第33話 素直じゃなくても、可愛い⑯

 その日はいつも通りの朝だった。遠くに聞こえる鳥の声と、部屋に差し込んでくる朝日の眩しさに、ゆっくりと瞼を開けば、寝る前と同じ厚い胸板が目の前にあった。つい一年ほど前までは、男にこんな至近距離に近づかれるだけでわーきゃー叫んでいたというのに、人間というのは短期間で随分と変わるものだ。

(男と――それも、こんな、女の敵と同衾とか、絶対考えられなかった…)

 そっと伺い見るように視線を上げると、王国中の憧れの的となっていた英雄の寝顔があった。眠りが浅い、とよく言っている彼なのに、よくこんなにも寝辛いだろう体勢で一晩眠っているなと感心する。女好きの性質は、不眠症をも凌駕するのか。

(雨――上がったのか)

 差し込む光に、ぼんやりとそんなことを考える。昨夜は、秋の長雨といって差し支えないような天気だった。寝る直前まで、鼓膜をその雨音がうるさく叩いていた。

(――幸せ、すぎて…怖いな…)

 ゆっくりと、眠りの浅い彼を起こさないように気を付けながら、深呼吸して瞳を閉じる。鼻腔を、嗅ぎなれたいつもの香りがくすぐって、じわりと胸が温かい気持ちで満たされていった。

 ふと、求婚された時に答えた、自分の『幸せ』の形を思い出す。

 神殿に引っ込むことなく、目に見える人々を、同じ立場で救いたい。

 毎日、カルヴァンに会いたい。声が聴きたい。毎日、ツィーと呼んでほしい。

 一日の最後に見る顔はカルヴァンがいいし、一日の始まりに見る顔も、彼が良い。

 いつも、隣で、ずっと――変わらず手を握っていてほしい。

(――全部、叶えてくれた)

 気恥ずかしい気持ちがこみ上げ、ほんのりと頬が熱くなる。何にも捕らわれず自由に生きることだけを信条にしている彼が、世界でイリッツァにだけくれる『特別』が、特大過ぎて気持ちを持て余す。

 ずっと不安を抱えて生き続けてきたイリッツァに、カルヴァンは「嫌いになることだけは天地がひっくり返ってもない」と明言してくれたのだ。そうして、世界のどんな恐怖からも必ず守ると主張するように、毎晩すっぽりと抱き込まれて眠りにつく日々を――これを、幸せと言わずして何というのか。

 毎日、朝が来るたび自覚する。信じられないような奇跡と、惜しみなく与えられる巨大すぎる幸福を。

(でも、俺――何も、返せてないのに…)

 きゅ、と胸が小さな痛みを発し、そっと目の前の胸板に額を押し付けた。

 友人としても、恋人としても、持て余すほどの特大の愛を注いでくれるカルヴァンに――イリッツァは、どうしてもうまく、同じだけの愛情を返せていない気がしていた。

(好き――とか、言えば、いいんだろうか…)

 何度も「愛の言葉がない」と拗ねたように言われているのを、イリッツァとて自覚はしている。手紙の音読、などという手を使ってでも言わせたいんだろうな、と目の当たりにしたのも最近だ。

(んんんんんん……でも、それは、それはちょっとなぁ…!!!!)

 ぎゅ、と拳を握って羞恥がこみあげてくるのを必死に耐える。

 聖女として、自分の個人的感情を口に出すこと自体憚られるのは事実だ。特に、禁忌として教え込まれてきた『特別』を作るということに対して――口に出して、『貴方が特別だ』と伝えるような行為は、とにかく何か悪いことをしているような気がして、罪悪感の方が先に立ってしまう。

 そして何より――単純に、死ぬほど恥ずかしい。

(やっぱり、一年後まで待ってもらって――っていうか、現時点で、キスだのハグだのを許してるだけで、十分『特別』だって伝わってるだろ…!)

