待っていた。たまたま一つ前の順番だった横川と、横川のお母さんが面談室を出て、早速二人はやいのやいのと揉めている。

「川端君、入ってください」

 間違いなく先生の声だが、今先生は確かに僕を君付けした。やはり親が居る前では、いつものあの調子にはできないと言うことなのだろうか。僕は母の手を引いて、面談室に入った。

 面談室に入って驚いたのは、先生がピンストライプのスーツを着ていないことと、あのサングラスみたいなメガネを掛けていないことだった。ただ、それでも細面で眼光の鋭いところは隠しようがなく、明らかにアンバランスだった。

「お母様もお忙しいところ、ご足労いただきありがとうございます。さて、川端君は叡智が第一志望だったね」

 声色もいつもより全然おとなしい。もしかして極楽寺重顕、本当の人格はこちらなのではないかと思うほどにていねいだった。

「それなんですが……」

 口籠る。まだ両親にも塾の先生にも言っていなかったことを、僕は今ここで初めて打ち明けようとしている。

「……教大付に行きたいです」

 それを聞いて驚いたのは母のほうで、先生は全くの無表情のままだった。

「そう、教大付に。川端君は大変優秀ですが、教大付となると成績として申し分ないとは正直言い難く、幾らかのチャレンジとなります。ただ、幸い叡智とは試験日程も被らないし、叡智を滑り止めにして教大付と言うのは、良い選択だと先生は思います」

 先生は淡々と言った。まるで別人のように。

「……お母様は、どう思われますか。息子さんは、この時期に志望校のランクを上げる判断をしました。ですが私は担任教師として、この決断に拍手を以って迎えたいと思っています。叡智より学費も安いですし、有名大学への進学率も高い教大付を選択されることは、理に適っていると思いますが」

「は、はいっ! む、息子が言うのでしたら!」

 ああ、そうか。お母さん、実はビビってんのか先生に。まぁ無理もない、いくらスーツを無地のグレーにし、メガネをまるで昔の文豪みたいなロイドフレームにしたところで、そのレンズの奥の目だけはごまかせない。先生、もしかして横川のお母さんもそうやってビビらせたんですかね。いや、勝手にビビってるだけだろうけど。




(五)


 種を明かしてしまえば、夏休み中に僕が見た極楽寺重顕はおおよそ幻だった。ないしは別人だった。そう思うほうが腑に落ちるほど、先生と二学期に教室で再会した時には、いつもどおりの「極道先生」だった。

 二学期になり、難関校を目指す組は朝に、ボーダーラインを上げたい組は放課後に、それぞれ「補習授業」が組まれるようになり、僕の朝は一学期よりも二時間も早く始まることになってしまった。

 その分、課題はより難関校対策に向けて厳しくなり、もはや塾の内容さえ上回るようになっていく。補習授業の予習と復習だけで手一杯になり、逆に塾のほうが疎かになり始めたので、僕は二学期早々に塾を止め、「極道先生」のやり方に付いていくことを選んだ。これが先生の言う「報われない努力」だったとしても、結果を出す最善の選択をしたと僕は思っていた。

 ボーダーライン組の補習授業も相当ハードなようで、こちらは予習よりも復習に重点が置かれているらしく、毎朝眠そうな目をして登校してくる広橋や横川の顔を見ると、そのハードさが滲み出る。僕らだって毎朝早起きして頑張ってるんだけど。


 座学の勉強が熾烈さを増す中、僕らはそれゆえに学校行事に鬱憤晴らしの口を求め、合唱コンクールの轍を踏まぬよう、より懸命に取り組むようになった。受験が有るから学校行事には積極的な参加なんてしたくない、そんな始業式の頃の思いを「補習授業」と言う形で吹っ飛ばしたのは、もしかするとこれも先生の作戦の一つだったのかも知れない。

