プロローグ(3)
氷華がぶん殴ってしまった誰かは扉の向こうへすっ飛んでいき…………即座に彼女は手を伸ばしたが扉は意思を持つように手早く閉まった。
それに氷華は再び拳を振り上げるが、また同じことが起こっては意味がないと思ったのかくるりと扉に背を向ける。
「待つ」
それは多分殴り飛ばした何者かが戻って来るのをという意味だろう。それだけ告げて氷華は本棚の本を手に取ると、先ほどのように読書を始める。
「ええと」
それに困ったように夏樹は叶へ視線を向ける。
「まあ、待つしかないんじゃないかな?」
その視線に叶はそう答える。あれが夏樹たちのような何も知らない訪問者か、それとも事態を知る人物なのかはわからないが、扉の向こうに行ってしまった以上は待つしかない。
「生きて、ますかね」
「頭が弾けたりせずにすっ飛んだんだから大丈夫だとお姉さんは思うね」
「…………」
確かに床にも血が飛び散ったりはしていなかった…………どうやったら人間がそんな可能性が浮かぶような打撃をくり出せるのかはわからないが。
「少年もここまで落ち着く暇もなかっただろう? ちょうどいいから少し休むといい」
「…………そうですね」
そう勧める叶はゲーミングチェアに背を預けて手にはゲームのコントローラー…………すでにこれ以上ないくらい
「僕もちょっと座ってます」
氷華が先に貸してくれたライトノベルでも読むかと夏樹も席に着く。
ギィ
しかしその瞬間に扉が僅かに開く音が耳に届いた。見やれば中を確認するようにおっかなびっくり誰かがその隙間から覗き込んでいる。
「ふむ、回復が早いのかそれだけ頑丈だったのか」
同じく扉へ視線を向けて意外そうに叶が呟く…………当の氷華は読書に集中してしまったのか気づいた様子もなくじっと本に視線を傾けていた。
「えっと、入っても大丈夫ですよ」
このまま見ているのもどうかと思ったので夏樹はそう声をかける。
「う、嘘じゃないです? 扉の前で拳を振り上げて待ち構えてたりしてないです?」
そんな震えるような声が返って来た。一応念のために氷華の方を見るがまだ本に目を落としたままだ。
「大丈夫です」
「じゃ、じゃあ開けます」
それでもゆっくりと反応を伺うように扉が開き、そこから恐る恐ると言った様子で銀髪の髪をした少女が顔を覗かせる。
「…………ほんとに大丈夫みたいです」
ほっとしたように一息つき、少女は完全に扉を開けて部屋に入って来る。
叶も氷華も容姿的には美人の部類に入るが、彼女はそれ以上に整った容姿をしていた…………整いすぎて、むしろ不自然に思えるくらいだった。
「あ、扉」
夏樹がその容姿に気を取られている間に扉が閉まる。
「ええと、それじゃあ改めまして」
そんな夏樹の様子を気にすることもなく少女がこちらを見回す。さっきは容姿に気を取られていたがよく見ると服装も夏樹たちとはまるで違う…………透き通るように白いそのローブのような服は最初からその形であったというように縫い目がどこにも見当たらない。
「私は神の使いたる導き手。あなた方をこの部屋に招いた…………はぐっ!?」
気を取り直して澄ました表情を浮かべる少女だったが、その言葉は最後まで口にできず
「私と夏樹が帰る方法を吐け…………さもなくば殴る」
左手で少女を掴み上げ、その右手は固く握られて振りかぶられていた。
「っ……………!?」
少女はそれに答えない、答えられるわけもない。
「五秒」
それに氷華は宣告する。だがもちろん五秒経っても答えはない。
「…………そう」
素直になるまで殴るしかない、そう理解して氷華は拳を振り抜こうとする。
「まあ待ちたまえよ、読書少女。そんな力で喉笛掴まれてたら答えられるはずもないじゃないか」
止めるように叶が氷華へと声を掛ける。それに初めて氷華は彼女の存在を認識したかのように視線を返す…………そういえば、これまで二人は一切の会話をしていなかったと夏樹は気づいた。
「確かに、その通り」
それでも自身の非は認めたのか氷華は拳を固めた右手を下ろす。
「わかってくれてお姉さんは嬉しいよ…………ああ、一応名乗っておくと私は巫女守叶だ」
「…………風切氷華」
二人は名乗り合うが
「えっと、下ろしてあげたら?」
そこまで見守ったところで夏樹はそう口を挟む。拳は下ろしたが少女は依然氷華によって喉首を握られた状態で床から浮いている。
「うん」
それに素直に従って氷華は手を放す…………当然落下して、だがその痛みより空気が大事というように少女は咳き込みながら呼吸を繰り返した。
「な、何するんですかぁああああああああああああああ!」
しばらくして少女は落ち着くと、すぐさま叫ぶ。
「さっき殴られたのは偶然にしてもいきなり喉首掴んで吊り上げるとかおかしいです!」
少女の言葉はもっともだ…………もっともではあるが、と夏樹は思う。
「監禁犯を締め上げただけ」
しかし氷華のその主張も正しいのだ。方法は確かに過激だったかもしれないが、加害者に対する反撃と考えればそれほど間違っていない。
「監禁ではないです! むしろ私はあなたたちを助けてあげたのです!」
見当違いも
「…………助ける?」
それに夏樹は首を傾げた。彼の感覚からすれば日常からこの部屋に迷い込んだという感じで助けが必要な状況ではなかった…………しかし否定するにはこの部屋は充実し過ぎているようにも思える。
生活するに困らない食料があったり氷華や叶の趣味にマッチした娯楽があったりと、仮に監禁であったとしてもこちらを大きく気遣っている。
