第32話 素直じゃなくても、可愛い⑮

(これが――最後――…)

 ふと、耳の奥で、聞こえるはずのない馬車の車輪の音が蘇る。――人生で、生まれて初めてした、忘れられない口づけの記憶。

「ツィー」

 優しく呼ばれて、トクン…と心臓が一つ、甘く動いた。

 ふわりと、大きな手が頬に添えられる気配があり――そのまま、幻のように、唇に、この一年でいつの間にか馴染んだ温もりが触れた。

(――ぁ――…)

 最後の口付けは――初めての口付けと異なり、飛び切り甘く感じられた。

 それなのに、初めての時よりもずっと――なぜか、胸が、締め付けられるように、痛い。

(最後――か…)

 イリッツァは、カルヴァン以外の誰かと結婚するつもりはない。生涯、聖職者として生きる覚悟を決めている。そうなれば、これが、正真正銘人生最後のキスなのだろう。

「――――…」

 重なった時と同様に、幻のようにゆっくりと唇が離れていく。やさしく、大切な宝物にするかのように、丁寧に重ねられていた唇が――

「――――――んぅっ!?」

 なぜか、離れたと思った瞬間もう一度重ねられ、思わず驚いて変な声が出る。

(えっ!?えっ!?な、何で!?最後、じゃなかったのか!?)

 困惑するイリッツァの胸中など完全に置いてきぼりにして、ちゅ、と甘いリップ音を響かせながら、カルヴァンは当たり前のような顔で何度も口づけを繰り返す。

「っ…ツィー…」

「――――っ!!?」

 角度を変える合間に囁いて、困惑のあまり逃げ腰になったイリッツァの身体をぐっと引き寄せると、頭を抱えるようにして口づけを深めた。

「~~~~~~っ!!!?」

(ちょ、待っ――えぇえええ!!!?)

 思い出に、等と言っていたせいで、てっきり創作物語などに出てくるような美しく切ない、触れるだけのキス一つで終わると勝手に思っていた。

 こんな、貪るような激しい口づけをされることなど、全く想定していない。

「っ、ちょ――んっ…待っ、ヴィ――」

「うるさい黙れ」

「んんん!!?」

 抗議の声を上げようと身をよじるも、少し上がった熱い吐息とともに不機嫌そうな声が響き、すぐに抗議の言葉ごと唇を塞いでしまう。

(え、ほんと、何考えてんのこいつ――!)

 仮にも聖女相手、それもこの後友人に戻る前提の相手に、こんな官能の極みのような深い口づけを施す神経が全く理解できない。

 混乱するイリッツァの様子など意に介した様子もなく、カルヴァンはその桜色の唇を何度も角度を変えて堪能しながらさらりと銀髪を撫でる。

「は…ツィー…」

 両手で頭を抱え込むようにして銀髪の手触りも堪能しながら、噛み付くように口付ける合間に囁く声は熱っぽく、完全にいつもの"スイッチ"が入った状態に他ならない。

 イリッツァは混乱に目を白黒させ――

「――――っ!!!?」

 ぐるんっ、と一瞬視界が回った――と思ったら、視界に天井が広がった。ドサッと背中から投げ出されるようにして倒れ込んだ寝台が、ギシッと小さく軋む。

「っ、ちょ――待て待て待て、これはシャレにならない!!!!」

 当然のように上に伸し掛かろうとしてくるカルヴァンに、慌ててストップをかける。

「安心しろ。襲ったりしない。――キスするだけだ」

「えっ、いや――えっ!?ちょ、待っ――」

 宣言通り、ベッドに投げ出された状態でも、過去に何度か押し倒された時のように怪しく体を指が辿ったりすることはなく、シャツの釦に手がかかることもなく、ただ唇を寄せられて再びキスの続きが始まる。

(いやいやいや、意味がわからんっ…!っていうか――)

「ちょっ――オイ!!!お前、いつまでやるつもりだ!!!」

 永遠に思えるほど繰り返される熱い口づけに、我慢の限界になって思わず両手で相手を押し返して叫ぶ。顔が真っ赤になっているのは、羞恥と酸欠の両方だろう。

 しかし、怒鳴られた本人はそんなイリッツァの様子など気にした様子もなく――むしろ、いいところで中断された、とでも言いたげに不愉快そうに顔をしかめて、当たり前のように口を開いた。

