第34話 素直じゃなくても、可愛い⑰

 イリッツァは、両手で顔を覆うようにして、カルヴァンの視線から逃れる。

 たっぷりと沈黙を挟んでから、桜色の唇がかすかに動いた。

「――――カ、は…」

「?」

「――リリカ、は――『特別』だったのか――?」

「――――はぁ…?」

 カルヴァンはこれ以上なく眉をひそめて、怪訝な声を出した。

 しかし、イリッツァは覆った両手を退けることなく、震える声でつづける。

「今、リリカと浮気してるとは思ってない。こないだも、キスしてなかったって信じる。これからも――神様の前で、誓いを立てたら、そんなことしないって信じてる」

「あぁ」

「でも、昔は――――リリカが、『特別』だったのか――?」

 ポツリ、とか細い声が震え、室内へと消えていった。カルヴァンは、その音を確かに鼓膜が拾ったにもかかわらず、発言の意味を脳みそがうまく処理できないせいで、ぱちぱち、と何度か目を瞬く。

「なんで――リリカだけ、名前、で…呼んで――…」

「???」

 重ねられる発言に、さらに困惑が増す。ぎゅっと眉根に深い皺を刻んで、イリッツァの発言を熟考するが、全くもって言われていることの意味が分からない。

 いつまでも返ってこない返答に、イリッツァは桜色の唇をぐっと噛みしめる。

「リリカから色々――お前の、女癖の悪さ、聞いた」

「また余計なことを――…まぁいい。それで?」

「本当に、女の敵だった。俺の大事な信徒を、弄びすぎだ。反省しろ」

「はいはい」

「でも、初めて聞くことばっかりだったけど、すごく想像がついた。お前だったら、そうだよなって思うことばっかりだった」

「ほう。参考までに聞かせてくれ」

「女を口説くときは嘘を吐かない、とか。――愛してる、なんて言わない、とか」

 ぼそり、とこぼされた言葉に、カルヴァンはくくっと喉の奥で笑いを漏らす。どうやらちゃんとした情報を聞いて来たらしい。

「一つ嘘を吐くと、それに付随してどんどん嘘が増えていく。当時は同時進行が当たり前だったからな。面倒事を避けるために、嘘はつかなかった」

「…どうせそんなことだろうと思った」

「誠実だと言ってくれ。――だから、愛してる、なんて言葉は言わない。嘘になるからな」

 反省した素振りなど微塵も見せずに飄々と嘯く姿は、まさに女の敵と呼ぶにふさわしいだろう。

「夜を共にするまではめちゃくちゃ褒めてくれるって聞いた」

「ほう?――まぁ、抱いた後まで褒める必要はないからな」

「リリカは、肌を褒められたって言ってた。――他の子は、手とか、脚とか、髪とか、キスとか…」

「お前は一体それをどんな気持ちで聞いてるんだ」

 鼻の頭に皺を作り、カルヴァンはげんなりと呻く。聖女相手にそんなことを言うリリカの真意はよくわからないが、イリッツァは仮にも婚約者のそんな話を聞いて、冷静でいられたのだろうか。