 そんな六年椿組の意地とプライドが爆発したのは、当然のように「運動会」だった。

 最も得点の高い「全員リレー」は、休み時間などを利用して特に広橋と野本――これだから文武両道が果たせる人間は怖い――の手引きで練習が進められていた。

 徒競走はどうしたって苦手な人間が多い。僕もその一人だ。だが広橋は、どうやったら今よりもタイムが縮められるか、一人ひとりフォームをチェックしてポイントを矯正することで、明らかにタイムが改善していった。僕らもやればできるんだと言う達成感を得られたことで、より一層この練習に熱が入ったものだ。

 本人の元来の性格だろう、何より熱心だったのが、我らが「極道先生」であった。

 先生は棒倒しや騎馬戦の戦略から戦術まで、細かく体育の時間を使って「指導」し続けた。ただ問題は、その言葉の過激さに有って、

「攻撃は殺すつもりでやれ! 向こうも殺すつもりで来ると思え! 良いか、騎馬戦は騎馬武者同士のぶつかり合い、つまり合戦だ!」

 そんな物騒な運動会はゴメンだ。だが、先生の言うことにも一理ある。誰もが勝利に浴することはできず、必ず一敗地に塗れることも有る。どんなことでもベストを尽くさなければ、いや、仮に尽くしたからとて悔しい思いをしないとは限らない。でも。

「川端ぁ! もっと殺すつもりで帽子取れぇ! 横川も逃げ回ってねぇで相手のタマ取って来いやぁ!!」

 ……先生、トラメガで物騒なこと叫ばないで。運動会は保護者も見に来ます。


 補習授業でこってりとアタマを使わされたお蔭で、僕の成績は柏組の久松や榴組の吉原に肉薄できるようになったことが、椿組の評判を高らしめた頃、秋晴れの中で僕ら六年椿組にとって最後の行事らしい行事――学芸会も有るけどあれは勝敗が付かないので――である、運動会が始まった。

 一年生から六年生まで、全学年がまとまって一つの「椿組チーム」となって戦うこの運動会も、当然六年生が主体となって各学年との結束を高めて本番に臨んだものの、最後の種目である六年生の「全員リレー」を前に、チームとしての成績は三組中最下位。仮に全員リレーで勝利して得た得点が入ったとしても、二位にはなれるが一位には届かない。ああ、まぁ棒倒しも騎馬戦も、気合が空回りして負けたのが悪いんだけど。

 チームとしてはテンションがダダ下がりの中、なぜか六年生のお兄ちゃんお姉ちゃんたちはハツラツとしていた。なぜなら、僕らには「全員リレーで勝つ」と言う目標がまだ残っていたからである。広橋キャプテンの声掛けで、クラス全員が一つの円陣を組んだ。

「チーム優勝はもう無ぇけど、俺たちの最後の種目だ。絶対に勝つぞ!」

 おーっ! と気勢を上げて、僕らは運動場に飛び出して行く。その光景を、我らが「極道先生」は運営本部のテントから見つめていた。

 こういう時、先生は僕らに何も言わない。言わなくても貴様らわかってるよな、と言わんばかりの目付きで、僕らの背中を押してくれる。保護者も見に来る中、先生はメガネはいつもどおりで、服はジャージだったから保護者の目くらましにはなっただろうか。

 もっとも、すでに六年椿組はすっかり、向川先生が見たら腰を抜かすほどの「戦闘的集団」と化しており、そういう意味ではすっかり極楽寺イズムが浸透してしまっているのだけれども、その戦闘性は「全員リレー」の号砲が鳴ったところで最高潮に達した。

 オーダーは広橋と野本が組んだ。僕らができることは、百メートルを全力で走ることだけだ。どのクラスも足の速い連中は後半に置いていたが、広橋は「その裏をかく」として、自分以外の俊足をバラして配置した。結果、道中は先頭と二位を行ったり来たりしながら、圧倒的な差を付けず、付けられもせずに済んでいる。僕を含めた足の遅い連中も、必死に食い下がって差を付けられないように健闘した。

 残りは二走、僕が受けたバトンはアンカーの広橋に繋がる。だが、同走は柏組も榴組も俊足揃い。手前の野本が差を付けてくれなければ、あっという間にその差が広がるかも知れない。まして、柏組も榴組も「全員リレーで勝ったほうが優勝」なのだから、そのモチベーションの高さはハンパではない。だが。

