三話 勇者を選ぼう
土曜の授業中ずっと夏樹は上の空でその内容はほとんど頭に残らなかった。昨日は帰ってからすぐに寝てしまったが、それで起きてみると昨日の出来事は全て本当だったのだろうかと頭によぎった。
もちろん氷華から預かった本は書斎にあるし、スマホを見ればその連絡先も追加されたままだった。
それに手っ取り早く確認したければ適当な扉からあの部屋に入りたいと願うだけでいい。
しかし夏樹は叶の学校が終わったらまた来るようにとの言葉を律儀に守るつもりだった。それを破って部屋に顔を出すのは彼女を信じていないようだし、勇者の選定に疲れて眠っているとすればその邪魔をすることになる。
「おはようございます」
そんなわけで帰りのホームルームが終わると同時に夏樹は空き教室の扉を使ってあの部屋へと足を踏み入れた。
「やあ、早かったね」
そこで目に入ったのはソファにふんぞり返りながらゲームのコントローラーを握る叶の姿。微妙にアンニュイな表情に目の下には薄っすらとした
「えっと…………ずっとゲームをやってたわけじゃないですよね?」
脱出よりもゲームを優先していた姿を昨日見たせいか思わずそんなことを尋ねてしまう。大人として彼女を見直してその言葉に従った直後だったせいもあるかもしれない。
「ふふふ、お姉さんはちゃんと仕事のできる女だよ」
叶は肩を竦めながらゲームを中断してコントローラーをテーブルに置く。
「ちゃんと勇者の選定は済ませたとも…………その勢いのままちょっとばかし休むことなくゲームをしてしまったけれどね」
「ちゃんと寝てください」
ゲームをするなとは言わないが睡眠とのバランスは心がけて欲しい。今回は夏樹と氷華が学校へ行く分の負担を叶が受け持ってくれたわけなので、それで体を壊されでもしたら悪い気がしてしまう。
「わかった、少年がそう言うなら次はちゃんと寝るよ」
「…………ならいいですけど」
素直に従う叶に夏樹は拍子抜けする。なぜだかわからないが彼女の彼に対する評価は出会った時から高い…………なにせ一目惚れだと押し倒されたのだ。まあ、今思えば突然の状況に混乱していた自分同様に叶も混乱していたのだろうが…………実際のところどうなのだろうか。
「なにかな?」
「えっと…………なんでもないです」
思わずじっと見てしまっていたらしく、慌てて夏樹は視線を逸らした。
「ふふふ、あの時の続きがお望みならお姉さんはいつでも歓迎だよ?」
そんな彼の心中を読んだように叶が蠱惑的な笑みを浮かべる。もちろん夏樹はからかわれているのだろうと頭に浮かぶが…………それでも期待する気持ちが生まれるくらいに叶は魅力的な女性だった。
「来た」
しかしそこに平坦な声が響いて来て夏樹はほっと息を吐く…………それが良かったのか悪かったのかを今は考えないことにした。
「おや残念。これはまたの機会だね」
そんな彼を楽し気に見つめる叶に視線を向けないようにして、夏樹は氷華を見る。
「おはよう、氷華」
「うん…………少し遅れた?」
「そんなことないよ」
むしろ助かったかも、とはさすがに口にしない。
「あの女は?」
周囲を見回しながら氷華が口にする。叶の姿が見えないはずはないから探しているのはもう一人の方だろう…………そう言えばシラネの姿がないとそれで夏樹も思い出す。
「ああ、シラネなら昨日君らが帰ってすぐにどこかへ行ったよ。聞きたいことがあったら呼ぶように言い残してね」
「そうなんですか」
まあ神の眷族で天使のようなものと言っていたし他の仕事もあるのだろう。
「呼ぶかい?」
「まあ、勇者を選ぶ時にはいてもらった方がいいですよね」
実際に勇者を育てるという仕事が始まるわけなのだから聞く事もたくさん出るだろう。
「選び終わったの?」
「もちろん、少年にも言ったが私はちゃんと仕事のできる女だからね」
向けられた氷華の視線に叶は胸を張って答える。
「もっとも会社の仕事の方は午前中に電話一本でぶん投げてきたが」
「え」
思わず夏樹の表情が固まる。
「それって」
「働いていた会社に辞めると宣言したってことだよ」
「…………えぇ」