「ふむ、もしかして外の世界は今頃天変地異でも起こっていたり?」
「!?」
何気なく叶が口にしたその予想に夏樹が驚愕する。だとすればここは避難場所であり少女の助けたという言葉にも合致する…………それが事実だとすると夏樹にとっては絶望的な現実になってしまうが。
「いえ、そういうのじゃないです。外は変わらず平和なものです」
「そ、それならよかった」
心から夏樹は安堵する。普段なら冗談だろと笑うような話でも、この異常な状況にあると全く笑えない話になってしまう。
「それなら助けたっていうのはどういう?」
「それはあなた達がこのままだと世界から
「…………逸脱?」
その意味が分からず夏樹は首を傾げる。
「そう、逸脱です。あなた達は遠からず元居た世界からは逸脱した存在となる…………二人の方には自覚もあったのでは?」
「「…………」」
ちらりと二人を見る少女に、氷華は変わらぬ表情で見返し、叶は素知らぬ顔を浮かべた。
「世界から逸脱すればやがて異物として世界の外へと放り出されるです。ですが逸脱直後の状態では世界の外に広がる虚空を耐えきることはできないです…………それを回避するための空間がこの部屋です」
「…………外の白い光景はその虚空ってこと?」
「ええ、そうです」
「…………」
いきなり夏樹の常識の範疇を超える話ばかり出て来るが、彼は何とか理解しようと思考を巡らせる。よくわからないが自分達は世界から逸脱しつつあり、そうなった場合はあの白い空間に放り出される…………まあ、確かにあんなところに放り出されたら死ぬだろう。
そしてそれを回避するために目の前の少女はこの部屋に三人を連れ込んだ、ということらしい。
とりあえず自分達がこの部屋に連れ込まれた理由は分かった…………だが、それで全てというわけでもないはずだ。
「それが正しかったとして、だ。見返りにお前は何を求めるのかな?」
そんな夏樹の考えを汲み取ったように叶が少女へと問いかける。確かに少女は三人を助けたのかもしれない…………けれどそれがただの善意だと考えるのは浅はかだ。何かしらそれが彼女の利益に繋がっていると考える方が自然なのだ。
「もちろん、見返りは貰うですよ」
そして少女はそれを否定しなかった。
「この部屋がある限りあなた達は世界を追い出されても生きていけるです。それどころか扉を通って元の世界に戻ることもできるのです…………ですがこの部屋は無償提供されるわけではないです。この部屋の使用料としてあなた方には働いてもらうことになるのですよ」
ふん、と少女は鼻を鳴らす。
「それを断ったら?」
「別にどうにもしないです…………ここから出て行ってもらうだけですよ」
協力しないなら報酬はない、それだけの話だった。少女の言葉が正しければいずれ三人は元の世界から放逐されることになるが…………それは自分の選択の結果だ。
「よし、受けよう」
「え、叶さん!?」
即決に思わず夏樹は叶を見る。それに彼女は問題ないというように頷いて見せた。
「私もまだ半信半疑だがね、少年。逸脱云々が本当でなかったとしても報酬としてこの部屋は悪くないと思わないかな? 当然娯楽や消耗品なんかは補充されるんだろう?」
「そのように設計されてるですよ」
尋ねる叶に少女が頷く。
「食うに困らず娯楽にも困らない…………ニートするには申し分ない場所だねえ」
満足げ気に叶は言い放つ。
「ニートって…………」
スーツ姿なのだから働いているのではないのだろうか。
「少年…………働かなくても生きていけるなら、私は働きたくない」
「そんないい顔をして言うことじゃないでしょ…………」
きりっ、と擬音が聞こえそうな表情だった。
「読んでない本が増えるなら」
氷華も物欲優先で同意の意思を見せた…………まあ、本を買うにも当然お金がかかる。学生の身分では好きな本を全て買えるような金銭的余裕はないはずだし、世界からの逸脱とか実感できない理由よりは承諾するに足るのだろう。
「それ、ずっとここにいなきゃ駄目なのか?」
今のところ夏樹にはこの部屋にいたい理由はない…………けれどあの二人放っておく気にもなれず、退路を断つための質問を口にする。
「ちゃんと元の世界にも戻れるですよ? 今は閉ざしてありますが、こちらの説明が終わり次第に元の世界と繋ぐ予定です」
「…………戻って大丈夫なのか?」
「世界から逸脱すると言っても今すぐの話じゃないのです。とはいえ普通の人間よりも外れやすくなっているのは確かなので何かの拍子にの可能性はあるですよ…………つまりこの部屋はその場合に備えてのセーフティーネットなのです」
世界の外に放り出された際の備え、しかしそれだけでは報酬として弱いので物欲を満たす要素も兼ね備えたという事だろうか…………ともあれ出入り自由なのであれば夏樹も気は楽だ。
「わかった、僕も引き受ける…………と、言いたいところだけど」
まだ肝心なことを聞いていない。
「君は一体僕らに何をさせたいんだ?」
それが危険な事であれば夏樹も流石に躊躇うし二人を止めるつもりだ…………そもそも内容を聞かずに承諾した二人が無謀すぎる。
「心配しなくても皆さんには危険が及ぶことはないですよ」
にっこり笑って少女は答える。
「皆さんには異世界の勇者を育ててもらいます!」
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