 八つ当たりに近い気持ちを胸中でつぶやき、羞恥で真っ赤に染まった頬から必死に熱を追いやっていると――

「――――カ――」

「ん…?」

 掠れた聞き馴染んだ声が降って来て、思わず瞳を開ける。

 すると、ぎゅ…と体に回った腕が、イリッツァの小柄な身体を抱きしめた。

「――――リリカ――」

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――は――――――――――?」

 それは、きっと。

 ――イリッツァ・オームの人生が始まって以来、最高に低い声だっただろう。

(今、何て言った?コイツ)

 さっきまで噛みしめていたはずの幸せは、一瞬で霧散し、薄青の瞳に極寒のブリザードが吹き荒れる。

 顔を上げれば、いつもの雪空の瞳はまだしっかりと閉じられていた。――どうやら、寝言らしい。

 一言物申そうと息を吸い込んだ瞬間、ぎゅ、と腕の中の存在を確かめるようにもう一度回された腕に力が籠められ、体が密着する。

「――――――――――――オイ――」

 ビキッ…

 密着したせいで、男の朝の生理現象に気づいてしまったイリッツァは、額に青筋を浮かべた。

 決して、やましい夢を見ているとは限らないと、さすがに元男の経験があるから知っている。ただの生理現象にすぎないのだと、確かに知っている。

 だが――別の女の名前を呼びながら、人を抱きしめておいて、その主張を知らしめるように密着させられれば、不快感以外のすべての感情が払拭されるのも仕方がない。

 呼ばれた名前には、心当たりがある。王都の二丁目の文具屋の娘だ。十五年前に一時期カルヴァンと付き合っていて、半年以上続いた珍しい女だったと言っていた。口元に色っぽい黒子がある、肉感的なわかりやすい色気を纏った甘ったるい雰囲気の女。

(確かに俺は『お預け』してるけど、さすがにそれは――!)

 カッと怒りがこみ上げ、その横っ面を思い切りぶん殴ってやろうと拳をぐっと握りしめ――

 ――――ふ、と我に返る。

(――――ぇ…あ…あれ…)

 さすがにそれは――なんだと、言うのだろうか。

 ぱちぱち、と薄青の瞳を瞬き、ぶん殴ろうと思ったはずのカルヴァンの顔を呆然と見上げる。

 浮気だ、とでも言うのだろうか。――寝言で名前をつぶやいただけで?

 ルール違反だ、と言うのか。――寝言や夢の内容にまでルールを設けた記憶はない。

 酷い、というのだろうか。――下半身で物事を考えるような彼の性質を知っておきながら、平然と『お預け』を強要しているくせに?

 ――――自分は何一つ、返せていない、のに――?

「――――…」

 ぐるぐると思考が回る。

 思考は取り留めもなくめぐるくせに――感情は追いついていかない。

 グラグラと、マグマが沸騰するように、胸の奥が煮えたぎっている。かと思えば、ぐちゃぐちゃに握りつぶされたかのように痛み出し、真っ黒な感情が噴き出しそうになる。

(あぁ――これは、この感情は、もしかして)

 生まれて初めて経験するその感情に、イリッツァは顔をしかめ――

「ん――…」

「っ…!」

 小さく呻いたカルヴァンの声にハッと息をつめ――咄嗟に、彼の額に手をかざして魔力を解放した。

 ぱぁっ…と淡い光がはじけ、すぅ――とカルヴァンの寝息が一段深くなる。

「ぁ――…」

 咄嗟に――咄嗟に、軽度の安眠の魔法をかけていた。

 こんな感情を、知られたくない。こんなことに困惑していることを、世界中の誰にも、知られたくない。

「っ…!」

 いつもなら、確実に彼を起こしてしまうだろうが、魔法がかかっている今ならそんな心配はないだろう。

 イリッツァはバッと布団をはね上げて、逃げるようにしてその腕からすり抜け、寝室を後にした。


(――いったん落ち着こう)