「――負けられねぇんだよ、椿組いいいっ!!」

 ほぼ並んでバトンを受けた男子二人を韋駄天・野本さくらが、絶叫を轟かせながらぶち抜いて行き、みるみる差は広がっていく。

 その面構えは、追われる立場で有りながら目の前の獲物を追い求める、肉食獣のような形相だ。

「かぁわぁばぁたああああっ!!」

「任せろっ!!」

 野本の勢いが乗り移ったように闘志だけは人一倍にバトンを受け、全力で走る。

「バタヤン、後ろを気にするな! 前だけ見ろ!」

 広橋の声がよく通って響く。恐らく差はものすごい勢いで縮まっているに違いないが、僕がそもそも後続との差を意識しているとでも? そんな余裕が、無酸素運動中に生まれるような運動能力は僕にない。

「広橋いいいいっ!!」

 アンカーで待っている広橋が、にっこりと笑った。しかし余裕のない僕の耳にもしっかりと後続の足音が至近に迫っているのがわかる。野本が作ってくれた貯金を、僕はたった十数秒で使い果たしたらしい。

「バタヤン、ナイスランっ!!」

 軽やかに僕の手元からバトンをひったくった広橋が、あっという間に二人を置き去りにして、その俊足ぶりを遺憾無く発揮する。

 速い。広橋が一迅の風のごとく、軽やかにトラックを駆け抜けて行くと、五メートル以上の差を付けてあっさりとゴールテープを一位で切った。

「勝ったああああああああ!!」

「よっしゃああああああああ!!」

 明らかに周囲とは違うテンションで沸き返る六年生と、それを眺めている下級生たちの温度差が激しいが、僕たちはそんなことを気にしない。勝利の余韻に浸りながら、僕らは報われる努力も有ることを、この日知った。

 だが、我らが「極道先生」は、運営本部のテントから出てくるでもなく、僕らを遠巻きに眺めていたのを知っていたのは、恐らく僕だけだった。




(六)


 二月初め。教大付中等学校の合格者発表が有った。

「一八九……一八九……うん、有ったな」

「一九〇! やった、やってやった! ざまぁみろ!!」

 同じ学校からの出願で受験番号が並んでいた小川君と僕が、自分たちの受験番号が貼り出されているのを確認して、二人で思わず抱き合った。小川君は余裕だったろうけど、僕は直前の模擬テストでもまだ五分五分の仕上がりだったし、国算理社の四教科で自信が有るとは到底言えなかったけど、たとえビリでも何でも合格は合格だ。

「やったな、バタヤン。君はやればできる人間だと思っていたよ」

「小川君のおかげだよ。君が夏休みにああ言ってくれなければ、教大付を受けようなんて思いもしなかったさ。それにしても、まさか合格するとはね」

 母は思いがけない息子の大活躍に、泣かんばかりの喜びようで、その日の晩は盛大に家族四人で合格パーティを催してくれた。

 妹は兄の偉業をどこまで理解しているかは知らないが、少なくともこれで高校受験を回避することはできる。人生設計のモラトリアムは、まだ残されていた。


 三月下旬、僕ら六年生の卒業式。

 全員の進路はもう決まっていた。目標としていた進路に合格できた者、努力の甲斐なく希望通りの進路に進めなかった者、様々な思いが交錯する中で卒業式が行われた。式は滞りなく行われ、特に感傷的になることも僕にはなかったが、ブラスバンド部の演奏する「蛍の光」が流れる中で講堂を後にする時は、少しだけセンチメンタルになった。

 教室に戻り、同じ中学に進む者、別の学校に行くことになった者、それぞれがお互いの思いを交換し合っている。なんかこう、青春ってこういうことなのかな、などと思いながらいつもの通り教室の隅からみんなを見渡していたところに、進学先の制服に身を包んだ野本が僕の席にやって来た。