「もし、お前が今俺を口説くなら――髪を、褒めるのか…?」

「――は……?」

「昔の女に言ったんだろ?――一晩中触っていたい髪だ、って」

「…?……まぁ。言ったかもしれないな。さすがに覚えていないが」

 正直、その髪が気に入っていた女というのが誰なのか、名前はもちろん、顔すら思い出せない。

「カルヴァンは、一つしか褒めないって聞いた。――リリカも、肌は褒められたけど、髪とかは褒められたことないって」

「……まぁ、意識して一つしか褒めないわけじゃなかったと思うが、褒めるほどでもない特徴を、嘘を吐いてまで褒めはしないだろうな。後で面倒になっても困る」

「だから――俺は、髪なのかな、って」

「はぁ…?何の話だ…?」

 いよいよ話の方向性が見えなくなってきて、カルヴァンは思い切り怪訝に顔をしかめる。

「いつもお前は、漠然と『かわいい』とか、『キスしたい』『抱きたい』とか言うけど――具体的に俺を褒めたのって、髪くらいだ」

「…そうか?」

「だから――お前が、俺を口説くときに褒めるのは、髪なのかな、って」

「――…??」

 カルヴァンは、さらに眉根を寄せて軽く首をかしげる。

 さっきから、イリッツァが何を言いたいのか、全く分からない。

「お前の髪の手触りが好きなのは本当だが、それがどうした。髪を褒められるのは不服だ、っていう話か?」

 ぶんぶん、とイリッツァは顔を覆ったまま首を横に振り否定する。

「リリカに言った、肌が好き、ってことは――その、夜の相性が、良かったってことだろ」

「またいきなり話が飛んだな…お前は本当に何が言いたいんだ?」

「髪とかなんかより、ずっと――ずっと、情事に直結するじゃん」

「??…それが何だ」

「だ、だからっ…――他の子より、『特別』、だったのかな、って――」

「――――…いや。意味が分からん。第一、『特別』ってなんだ。どういう意図で言っている?」

 カルヴァンは左耳を掻きながら、半眼で尋ねる。

「あの文具屋の娘の肌の触り心地が良かったのは事実だ。まぁ、抱き合えばそれを堪能できるのも事実だが――他の女と比べてどうだったかと言われれば、別に。肌の相性の良さによる他の女との差異なんて、プレイの内容くらいだ。より堪能できる体位の方がいいだろう?」

「っ――!」

 あけすけな情事の話をされて、イリッツァが羞恥に息を詰める。

「キスの相性がいい女とはキスが多くなるし、肌の相性がいい女とは、着衣で抱き合わない。髪の触り心地がいい女なら、抱くときに触れる回数が多くなる。――その程度だ。肌の相性がいいことがそのまま体の相性がいいわけでもないしな」

「そ、そうなのか…?」

「あくまで肌の触り心地の話だろう。身体の相性そのものの話になれば別だ。あの女よりもイイ女なんてたくさんいたと思うぞ」

「――――…じゃあ、なんで」

 イリッツァの声がか細く震える。カルヴァンは眉根を寄せてイリッツァの言葉を頭の中で反芻した。

(何が言いたいのかよくわからんが――まず、あの文具屋の女が、過去、俺にとっての『特別』な女だっだと思っているらしい。そこからして小一時間ほど問い詰めたいが――まぁいい。…ともかく、こいつがそう考えたのは――俺があの女を名前で呼んでいた、と思っているから)

 目を眇めて左耳を掻く。――今でこそ、何度もイリッツァの口からその名が出てくるために、女の名前がリリカであると認識しているが、正直、「特別だったのか」と問われた瞬間は誰のことか思い至らなかった。――それくらい、彼の中で、女の名前というのは覚えるという気がない分野だ。

 しかし、愛しの婚約者は、何をどう勘違いしているのか、カルヴァンがリリカを昔から名前呼びしていたと思っているらしい。

(あの女と会った時に、でたらめを吹き込まれたのか?――だとしたら、誤解だと伝えても簡単には納得しなさそうだな)

 イリッツァは純粋培養の聖職者だ。信徒の言葉を頭ごなしに否定したとて、信じてもらえるとは思わない。

(この点については、まぁいったん置いておいて、だ。――髪を褒めるだのなんだのってのは、何だ?)

 ふ、と瞼を伏せてじっと一点を見据える。本当に彼女が何を言いたいのかわからない。

(あの女の肌を褒めていたことは、ツィーも知っているらしい。そのうえでこいつは、肌を褒める=夜の相性が良かった、と認識していた。髪だのなんだの、他の部位を褒めた女よりも、夜の相性が良いと思っていて、それで――あぁ、だから『特別』なのかと、思ったのか)

 確かに、十五年前のカルヴァンは、下半身で物事を考えるような爛れた生活をしていた。夜の相性が抜群にいい相手ならば、『特別』になりうる、とイリッツァが誤解しても仕方ないだろう。

(だが、その仮説を否定されて、困惑しているわけか。夜の相性が最高だったわけでもないなら、なぜ名前で呼ぶほどの特別な相手だと思っていたのか、と――それを聞きたいのか?)