昨日今日で一体何をしているんだこの人はと夏樹は叶を見る。昨日と変わらぬ黒のスーツ姿は彼女が会社勤めであったことを示している…………それをいきなりぶん投げたと口にしたのだ。普通に考えれば正気の沙汰ではない。
「それ、大丈夫なんですか?」
そもそも会社の仕事はいきなり放り出してよいものではないだろう。夏樹も詳しくはないが確か退職は三カ月前にその意思を示すとか規則があった気がする。業務の引き継ぎも当然必要だろうし、抱えている仕事によっては放棄したことで会社に大損害を与える可能性だってあるだろう。
そうなれば裁判沙汰にだってなるんじゃないだろうか。
「少年、私の働いていたのはいわゆるブラック会社だった」
不意に目の座った表情で叶が夏樹を見る。
「薄給の上に休日出勤サービス残業は当たり前で、上司はパワハラセクハラオンパレードのクソ野郎だ。偶の休みも寝て疲れを取らないと持たないから趣味のゲームも碌にできやしなかった」
「…………それは大変、ですね」
社会人経験のない夏樹にそんな薄っぺらい言葉しか口にできなかった。
「ふふふ、ところがお姉さんは昨日までそれが大変だとは思ってなかったのさ。厄介なことに人間というのはどんな環境にも慣れてしまうものでね…………まあ、実際は慣れたと思っても心と体は少しずつ壊れていくのだけども」
いつか破綻するその日まで働くだけの機械となるのだ。
「ところが幸いにも私は栄養ドリンクでも飲もうと部署を出たところでこの部屋に辿り着いた…………そこで少年に一目ぼれしたことで正気に戻れたわけだ」
そして正気に返ればブラックな生活に戻ることなど出来るはずもない。
「私が辞めると告げた時のあの上司の罵声、実に爽快だったよ」
「それは良かったですけど…………本当に大丈夫なんですか?」
「なに、確かに訴えるだのなんだと叫んではいたがね…………実際に裁判になったら向こうの方が困るはずだよ」
なにせ裁判で明るみになったら困ることは向こうの方が遥かに多い。叶は辞めたいだけで退職金だのこれまでの残業代なんかを要求する気は全くないから会社側も結局は放置することを選ぶだろう。
「それにもし面倒なことになっても今のお姉さんにはこの部屋がある」
それが躊躇いなく会社へと退職を告げることのできた大きな要因だった。この部屋には食料や娯楽が勝手に湧いて来るので外に出なくても生活できる…………現実社会が面倒なことになったらこの部屋に引き籠ればいいだけなのだ。
「それは流石にどうかと思いますけど…………」
だからといって夏樹にはそれ以上の事も言えなかった。もしも実際に懸念するような面倒ごとが起こったとして、それから逃避せずに相対しろと離れた立場から言うのは無責任な話でしかない。
「すごくどうでもいい」
そんな二人の会話に少し不機嫌そうな氷華が割りこむ。
「勇者、選ばないの?」
「あ、ごめん」
思わず夏樹が尋ねてしまったせいで本筋から脱線してしまっていたが、叶個人の話題など氷華には興味のない話だったろう。
「えっと、それで叶さん?」
「ああ」
頷くと叶は部屋の中央の長机へと椅子を向ける。そして彼女がかつんとテーブルを叩くと昨日と同じように机上へと異世界が浮かび上がる…………表示はオンオフ可能だったらしい。
「異世界の情報を諸々精査した結果、私はこの場所をスタート地点にするのがいいと思う」
まず場所を叶は示した。夏樹が見やればそこは横に伸びた大陸の中間に位置し、闇に覆われた部分に接した辺り…………縮小された全体図の状態だと山深い場所のようだった。
「えっと、それは神具の場所が近いからですか?」
ぱっと見で夏樹が分かったのはその近くに神具があるという光点があることだ。シラネの話を聞く限りそれは強力な物だろうから、その近くで勇者を選ぶというのに彼も異論はない。
「それも理由の一つだね」
「でもそれならもっと安全なところのでもよくないですか?」
神具を示す光点を見る限り別に闇に覆われていない場所にもそれはある。神具を早期に手にするというのが目的ならば、わざわざ敵勢力の中のものを選ぶ必要はないのではないかと夏樹は思うのだ。
「それなんだけどね、どうにも確認した限り人間勢力にある神具は大体権力者が確保しちゃってるみたいなんだ」
「…………つまり」