「何回でも。気が済むまで」

「っ――」

「キスには回数制限なんかなかっただろ」

「そっ…そう、だけど――」

 いつかどこかで聞いたような返答と、当たり前だろうとでも言いたげな態度に、イリッツァの方が困惑する。

「何日ぶりだと思ってるんだ。一回なんかで終わるわけがない」

「いや…えっと…」

「友人になりたい、なんていうのを撤回するならやめてやる。それなら、し足りない分は、明日以降に回す。――だが、これが最後だ、って言い出したのはお前だろう。だったら、悔いなく堪能し切るぞ」

「っ……」

 言うが早いか、すぐさま降り注ぐキスの雨を、イリッツァはぎゅっと瞳を閉じてなんとか受け止める。

 キスの合間にも、きゅっと指を絡めるようにして手を握ったり、髪をサラリと撫でたり、思い出したように身体ごと強く抱きしめたり――それは、どう考えても、愛しくて堪らない恋人にする愛情表現に他ならなかった。

 確かに、求婚以来一度も明確な言葉は無かったが、言葉以上に明朗に伝えられる「愛している」のメッセージに、胸の奥がきゅぅっと甘く切なく狭くなるような錯覚とともに、心臓がドキドキとイリッツァ本人の意図に反して駆け足になる。

 ――わかっている。

 愛されている実感がない訳ではないのだ。

(だけど――)

 不意に走り出してしまった心臓をきゅっと眉根を寄せて宥めて、そっと口付けを繰り返す婚約者の身体を押し返す。

「ヴィ、ヴィー…」

「なんだ」

「そ、そろそろ――…」

 ふ、と羞恥に頬を染めながら瞳を伏せて控えめに主張する。

「まだ全然足りないんだが」

「っ…う、嘘つけ…!ど、どれだけ――」

「――まあ」

 イリッツァの言葉を遮るようにして、カルヴァンはしれっと言葉を紡ぐ。

「――永遠に、気が済むなんてことは無いんだが」

「――――――――へ――――?」

 きょとん、と薄青の瞳が見開き、まじまじと自分を至近距離から見下ろす雪国の空を見上げた。

「キスしてる間は、婚約者でいられるんだろう。――じゃあ、永遠に終わりなんて来ない。来るわけない」

「え――?え…???」

「お前が、勝手に自己完結して、こちらの話を聞くつもりがないのはわかった。――だが、こちらとしても、お前の訳のわからん申し出を受け入れるつもりなんぞ毛頭ない」

「――――は――?」

「どっちが先に音を上げるか、勝負だな?」

 ニヤリ、と片頬を歪めて意地悪そうに笑う。さぁ――とイリッツァは面を青褪めさせる。

 やっと気づいた。

 何度も伏せられるカルヴァンの瞳。いつだって高速で回転するその頭脳は、相手をいつの間にか罠に嵌めて思い通りに動かしていく。

「待っ…あ、あり得ない!そんな――だ、だって、キス、なんて、そんな長いこと――」

「生憎、俺はお前相手ならいくらでも――それこそ永遠にだってキスしていられる。何度キスしたって飽きない。キスの相性は最高だし――何よりお前の反応がいちいち可愛くて、止まらない」

「!!!?」

「まして、一週間以上、キスどころかまともにハグすることも、言葉をかわすことすら出来なかったんだぞ。ここ最近の深刻なツィー不足を補うためなら、何度だって出来る。何度だってしていたい」

「は――はぁ!!!?」

「言っただろう。撤回するなら、仕方ないから残りは明日に回してやる。――お前が音を上げるまで、寝かせる事もしないから覚悟しておけ」

 ニッと不遜に笑うその表情は、まさに手のつけられない悪童そのもので――こういう表情をしているときのカルヴァンが、どこまでも本気で、決して人の話など聞かないことも、イリッツァは長い付き合いで良く知っていた。