 瞬き三つほどの間にそこまで思考を飛ばしたカルヴァンは、呆れてため息を吐いた。

 どこまでも――どこまでも、馬鹿馬鹿しい。

「なんでもくそもない。そもそも、『特別』ってなんだ。あの女を特別扱いしたことなんか、一度もないぞ」

 カルヴァンが、特定の女を独りだけ特別扱いしたことなど――イリッツァを除いて、ただの一人も存在しない。

「っ…でも――」

「そもそも、名前でなんか呼んだことない。――正直、全く覚えてない。この前文具屋で遭遇したときだって、お前がやって来て名前を呼んで初めて思い出したくらいだ。――思い出した後も、俺自身は結局最後まであいつのことを名前でなんて呼んでなかっただろう。お前が、俺の知らないところであの女や他の誰かに何を吹き込まれたのか知らないが、俺は昔から、トラブルになるから女の名前は不用意に呼ばないようにしているし、そもそも憶えない。うっかり間違えても面倒だし、名前で呼ぶことで、体だけの関係を恋人みたいに思われても面倒だ。――お前がよく言う『女の敵』のイメージにはそっちの方が合うだろう。余計な雑音なんか信じるな」

 我ながらなかなか酷いことを言っている自覚があるが、事実なので認める。

 しかし――婚約者は、その言葉をどうやら信じてはくれなかったようだ。

「う…そ、付き…!」

「はぁ…?」

「なんで――なんで、嘘、つく――っ…なんでっ…」

 イリッツァは腕で顔を覆うようにして悔しげに呻くと、ふいっと顔を逸らした。ぎゅっと噛みしめられた唇を見て、左耳を掻く。

「…嘘なんかついてない」

「っ…も……いい…」

「いや待て、対話をあきらめるな。俺は納得していない。なんでお前がそんな勘違いしてるのか、ちゃんと話せ」

 噛みしめた口の端からこぼれた投げやりな言葉に、慌てて言い募る。――これは、良くない方向に話が向かっている気がする。

(俺が、あの女を特別扱いしていると思っているから、婚約解消を言い出した――?まさか、大事な王国民の幸せのためなら身を引くとか、そんなくだらない考えしてないだろうな)

 「どこまで行っても聖女」という彼女の言葉が蘇り、ぞっとする。

 冗談ではない。

 そもそも、リリカ自身、戯れに誘惑してきただけだとわかっている。当然、本気でカルヴァンとよりを戻したいなどとは望んでいないだろうし――何より、そんなことをされれば、確実に一人の王国民――カルヴァン・タイターは不幸のどん底に落ちる。

「ツィー。――俺が、人生で女を特別扱いなんかしたのは、お前だけだ。知ってるだろう」

 さらり、と銀髪を縋るように撫でながら必死に言葉を紡ぐ。

「っ…今、そーゆーの、いらない」

「オイ」

 パッと顔を覆っているのとは別の手で髪を撫でた手を払いのけられ、思わずうめき声が漏れる。過去、こうして口説いて落ちなかった女はいなかった。もちろん、イリッツァを落とすのは難易度が高いとは知っていたが、まさか、ここまでの塩対応をされるとは。

「ツィー。――俺が、女を名前で呼ぶのは、お前だけだ。愛称で呼ぶなんて、それこそお前だけだ。男でもいない。結婚してもいいなんて思ったのもお前だけだし、他の女なんか目に入らないくらい惚れてる。――それが、何をどうしたら、そんな誤解が生まれるんだ」

「っ……今、の話じゃ、ない…!昔――」

「昔から、ずっと同じだ。――なぁ、ツィー。嘘じゃない」

「じゃあなんで、俺がベッドで間違って呼ばれなきゃいけないんだよ!!!!!????」

「――――――――――――――――――――」

 カッとなったのか、顔を覆っていた腕を放し、怒りを顕わに叫ばれ――

 ――天才と言われた頭脳が、一瞬で、フリーズした。

(――――――――――――――えっと。)

 ぱちぱち、と灰褐色の瞳が瞬く。

 何か、今、ものすごく不穏な発言がったような気がしたが――気のせいだろうか。

「――――…えっと」

 ダラダラと冷や汗が流れていくのを感じながら、カルヴァンは全力で現実逃避したくなる脳みそを必死に引き留める。今、ここで思考を止めるのはダメだ。本能が、それだけは絶対にやめた方がいいと訴えている。

「ツィー。…えっと、落ち着け。………落ち着いてくれ。その――」

(――こ…心当たりがない、って…言って、いいのか――!?この状況は――!)