「……どうしたの、野本」

「あ、あのさ。ちょっと良い?」

「良いけど、なに」

「な、な、中庭に、一緒に、き、来てくれないかなー、って」

 なんだろう、心の奥底から不安な挙動だ。

 野本とは三年生から同じクラスだったけど、こんなくにゃくにゃした野本は見たことがないし、この後でなにをされるのか想像が付かないが、袖にすれば今度はクラスの女子になにをされるかわかったもんじゃないので、彼女の言うことを聞くことにした。


「……で、わざわざ寒い中外に出てきたわけだけど、何の話なのかな」

 春先とは言え、今日はまだ多少肌寒い。僕も卒業式に合わせて仕立て上がった教大付のブレザーを着ているが、冬服とは言えコート無しにはまだ寒い。

「その、えっと……教大付、合格おめでとう。小川とアンタだけだもんね、ウチから受験したのって」

「ああ、それはありがとう。野本も叡智合格おめでとう。まぁ、野本の成績なら余裕だったよね」

「そうね、あたしの成績なら叡智くらいはね!」

 良かった、やっと僕の知ってる野本に戻った、と思ったのは一瞬だけで、野本はまたすぐに元に戻ってしまった。

「あの、さ。いろいろ、ありがとうね」

「僕が野本に感謝しなきゃいけないことはいっぱいある、けれど野本が僕に感謝するようなことはないだろ。合唱コンクールも、運動会も」

「……やっぱりそう言うんだ。川端って、ずっとそうだよね。なんか自分はちょっと離れたところから、あたしたちのこと見てる感じがしてた」

 そう、ならば恐らくその見え方はみんな共通しているに違いない。

 意図的にそうして見せていたことは否定しないけれど、それがもしなにかみんなの印象を悪くしているのだとしたら、それは申し訳なかったかも知れない。

「でもね。川端がそうやって見ててくれるし、美緒奈もいてくれるから、あたしは思う存分想いのままで振る舞えたの。あたしがどんなバカやりそうだとしても、美緒奈かアンタが止めてくれると信じてたし。だから、あたしが勝手に頼ってた。だから……」

 そう言うと野本は、ブレザーのポケットから封筒を取り出した。

「……読んで」

 僕が手渡された封筒を受け取ると、野本は全員リレーのときよりも速そうなスピードで一人校舎に戻ってしまい、僕だけが一人中庭に取り残された。もう、手紙なんて読むまでもないのだけどね、これまでの言動と行動から言って。

 野本は意外とアナクロだなぁ、と思った。そのことでむしろ、初めて彼女のことを可愛いと思えた。




 取り敢えずまだ卒業証書を先生からもらわなければいけないので、教室に戻る。野本は僕と目を合わせようとしないし、木村は珍しく「わかってんでしょうね」みたいな目付きで僕を睨んでくる。広橋と横川がそれを見て口笛で僕を冷やかす。やれやれ。

 騒々しい教室に、我らが「極道先生」が卒業証書の束を担いで入ってきた。

「ほれ、さっさと座れガキ共ぁ! 今から卒業証書を配るが、三月いっぱいはまだ貴様らは小学生だ。バスに乗るときは偉そうに大人運賃を払ったりせず、ちゃんと半額で払いやがれよ。逆に四月からは中学生だ、もう子供運賃は使えねえ。それだきゃあ、ちゃんと守りやがれよガキ共。そんじゃ出席番号順な、青木常久ぁ――」

 一人ひとりに卒業証書を手渡しながら、先生はそれぞれに声を掛けていた。

 その言葉は先生が実はまめまめしく個人のプロフィールとキャラクターを掴んでいたことを如実に示すものであり、「極道先生」と言う異名には似つかわしくない甲斐甲斐しさを持っていたと言えるだろう。

「――川端裕貴ぃ」

 僕の名前が呼ばれたので、教壇まで行って卒業証書を受け取る。

「夏休みに、良く思い切りやがったな。まぁ、てめぇが言わなきゃ俺から言うつもりだったけど、てめぇで決めてしかも勝ったんだからそれが一番だ。おめでとう、それから……ちゃんと上手くやれよ?」