 青ざめた顔で、キッチンに立ち、イリッツァは心の中でつぶやく。何か別のことをしないと、気持ちが切り替わらない気がして、少し早い時間だったが、朝食を作り始めることにする。

 しかし、調理に使う野菜を洗い、思考を切り替えようとするも、勝手に頭脳は今の出来事を辿り始めてしまった。

 一体、カルヴァンの何を責められるというのか。夢に出てきただけの人物の名前を呟いただけだ。

「お、俺だって、そんなこと、全然あり得る――…」

 リアム、アラン、ランディア。最近接点の多い男性というだけでも、少なくとも三人はいる。過去の夢など見ようものなら、男社会で生きていたのだから、もっと可能性が広がる。ナイードのころの夢を見れば、ヤーシュやグレン、フランドルといった、性別だけで見れば男、というような人間だって対象になりうる。

 もし彼らの夢を見て、ベッドの中でその名をつぶやいたときに、カルヴァンにそのことを責められたら――

「いやいやいや、意味わからん…って、言うよな…」

 何が悪いのか、全く分からない。彼らと疑われるような何かがあるわけでも、あったわけでもなく、ただの日常を夢に見ただけだ。責められるような謂れはなく、思い切り反論するだろう。

 名前を呼びながら抱きしめたことがダメだったのか?――彼がイリッツァを抱きしめているのは寝入るときからずっとだ。宝物を抱きしめるように優しく回されているその腕に多少の力が込められたとて、それは別にリリカを意識してとは限らない。第一、寝ている無意識下ではただの抱き枕と思っているのかもしれないそれに、意味を見出す方がおろかだ。

 自己主張の激しい彼の下半身が問題か?――あんなのは朝の生理現象だと、先ほど自分で結論付けたはずだ。知識としても体験としても、その現象にやましい事柄が必ずしも結びついていないことを知っている。

 頭で考えれば考えるほど――寝ている彼の横っ面を無条件に張り倒そうとするほどの怒りを覚える理由がないことに気づいてしまい、イリッツァは混乱した。

 スープに入れる予定の野菜を刻む手が、乱れる心を表すように乱雑になっていく。

「リリカ、なのが問題なのか――?」

 ドポドポっと乱暴な手つきで刻んだ野菜をスープにぶち込み、煮込む時間でオムレツを作るため卵へと手を伸ばす。

 ボウルに割り入れた卵をシャカシャカとかき混ぜながら、イリッツァは記憶の中の文具屋の娘を思い出す。仕草一つ、声色一つ、己の持つ全てで男を色香で魅了する、そんな女だった。

 十五年前から、実家の文具屋で店番をしているだけで、彼女目当ての男の客が足しげく通っていたくらいだった。実際、彼女はあまり敬虔な信徒とは言えないのか、数々の浮名を流していた。成人してもしばらくは誰とも結婚せず、決まった恋人がいる様子もなかったため、自分にも可能性があるのではと、彼女と一晩を共にするため通いつめていた客は数えきれない。――だが、その陰に、カルヴァンとの爛れた恋仲関係があったことを知る者はいったい何人いるのだろうか。

(心配したリリカの兄ちゃんから相談されたくらいだったし――)

 ジュワッと卵液を温めた鍋の中に流し込みながら、遠い記憶を辿る。

 曰く、妹がいつまでたっても結婚しようとしないが、どうやら最近、様子がおかしい。隠れて付き合っている男がいるようで、兵団関係者かもしれない、ということまでは突き止めたが、頑なに本人が口を割らない。何か知らないか、と。

(心当たりしかなくて、返答に困ったんだよな――…)