 イリッツァの言葉が衝撃的すぎて、とっさの判断がつかずカルヴァンは目を泳がせる。

 まず、ベッドで、というのからして記憶がない。イリッツァとは毎晩同衾しているが、そういう意味で夜を共にしたことはない。それなのに、ベッドで、とはどういうことだろうか。

(――お預けが長すぎて、寝ぼけて無意識で何かしたのか――!?)

 そうだと言われても否定できないくらい溜まっている自信があるから怖い。そしてそうして襲った末に他の女の名前で呼んだとあれば、それは確かにぶち切れられても仕方ない。正直、イリッツァを襲いながら他のどうでもいい女の名前が口を吐くなんて、闇の魔法使いにでも操られていたのではと思うレベルだが。

(いや、それか、普通に寝る前に会話してる時に、自覚出来ないくらいナチュラルに間違え――いや、あり得るか、そんなこと…!?本当に、全く、覚えてなかったんだぞ――!?)

 全力で非難の眼差しを向けて来るイリッツァから逃げるように、気まずさの極みで視線を泳がせる。もしも彼女が言ったことが本当だとして――それでは確かに、名前で呼ぶのはお前だけだ、という先ほどのカルヴァンの主張は、イリッツァの神経を逆なでするだけだっただろう。

 中途半端なまま言葉をうまく紡げないカルヴァンを見て、イリッツァは苦い顔でぐっと奥歯を噛みしめた。

「いいよ、もう…どうせ、覚えてないんだろ」

「いや……えっと…」

「寝言だったんだろうし。でも、夢で見た内容をうっかり漏らしたんなら――昔、名前で呼んでたのは、事実じゃん。嘘つき」

「――…寝言…?」

 ふと、記憶の縁に何かが引っかかった。このどうしようもない修羅場の唯一の突破口になるのではと、必死にその違和感を辿る。

(寝言――寝言。夢で見た…?)

 必死に脳みそをフル回転させ――やっと、一つの記憶に思い至る。

「――――――――――あ」

「…?……なんだよ」

 これ以上なくうんざりした、軽蔑したかのようなまなざしを向けるイリッツァに、めげることなく問いかける。

「あれか。もしかして――あの、文具屋で会った日の朝か。お前がオムレツ焦がしてた日」

「――――――…」

 憮然とした表情だが、その無言は肯定だろう。やっとすべての点が線になって繋がり、カルヴァンの脳みそが正常に思考を開始する。

(午後の文具屋の遭遇が衝撃的すぎて忘れてたが――そうだ、確かにあの日の朝、夢にあの女が出てきた)

 そして、夢の内容を思い出し、自分が何故、今のように責められる事態に陥っているかの謎が解けた。

(確かに、夢の中で、女の名前を呼ばされた記憶がある。それを、寝言として呟いたんだろう。――そういえば、あの日、朝食を食べながら何かやけに突っかかってくるなと思ったが、それが原因か)

 もう少しわかりやすいヒントを出してくれ…!と、今更思っても仕方ないことを考えた後、頭の中で状況を整理する。

(それで――あぁ、なるほど、その日の午後に、あの文具屋の遭遇か。――どうりで、その場で何を弁明しても信じてもらえなかったわけだ。寝言の段階なら、過去の話だと思ってくれる可能性もあるだろうが、あんな場面を見れば、現在進行形の関係なんだろうと誤解するのも仕方ない。――いや、だとしたら、その場で何故ぶん殴ってくれなかった。文具屋でも、寝言を呟いた瞬間でも)

 額を覆って、婚約者の婚約者らしからぬ行動を嘆くが、今更言ってみたところで仕方がない。ぎゅっと一度瞳を閉じた後、気持ちを切り替えた。

 原因さえわかれば、対処法はある。カルヴァンは、努めて冷静に、真摯な声を出した。

「ツィー。誤解だ」

「はぁ?」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せた剣呑な声が返ってくる。うっ、と一瞬言葉に詰まった後、諦めず言葉を紡いだ。