 そう言って先生がニヤリと笑う。そのたびに背筋に冷たいものを感じるのだけは、最後まで治らなかった。

 だからもう、これは本能的な危機察知能力なのではないかと思う次第である。で、ちゃんと上手くやれって、何をですか。実はさっきの中庭の出来事、アンタ知ってるんじゃないでしょうね。

 そうして一人ひとりに卒業証書を手渡しながら、敗れたものには激励を、勝利したものには諫言を付け加えるのを忘れることはしなかった。六年椿組、二十八名。全員の手に卒業証書と証書を入れる筒が手元に渡った。

「よし、じゃあ最後に、貴様らに有り難い話をしてやっからよぉ。ちゃんと耳の穴かっぽじって、良く聞きやがれよ貴様らぁ!」

 全員の返事が一つの塊になって、先生にぶつかっていった。




(七)


「この一年、貴様らはいろんなことに頑張った。それが実を結んだことも、結果が出なかったことも体験してきた。先月の入試についても、望んだ結果を得られたヤツ、思い通りに実力を発揮できなかったヤツ、様々な思いをしていることだろうよ。

 実社会ってぇのは、そのへんのボンクラ教師どもが言うような理想的なモノじゃねぇ。あらゆるネガティブ要因で膨れ上がった理不尽さも、不寛容さも、欲深さも、全部抱えたまま存在するのが実社会だ。だから俺は、学校で教える社会と言うヤツが、現実離れしたものに見えないようにキツいことも言ってきたし、時には貴様らを泣かせたこともある。それについては、すまなかった。だがあくまで、貴様らを思ってのことだと言うことは、忘れないでくれ。


 だが、これだけは聞いてくれ。俺は貴様らに、一つとしてウソもごまかしも教えた覚えはねぇ。逆にごまかしが利けばもう少しマシに見えたかも知れねぇことだって、掃いて捨てるほどあんだろうよ。でもな、俺の『教え子』である貴様らに、そういうしゃらくせぇ真似はして欲しくねぇんだ。

 曲がったことはするんじゃねぇ、ってお前が言うなって思ってるだろうよ。そうだよ、俺は貴様らにとって常に反面教師で在り続けたつもりだ。こんな汚え言葉使いをする先公になんか、絶対なるんじゃねぇぞ。まぁ、言わんでもなりてぇヤツぁいねえだろうけどよ。念のために、一応言っておくよ。


 小学校なんて人生の中で言えば、ほんの僅かな時間でしかねぇ。でもな、小学生までにしてきた体験も、努力も、悔恨も、みんな大人になってからの基礎になる。合唱コンクールで負けたとき言ったよな、いつか貴様らが思い出して、そこから踏み出す一歩としての敗北だと。人間は勝ち続けられねぇ。本当に勝ち続けられるのは、不世出の英雄かペテン師だけだ。俺は貴様らを、ペテン師になんかしたくねぇんだ。そんな本物の悪党になんざ、堕ちて欲しくねぇ。

 もちろん、そりゃあ貴様らが全員英雄だったら言うこたぁねぇよ。でもそうじゃねぇだろ? 俺たちは何度も勝ったり負けたりを繰り返して今が有るんだ。六年椿組は、そうやってみんなで肩組んでやって来た。でもそれは、社会に出るための形だけの通過儀礼になっちゃいけねぇんだ。貴様らがこの一年、六年椿組として得た結束力を、団結力を、戦闘力を、もしこの先嘲笑う大人が居たら、一発食らわしてやれ。


 これからの人生、もっといろんなヤツに会う。立派なヤツも、クソみてぇなヤツもいる。だからこそ、貴様らはクソになんか関わるな。クソみてぇなヤツにもなるな。俺は貴様らに、勉強だけじゃねぇ、そう言った人生としての生き方を全身全霊教えてきたつもりだ。

 ウソはつくな。言い訳をするな。全てのことには理由があり、全ての問題には答えが有る。貴様らは夏休み、そう言ったことを宿題を通して学んだだろう。正義とはなにか、悪とはなにか。俺たちの生きる『社会』と言うものの本質が、権利と義務の契約によって成り立っているものだと言うことを、貴様らはあの短い問題文から学び取ったはずだ。