「勇者を名乗る不審者にいきなり貸してくれたりなんてはしないだろうねえ」
神が残した強力な武具ともなればそれはもはや兵器だろう。権力者であれば当然自分の国の為に使うだろうし、簡単に貸し出したりするはずもない。
勇者として名声を高めれば可能性はあるかもしれないが、その為に必要な時間を考えれば初期位置を神具に近い場所にする必要もなくなってくる。
「いっそ神具を持ってる権力者を勇者に選ぶのは?」
「それも考えたけどね、結局権力に近い人間ほど自由には動けないんだよ」
権力を持つということは同時にそれに縛られることでもある。その権力を維持するためには当然自分が死ぬような危険を冒すわけにはいかないし、その権力が揺らぐような行動を取ることも出来ない。自らが神具を持って旅立つなんてことはもっての外だろう。
そしてその権力者に仕える者達も基本的にそれを守るために行動する。仮に従者を勇者に選んだとしても、直接危険が及んでいない状況では神具を借り受けて旅立つようなことは許されないだろう。
「だから結局自由に動ける一般人を勇者にするのが一番だとお姉さんは思う」
名声が高まれば立場も出来るだろうが、それを作るためにも最初は自由に動けたほうがいい。
「それは賛成ですけど、場所はもっと安全なところでも」
叶が提示した場所よりは遠くなるが、安全地帯にも他の候補があるように思える。
「そこでもう一つの理由、効率の話になる」
「効率、ですか?」
「そう、昨日シラネから聞いた話だと勇者は敵を倒して強くなる。当然敵は人間の勢力下よりも敵の勢力下の方が強い…………つまり勇者を強化する効率がいい」
それは単純な理屈ではある、あるが。
「それ……敵に勝てれば、ですよね」
強い敵を倒すのは確かに効率がいいかも知れないが、強いということはそれだけ倒し難いという事でもある。
いくら経験値効率が良かろうがそもそも倒せなくては意味がないのだ。
「その為の神具だよ、少年」
「…………ああ、なるほど」
確かに神が残した強力な武具であるという神具を手に入れれば本人の強さに関わらず強い敵でも倒せるかもしれない。そうなれば叶の言う通り効率のいい勇者の強化が行えるだろう…………なんというかゲームに慣れた彼女だからといった発想だ。
「でもそれって神具を手に入れるまで大変なんじゃ?」
近いと言ってもあくまで地図上の話で実際の距離は結構ある。そこまで倒せない敵に遭遇しながら辿り着くことが出来るのだろうかという疑問が残るのだ。
「大丈夫、勇者は何度でも生き返らせられるからね」
「…………」
いくらでもトライ&エラーは可能と言う理屈らしい…………しかしこれはゲームではなく現実なのだ。果たして何度も死んでいき替える勇者はそれに耐えられるのかと夏樹は思う。
「私はそれでいい」
面倒が少なくて済むならと氷華は賛同を口にする。
「とりあえず、勇者候補を教えてください」
夏樹の懸念はその対象次第だ…………敵勢力の間近なのだし熟練の戦士などもいるかもしれない。そうであれば神具を手に入れるまでに何度も死ぬリスクは軽減できる。
「ちょっと待ってね」
そう答えると叶は長机に表示された世界を拡大させていく。大陸の全体が表示されていたのがその操作に従って目的の場所を
「えっと、叶さん」
「なんだい、少年」
「なんかこの場所廃村って感じなんですが」
長机に表示されたその場所は小さな集落…………それも家々のほとんどが燃えて原型を留めておらず、さらに巨大な生き物の足跡や爪痕など何かに襲われた痕跡が消えることなく残っていた。
「数日前に魔物の集団に襲われてこうなったようだね」
「…………どこに勇者候補がいるんですか」
死体こそなぜかないものの生き残りがいるような雰囲気ではない。
「いるじゃないか、ここに」
叶がさらに映す場所を移動させる。すると村はずれの空き地のような場所が映し出され…………大量の盛り土に備えられた墓。そして新たに穴を掘っている一人の少女の姿が映し出された。
「彼女がこの村の唯一の生き残りだよ」
それはつまり、その少女こそが叶の選んだ勇者候補であるという事だった。
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