 王都の綺麗所は一通りつまみ食いをしているようなカルヴァンだ。あからさまに男を誘うような恰好をして倫理観も緩そうだったリリカに唾を付けていないはずがない。

「半年、か…」

 確かに、一晩のお付き合いも多かったはずのカルヴァンが、半年以上も関係を継続したというならば、それは珍しい相手だろう。十五年たった今も覚えていると言っていたくらいだ。それなりに相性が良かったはずだ。夜の相性なのか、性格の相性なのかは知らないが――当時の彼を思えば、十中八九、夜の相性なのだろう。

(今の俺の外見とは真逆な女だよな――っていうか、何食ったらあんな爆乳が出来上がるんだ…)

「胸――…なぁ…」

 ふ、と十五年の女の人生で、一度だって顧みることのなかった自分の胸部に視線を落とす。剣を振るにしても邪魔くさいそれを、疎んじることはあれど、大きさが足りないなどと思ったことは一度もなかった。

 じ…と無言で胸部を見下ろしていると、ふと、焦げ臭いにおいが鼻を突いた。

「ぅわっ、やべっ!」

 オムレツを作っている途中だということをすっかり忘れていた。慌てて火を止めて皿に移すも、時すでに遅し。こんがりとオムレツと呼ぶには苦しい焦げた卵が出来上がっていた。

「はぁ…何やってんだ、俺は…」

 情けなくなって呻きながらため息を吐く。

 料理すらまともに出来ない。彼の過去の女たちに比べて、夜を満足させるだけの経験も体もない。――果たして自分に"女"としての魅力があるのか、と言われれば全く自信がない。

(本当はわかってる――ヴィーが、『女』の名前を呼んだのが、一番、堪えたんだ)

 ぐっと苦い気持ちを飲み下し、胸中で呻いた。

 思い返せば初めて出逢った日からずっと、カルヴァンが女性の名前をまともに呼んでいるのを聞いたことがない。

 文具屋の娘、五丁目の未亡人、茶器専門店のファムの馴染み――フィリアのことですら、『お前の母親』『聖女』としか呼んだことがないのではないだろうか。一度は結婚寸前まで行ったはずのシルヴィアですら『王女』以外の呼称で呼んでいるところを聞いたことがない。

(リリカは――『特別』、だったのかな…)

 そう思った途端、自分でも理解の出来ない怒気に支配されて、記憶の中の妖艶な美女に対する真っ黒な感情が噴き出した。そして、こうして冷静に考えるほどに、彼女の見た目や性質が今の自分と正反対なことが、黒い感情をさらに増幅させていく。

「待て…落ち着け……相手は、信徒だぞ…」

 昔は信仰心が薄かったのか、幾人もの男性と浮名を流していたリリカだが、今は休日の度に王立教会に眼鏡をかけた年上と思しき落ち着いた雰囲気の夫と連れ立って礼拝に訪れている。イリッツァが知らない十五年の間に何があったのか知らないが、それなりに信仰心が育ったらしい。王都で暮らし始めて一年弱、何度か顔を合わせることも多かった。

 そんな、大事な信徒の一人である彼女に――

(こんな、醜い感情――ぶつけられない――)

 守るべき民だ。愛すべき、信徒だ。

 決して――決してこんな黒い感情を持つことなど、聖女として、許されない。

(しっかりしろ――俺は、『聖女』だ――!)

 イリッツァはぐっとこぶしを握り締めて、無理矢理頭から考え事を締め出したのだった。


 ――そうして彼女は、静かに、聖女の仮面をかぶり直す。

 心から民の幸せを願い、導く、聖女の仮面。


 夫のいる身で人の婚約者を誘惑した女にも。

 聖女の心を案じてくれる優しい補佐官にも。

 自分の代わりに怒りを発露してくれた友人にも。


 いつもの微笑で、胸の内の黒い感情を完全に押し込める。

 柔らかな声で哀れな信徒を導きながら、頭の片隅で、ぼんやりと考える。

 これ以上、カルヴァンと、今の関係のままで一緒にいることは出来ないだろう。

 愛する民の幸せを心から願えない聖女に、存在価値などないのだから――…

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