 これまでよりも、これからのほうがずっと長ぇ、ずっと苦しいぜ。でもよ、辛くなったらいつでもこの六年椿組のことを思い出せ。日本中の、いや、世界中のどこを探しても見付からねぇ、ヤクザみてぇな先公が担任をしていた、このトンデモなクラスのことを。

 このクソッタレに最高なクラスメイトが集まった、最高のクラスのことを。

 俺は六年椿組がそういうクラスになってくれて、本当に良かったと思ってる。でもそれは、俺が作ったもんじゃねぇ。貴様らが自分の手で作ったものだ。

 大人の手なんか借りなくとも、最高にハッピーな場所を作ることができることを、貴様らは証明して見せた。これって最高だろ? だから、絶対に忘れんな。俺のことは、忘れて良いから。


 中学生になる〝君たち〟に、餞の言葉を贈る。

 卒業、おめでとう!」




(八)


 四月初め、僕らは「もう一度」一年生からやり直しになった。


「御来堂学園小学校から来ました、川端裕貴です。趣味は……人間観察かな。去年の夏にここを第一志望にして、ギリギリで入れました。どうぞ、宜しくお願いします」

 まだ幾らもよそよそしい教室の中で、ごくごく普通の先生がクラス担任で、ごくごく普通の自己紹介をする。それがなぜだか奇妙に面映いのは、去年僕が在籍していたクラスがあまりにも特殊で、担任があまりにも型破りな彼だったせいだろうか。

 オリエンテーションも終わり、初日の行事が終了して、さて帰ろうかと言うタイミングで、他クラスに編成された小川君がわざわざ教室までやって来た。

「やぁ、小川君。君のクラスは、どんな感じだい?」

「ああ、野本女史みたいなリーダーシップに長けたアクティブな女子がいるよ。まるでそこだけは椿組をコピペしてきたみたいだった。それ以外は、まぁ普通かな。まだみんな本性までは見抜けないね」

 そうか、さくらみたいなヤツは、他の学校にも居るもんなんだな。そう思うと、奇妙に安心感を覚えた。

「それで、どうしたんだい。帰ると言っても、駅まではそう遠くないし」

「御来堂を見に行こうよ。向こうも新学期だし、あのヤクザ先生が新しく受け持ったクラスも見てみたいと思わない?」

 なるほどね。それはちょっとばかり趣味が悪いと言わざるを得ないけれど、彼が受け持ちになった当初僕らはずいぶんと怖い思いをしたからね。もっとも、その怖さもいつか薄れて行って、その頃には自然とクラスがまとまってる。そんな魔術師みたいな人なんだけどね。

「そうか、でもあの風体で一年生の担任なんかしてたら、校外実習で職務質問だね」

「それは学校側の差配が悪いよ」

 そんなことで笑い合いながら校門を出ると、門の外に叡智学園中等部の制服を来た女子生徒が立っていた。

「さくら、早かったね」

「ウチはオリエンテーションが明日からだから。あ、小川も久しぶり」

「ああ、久しぶり……と言うほどの間でもないけどな。そう言えば、君たち付き合ってるんだったね」

 そうなのだ。

 卒業式の日に、さくらから手渡された手紙は案の定ラブレターで、恐らくその文面の話をするとさくらは顔から火が出る思いをするだろうし、僕の体は物理的に無事では済まないだろう。だから、その日から僕は、野本という他人行儀な呼び方を止めた。

「野本もこれから、御来堂に行ってみないか? ウチらの元担任の様子を、覗き見しに行こうと思っていてね」

「あはは、面白そう。趣味サイテーだけどね」

 期せずしてさくらと同じ思いを抱いたことが、僕には少し面白い。さらに言えば、小川君が当然のようにさくらも誘って一緒に行こうと誘うと言うのも、如何にもマイペースな彼らしかった。