「うっ…嘘つき!!!最後、なんて言って――」

「嘘は一つもついていない」

「だ、騙したな!!?」

「騙されるほうが悪いだろう。――そもそも、なんで俺がそんな申し出を受けると思ってるんだ。馬鹿なのか?」

 呆れたように半眼でイリッツァを見下ろし、カルヴァンは嘆息する。それこそ天変地異が起きたとしても、そんなことはあり得るはずがないというのに。

「で?撤回する気になったか?」

「っ…な、ならないっ…!」

「ほう。――まぁ、俺としては、公然とキスする口実がもらえて、嬉しいことしかないんだが」

 にやり、と性格の悪い笑みを浮かべて、再び唇を寄せる。

「ここからは、飛びっ切りエロいキスしかしないからな。――どこまで『聖女様』が我慢できるか、今から楽しみだ」

「っ――――!」

 サッとイリッツァが息を詰めて顔を青ざめさせる。恐怖に近い感情とともに、ふぃっと顔をそむけて抵抗の意思を示すが、カルヴァンはその反応すら楽しむようにくっと喉の奥で笑いを漏らしただけだった。

 聖職者として、キスは性愛に触れる行為だと思っている彼女にとって、この一年近く、何度繰り返したとしてもその行為に慣れるということはなかった。唇に触れるだけのキスでもほんのりと桜色に頬を染め上げる。"スイッチ"が入ったカルヴァンに深い口付けをされれば、首から耳までを夕日よりも赤く染めあげて、ただただ翻弄されながら早く終わってくれと念ずる日々だ。

 禁忌に触れる行いでもあるそれを、殊更性愛を感じさせるようにするぞと宣言されては、イリッツァが涙目になるのも仕方ない。罪悪感で、本当は今すぐにでも逃げ出したくてたまらないのだろう。

 基本的に、好きな女は苛めたいという子供のような志向性を持っているカルヴァンにとって、そうして葛藤しているイリッツァを眺めながら思う存分キスすることは楽しいに決まっているし、罪悪感に耐えられなくなってイリッツァが宣言を撤回するというのならそれも構わない。

 結局、どこに逃げても、最初からイリッツァに逃げ道などないのだ。

(さて――どうやって攻めるか)

 悦に入るように目を眇めて、愛しい婚約者を眺める。涙目で震えるその姿は、捕食者に追い詰められた獲物としか言いようがない。どうあっても逃げられないことを頭の片隅で悟って恐怖する姿は、カルヴァンの独占欲をこれ以上なく満たした。

「あぁ――最高だな。今すぐ抱きたい」

「っ――!」

「俺のだ。――俺の、ツィー」

 うっとりと熱に浮かされたように囁き、吐息すら独占したいと伝えるように、奪うように唇を重ねた。

 ねっとりと味わうように深まっていく口づけに、イリッツァはぎゅっと固く瞼を閉じて罪を重ねる罪悪感を耐え忍ぶ。カルヴァンは、まるで甘い檻に閉じ込めるように、指を絡めるようにして両手を繋いだ。決して逃がしはしないと伝えながらも、絶え間なく送り込まれる愛情を前に、イリッツァの決意が崩れることを狙って、ぐずぐずに甘やかしていく。

「っ、ぅ…ヴィっ…も、やめ――」

「ん?――撤回する気になったか?」

(俺としては、もう少しこの状況で楽しみたいんだが)

 上がった吐息の合間で囁くように懇願する言葉に、ニヤリ、と片頬を歪めて問いかける。続く言葉は、口に出すと殴られそうだったので、そっと心の中にしまい込んでおいた。

「な、なんで――なんで、お前、そんなに俺に執着するんだ…!」

「?」

「俺はお前の暴れ馬みたいな性欲を満たしてやれない…!一緒にいるのは、友達でも、出来るっ…別に、誰か他の男と結婚するつもりなんてないんだから、お前がよく言う『独占欲』も、別に関係ないだろっ…!」

「はぁ…?関係あるに決まってるだろ」

 カルヴァンはこれ以上なく呆れた声を返す。

「独占欲を満たしてくれるつもりなら、俺だけを特別扱いしろ、って昔言わなかったか?」

「とっ…友達だったとしても、ヴィーは、特別だっ…!」

「ランディアと比べても?」

「そ、そうだ!」

「ほう。――どうやって証明する?」

「――――…へ…?」

 パチリ、と薄青の瞳が瞬く。カルヴァンは半眼のままでじぃっとイリッツァを眺めた。

「え…と……しょ…証明…?」

「あの暗殺者よりも俺の方が特別だって、どうやって実感させてくれるのか、って聞いてる」

「――…ぇ…っと…」

「今の状態なら、俺は特別扱いされているんだと実感できる。お前が"女"としての感情をのぞかせるのは俺の前だけだからな。――だが、友人となれば、別に、ランディアと見せる顔は変わらないだろう。街の奴らには見せないリツィードとしての顔も、あいつには見せる。昔は俺の前でしか見せなかった、素で笑ったり困ったりする表情も、あいつの前では普通に見せるだろう」