「確かに、寝言でつぶやいた可能性はある。そういえば、人生で一回だけ、あの女を名前で呼んだことがあった。あの日はその時の夢を見た。だが――えぇと、それは、別にあの女が特別だとかいうのではなく――なんというか――その――プレイの一種というか――」

「???」

 どう説明してよいか悩み、左耳を掻いたまま後半ごにょごにょと言葉が判別不能になっていくカルヴァンに、眉根を寄せて怪訝な表情を返され、うっ、と再び言葉に詰まる。前世でも今生でも、性的コンテンツとは極力接触を避けてきた彼女に、ありのままの状況を話したところで、理解される可能性は低い。仮に奇跡的に理解されたとしても、ものすごく軽蔑した視線を寄越されるだけだろう。

 いつぞやランディアがプロファイリングしたように、いついかなる時も、誰を相手にした時でも、常に主導権を握っていたいカルヴァンが、ここまで相手に振り回されるのは、世界広しと言えどイリッツァを相手にした時だけだ。いつもの余裕など銀河の彼方に吹っ飛ばしながら、カルヴァンは左耳を掻いて何とか頭をめぐらす。

(…要は、本質があっていればいいんだろ)

 ゴホン、と一つ咳払いをして、いったん仕切り直す。全てを白日の下にさらすことが正義とは限らない。今の目的は、イリッツァの誤解を解くことだ。それを達成することだけが最優先事項だ。

「あの日は、何と言うか、軽い弱みを握られて、あの女に『名前で呼べ』と強要されたんだ。いつまでも弱みを握られてるのも面倒だから、その日だけ、という約束で、名前で呼んだ。――正直、呼べと言われて承諾したはいいが、その時点で相手の名前も覚えてなかったから、その場で相手に教えてもらったレベルだ。…で、別れて部屋を出るころには忘れた。『特別』だから呼んだわけじゃない。――夢から覚めた時も、全く覚えていなかった」

「………弱み…?」

 ふ、とイリッツァが怪訝そうにカルヴァンを見上げる。カルヴァンは、気まずさを覚えながら視線を逸らした。――これを十五年も経て本人に言うのは、情けないにもほどがある。

 ――が、言わないと、話が進まない。

 カルヴァンは、嘆息して覚悟を決めた。

「あの日――前日の夜、雨が降っていたのを覚えているか」

「え?――あぁ…そういえば――…」

「久しぶりの雨だっただろう。――で、少し前に、お前が、聖人だってことを打ち明けるだの打ち明けないだので悩んでいた日々の話をしていた」

「?…う、うん…」

「結果――たぶん、脳みそが、昔のことを思い出して、勝手に夢に見た」

「???」

「お前の母親の葬儀の日の夢だ」

「――――ぁ――…」

 言われて、イリッツァも思い出す。葬儀の後の、冷たい雨の感触と耳障りな雨音を。

 カルヴァンは左耳を掻いて言葉をつづける。

「あの日、墓の前で、お前が珍しく弱音を漏らした。当時のお前は、滅多にそんな本音を吐くような奴じゃなかったから、よっぽど弱ってたんだろう。そんな風にして漏らされた、珍しい弱音を――俺は、上手く受け止めることが出来なかった」

「――――!」

「必死に何とか声を掛けても、お前は一瞬出した本音をすぐに隠して、いつもの聖職者の顔で俺を寄せ付けなかった。せめて傍に寄り添うくらいは、と思えば、それすらお前は許さず――挙句、教会で神に祈るとか言う。――かなり、参った。自分の無力さに、腹が立って仕方がなかった」

「い、いや、でも、あれは――」

「兵舎に帰る前に、一回頭を空っぽにして整理したかった。さすがに、自分の矮小さから来るくだらない苛立ちを、親を亡くしたばかりの親友にぶつけるほど愚かじゃない。――そういう時、女を抱くって言うのは便利だ」