 母校に向かうバスの中で、僕とさくら、小川君の三人で、バラバラになった仲間たちの進路と動向を振り返る。

 広橋は、何とか補習授業で鍛えられたおかげで、スポーツに定評のある私立校に一般入試で入学できた。

 早くも陸上部では期待のエースとして注目されていて、そのまま大学に進んでスポーツ関係の仕事をしたいと言っていた。父親には医学部を目指せと言われていたが、医師より面白い仕事を見付けたいと言って正面から対立中だと言う。

「まぁ、広橋がお医者さんだなんて、想像しただけでおっかないけどね。あの体力バカにはスポーツで輝いてくれてるほうが、いくらもマシよね」

「広橋君かぁ。全員リレーのときの彼は、本当に圧巻だったな。バタヤンは、責任重大だったし緊張した?」

「とんでもない、緊張する暇があるなら足を上げて腕を振るさ。平野と道下が後ろから追っ掛けてくるんだぜ、こっちはサツに追われたホシの気分だったよ」

「はは、バタヤンはまだ先生の影響が言葉に残ってるねぇ」

 まぁね。でもまぁ、そういう表現のほうが、あの時のことを描写するには似つかわしいと思ったから選んだまでだ。

 横川は結局、地元の市立中学に行った。広橋と同じ学校を志望していたけれど、残念ながら届かなかった。横川はあの日初めて、悔しくて泣いたと言うのだから、あいつなりには猛勉強したんだと思う。

 木村は、隣りの県にある音楽大学の付属校に進学した。将来はピアニストになりたいと言っていた木村らしい、思い切った進路の選択だった。

「なるほどね。でも良かったの、さくら。木村を手放しちゃっても」

「手放すってどういうこと? 別にあたしの所有物だったわけじゃないし、美緒奈がやりたいことをやるって言うんだから、応援するに決まってるじゃない」

 そうか。でもいつも二人はセットみたいなイメージが有ったし、さくらはともかく木村は基本大人しい性格だから、恐らく本当はさくらも心配しているのだろうと思うけど。

「それに……今は、裕貴がいるからだ丈夫だよ」

 小川君、ごちそうさまって言って手を合わせるのは、やめてくれないかな。

「まぁ、木村さんは賢いから大丈夫だよ。このじゃじゃ馬を飼い慣らす程度にはね」

「誰がじゃじゃ馬ですってぇ!?」

 小川君、それは禁句中の禁句だよ。


 バスを降り、ここから少し歩く。僕らも通っていた頃に歩き慣れた、通学路の一つだった。ついこの間までの日常が過去になることで、僕らは少しずつだけど大人に近付いて行くんだろうな、と思った。

「そう言えばさ、小川君は将来何になりたいとか、希望あるの?」

 何とはなしに、僕はふと思い立って問い掛けた。

「将来? 考えたこともないけど、まずはいろんな学問に触れたい。いつか僕の中で極めたいことが見つかるまで、僕はまだいろんなことを広く勉強していたいと思う」

 なるほどなぁ。ある意味勉強に抵抗のない、天才肌の小川君らしい意見だと思う。ここで焦らなくとも、どうとでもなると思っているんだろう。

 そう言えばさくらも、同じようなことを言っていた気がする。きっと賢い連中は、どうとでも対応できるから焦って決めることもないのかも知れない。「極道先生」も、かつてそんなことを言っていたように記憶している。

「裕貴はなにかあるの? 将来の夢とか」

 後ろをついてきていたさくらが、不意に僕に話を振り出した。

「……あるよ。もう、決めてる」

「なによ、じゃあ教えてよ」

 そんなに知りたいかな。でも、少し気恥かしくは有るんだよね。

「……僕は、先生になりたい。良いところも、悪いところも、清濁併せ呑んで教えてくれる、あの人のようになりたい。そう、思ってる」

 小川君とさくらは、まるで意外そうな顔をして見合わせた。

「さ、早く行こう。向こうも五限始まっちゃうよ」


 六年椿組・極道先生。

 あなたの教え子たちの未来は、まだまだ茫漠な地平線の、遥か向こうです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

六年椿組・極道先生 紗水あうら @samizaura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