「そ…う、だけど…でも」

「むしろ、あいつには肌を見せても抵抗がないんだろう?――お前、俺と友人関係になった瞬間、俺にも普通に肌を見せられるのか?」

(そんなことされたら普通に襲い掛かるが)

 心の中のつぶやきは表に出さず、イリッツァの顔を覗き込んでやると、ボッと一気に火が付いた。――どうやら、友人になったからと言って肌を見せてくれるようなことはないらしい。

「――ほらみろ。むしろ、あいつの方が『特別』な友人だろう。ふざけるな」

「で、でもっ…な、何かあった時に、譲れないのは、ヴィーだ…!」

「何かあった時、だろう。友人に成り下がった瞬間、平常時は他の男の方が特別扱いされる。――俺のメリットは皆無だ。つまりこの件に関しては、お前の主張は検討の土台にすら乗るわけがない」

「な――!」

「女遊びを好きにしていい、っていうのも、俺にとっては何のメリットにもならない。そもそもお前以外の女を抱きたいと思っていないし――第一、性欲が爆発してる思春期のガキじゃあるまいし、仕事も忙しい中、この歳になって今更何人も同時進行で相手にするとか、面倒くさい以外の何物でもない。昔たいがい遊びつくしたしな」

「――――」

「本気で要求をのませたいなら、もう少しましな交渉材料を持ってくるか、せめてもっと納得のいく理由を持ってこい」

 呆れながら告げると、イリッツァはぐっと言葉に詰まった。

 カルヴァンは小さく嘆息し、さらりとイリッツァの銀髪を撫でる。

「ここ最近、殆ど眠れていない」

「え…?」

「お前を抱きしめて寝るのが当たり前になってたせいで、今更、独りで寝ろと言われても居心地が悪い。落ち着かない」

「――――!」

「俺は自分の安眠のためにもこの関係を続けたいと思っている。――お前は?」

「ぅ……」

 自分も、カルヴァンがいないと寝つきが悪くなっていた――などと認めてしまえば、もはやイリッツァの要求を通すことは出来ないだろう。これ以上なくイリッツァは眉を下げてから顔を隠し、懇願するように口を開いた。

「ごめん――ごめん、俺は、どこまで行っても『聖女』なんだ――!」

「……お前、それ、リアムにも言っていたらしいな。友人になりたいとか斜め上のことを言い出したのはそれが原因か?」

 顔を両手で覆ったまま、こくり、と小さな銀髪が頷くように揺れた。

 カルヴァンはいつものように左耳を掻いた後、肺の中の空気を押し出すようにため息を吐いた。

 ここまで手を変え品を変え、宣言を撤回するチャンスを与え続けても頑なに言うことを聞かないならば、切り札を出すしかないだろう。知ってはいたが、ここまで素直になれない女だとはさすがに思わなかった。

「――言っておくが」

「……?」

「長い付き合いだし、まぁ、お前の言葉尻を追えば、なんとなくお前が何を考えているかの予想はついている」

「――――!!?」

 驚いたイリッツァは、バッと跳ね起きるように体を起こし、カルヴァンを見つめた。

 カルヴァンは片眼を眇めてその視線を受け止めた後、もう一度ため息を吐いた。

「だが、確証はない。――天地がひっくり返っても、そんなことあるわけないって思ってたからな」

「っ………!」

「正直未だに、全部俺の都合のいい妄想なんじゃないかと思っている部分が大きい。――だから、お前の口から話せ、ツィー。話してくれれば、検討が出来る。改善策も考えられる。話してくれなきゃ、何も出来ん」

 きゅ、とイリッツァの形の良い眉が寄せられ、へにょ、と情けなく下げられる。薄青の瞳が揺らぎ、白銀の睫が惑うように伏せられた。

 そして、イリッツァは想い描く。

 すべての始まりとなった、あの日の朝を――

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