「――オイ。なんか、急に訳わかんなくなったぞ」

 思い切り半眼で呆れた視線を向けられるが、軽く嘆息して左耳を掻く。

「女を抱いてるときっていうのは、何も考えなくていい。手軽な現実逃避としてはもってこいだ。いつもは、ゲーム感覚なことも多いから、抱いても抱かなくてもいい、くらいの感覚で街に繰り出すこともあったが、現実逃避したいときは、目的がそれだからな。抱かずに帰るっていう選択肢はない。正直、誰でもいいから抱かせてくれる女を探した」

「お前…」

 顔を青ざめさせて、信じられない、といった表情を見せるイリッツァは、価値観の相違に驚愕しているのだろう。

「ただ、聖女の葬儀っていうのは厄介で、どいつもこいつも、そんなしめやかな日に男とよろしくやってくれるような隙を作ってくれなかった。同居人の目があったり、本人の信仰心の問題だったり。――で、そんなとき、たまたま通りかかった道であの文具屋からあの女が出て来て、家に入れてくれるというからこれ幸いと乗り込んだ。本気になられて面倒だと一方的に別れを告げてしばらく経ってたんだが、誰も抱かずに帰るっていう選択肢がない以上、抱かせてくれるって言うなら贅沢は言えないだろう。多少の面倒事の匂いがあっても」

「ぅわ――さ、最低――…」

 ドン引きするイリッツァから視線を外しながら、カルヴァンは言葉をつづけた。

「そしたら、相手も俺の様子がおかしいって気づいていたらしくてな。家に引き入れてやったことの恩義を返せと、名前で呼ぶことを強要された。もともと、過去に何を勘違いしたんだが勝手に本気になられた相手だったし、普通だったら面倒事を避けるために突っぱねる要求だが――まぁ、弱みを握られた形だったしな。そのままそこで要求をのまなかった場合、別の要求――例えば、よりを戻せとか結婚を前提に付き合えとか――になっても面倒だ。だから、その日だけ、と約束させて、呼んだ。それがたぶん、寝言に出た。――それだけだ。特別とか、そんなことあるわけない。――第一、俺はあの手の女はあまりタイプじゃない」

「へっ!?」

「尻軽で、わかりやすくて、適当に誘ってもあっさり抱かせてくれるから、他の女が捕まらない時に声かける要員として妙に長続きしてただけだ。ゲーム感覚で落とすなら、落とし甲斐のある少し難易度の高い奴の方が面白いし、顔のタイプやら外見のタイプはお前だと言っているだろう。――真逆すぎる」

「――――…」

 ぱちぱち、とイリッツァは目を瞬く。

 はぁ、と一つ息を吐いて、カルヴァンはイリッツァを眺めた。

「誤解は解けたか?――あの日の夢は、あの女の夢、というより、俺にとっては『リツィードの夢』という認識に近い。確かにあの女が出てはきたが――十五年も経ってるのに未だに夢に見るようなのは、お前にまつわる出来事くらいだ。あのころに抱いた女のことなんぞ、ほとんど覚えがない。女本人のことも、その女との会話や情事の内容も。名前に関しては、当時でも覚えてなかったしな」

 カルヴァンの弁明を最後まで聞き終えたイリッツァは――

「なんか――…お前の、屑さが際立って――ドン引きなんだけど――…」 

「悪かったな…!俺の下半身事情が屑なことくらい、知ってただろう、昔から…!」

 未知との遭遇に怯えて後退るように距離を取られ、ぐっと奥歯を噛みしめて呻く。情けないが、仕方ない。――過去を変えることなど出来ないのだから。

 のけぞるように体を引いたイリッツァに、苦い顔で目を眇めた後――ゆっくりとカルヴァンはイリッツァへと手を伸ばす。

「ツィー。約束しただろう。お前以外の誰かを、お前以上に特別扱いなんてしない。これからも――今までも、だ。浮気なんかしない」

 そっ…と白く丸い頬に触れるが、今度は払いのけられることはなかった。ほっと安堵の息を漏らし頬に触れた手を後頭部へと持って行ってゆっくりと小さな頭を抱き寄せる。

「そんな理由で婚約破棄、なんて認めないぞ。――濡れ衣にもほどがある」

「っ……」

 やさしく青み掛かった銀髪を撫でると、イリッツァは小さく息を詰めた。

「――違う――」

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