第27話 素直じゃなくても、可愛い⑩

「――ってことがあってさ。だから、たぶん、事実としてキスはなかったんじゃないかなと思うけど、まぁ、俺が来なかったらしてたかもなと思うから、もしかしてヴィーの中ではキスって浮気に入ってないのかなと思って。一般的にはどうなんだろうって気になって聞いてみたかったんだ」

「ちょっとちょっと、穏やかじゃなくない?何その女。カルヴァンの忘れられない女、みたいな感じなの?」

 ごろん、とベッドに寝転がったまま、ぎゅっと眉根を寄せて不機嫌そうにつっかかるランディアに、イリッツァはうーん、と眉を下げて呻く。

「さぁ――…まぁでも、人のこと抱きしめながら間違って名前呼ぶくらいだし、たぶん、結構特別だったんじゃ――」

「ちょ――――えっ!!!?ちょ、ま、待って、何それ!!!!?」

 思わずイリッツァの言葉を遮る。ぼすん、とクッションを叩くようにしてランディアが即座に体を起こした。

「リッツァの名前間違えたの!!!?あの糞男!!!!!」

「あ――いや。厳密には間違えたって言うか――勘違い?したんじゃないか?」

 明らかに怒気をあらわにしたランディアに、慌てて正確に言い直す。――あまり怒らせると、この友は簡単に人の寝首を物理的に掻きに行く。

「夢で見たんだと思う。寝てるとき、俺のこと抱きしめたまま、譫言みたいに名前呼ばれた」

「――うわ…最低…」

 怒りを通り越して呆れたのか、半眼になったランディアにイリッツァは苦笑を返す。

「だから最初、完全に浮気してると思ったんだよ。――浮気、っていうか、逢引き?俺は、どこからが浮気かっていうの、よくわかんねぇからさ。浮気は許さないって伝えてる以上、カルヴァンとしても浮気をしてるっていう認識はないと思うから――あの日も、店の中で二人が近づいてねっとりした雰囲気纏ってるの見た時に、あー、やっぱりじゃん、って思ってた」

 だから、店に入ってから声をかけるタイミングを失ってしまったのだ。――明らかに、修羅場に突入する未来しか見えない。

「でもさすがに、キスは黙って見ていられなくてさ。――信徒に見られれば、カルヴァンが闇討ちに遭いかねない」

「――え、そこ?嫉妬、とかじゃなくて?」

 ぱちぱち、とランディアが漆黒の瞳を瞬くが、イリッツァはふ、と瞳を緩めただけだった。

「嫉妬、とか、そんなのは聖女とは無縁の感情だ。聖女は、信徒を等しく心から愛す。信徒相手に、そんな醜い感情、抱くわけない。そんなの、聖女失格だ」

「…だから、そのリリカっていう女の子にも、聖女として道を説いてあげたってこと?」

「あぁ」

「カルヴァンにも、怒ってない?」

「もちろん」

「ふぅん…まぁ、リッツァがそれでいいならいいんだけど」

 少し不満そうな顔でランディアはつぶやく。

 イリッツァはそれを見てから、静かに瞳を伏せた。

「ただ――感情の問題じゃなくて、もう、カルヴァンと婚約なんて関係は継続できないな、とは思ってる」

「え――?ど、どういうこと…?」

 驚きに目を見張る友に、イリッツァは再び苦笑を向けて、心境を吐露した。

「あいつの倫理観がぶっ壊れてるのは知ってるし、エルム教の教義とは違うところにあるのもわかってる。誰とキスしようが夜を共にしようが、それは浮気に入らない、って言うなら、あいつの中ではそれらの行動と俺に対する愛情とに矛盾がないのもちゃんとわかってるけど――このまま結婚したら、神様に嘘を吐くことになる」

「嘘…?」

「エルム教の結婚式では、神様に生涯一人の伴侶だけを愛する、って誓いを立てるんだ。あいつは、神様なんて信じてないから、その場で形だけの儀式をすればいいって思ってるんだろうけど――俺は、神様の前で嘘の誓いを立てさせるなんて、神罰が怖くて、逆立ちしても出来ない」

「――――…」

「体の関係があっても気持ちはない、なんて、そんなのをエルム様が許してくれるとも思わないしな」

 白銀の睫が、頬に暗い影を落とす。しん…と何とも言えない沈黙が下りた。

「でも…じゃあ、どうするの?これから」

「ん――…それなんだよな、問題は。普通に考えたら、神殿に引っ込むだけなんだけど――いろいろ考えたけど、すでに公に婚約を発表している以上、そう簡単に覆すわけにもいかなくて」

 困った顔で眉を下げてイリッツァは嘆息する。

「リアムなんかは、帝国と国交が生まれた後に帝国の男と結婚すればいい、とかっていう面白い案を出してたけど」

「え、何それすごく面白いじゃん。――じゃあ、うちのヴィーと結婚しなよ!おすすめだよ!」

「ははっ…まぁ、どうせ結婚するなら、王国のためになるような結婚がいいんだろうなって思うから、するならヴィクターだろうな。――死神と結婚なんて、って言って、めちゃくちゃ嫌がられそうだけど」

「そうかな?意外とノリノリな気がするけど。リッツァ美人だし」

 苦い顔で言うイリッツァに、眼をきらめかせるランディアは、冗談を言っているようには思えない。呆れてイリッツァは嘆息した。

「いやいやいや…言っておくけど、俺、国のために結婚するって言ってるだけで、女として普通に妃の役割を求められるならお断りだからな?子作りしようなんてした瞬間、たぶん二度と男として使い物にならないように抵抗するぞ」

「うわぁ、それは困るね。もうヴィーには男の子も女の子もいるけど、もう少し作ってからじゃないと何かあった時にお家騒動が心配だ」

 ケタケタとおかしそうに笑うランディアは、誰の味方なのかよくわからない。

「前みたいに第四妃として、とか言われたら、それはそれで王国民が黙っちゃいないだろうしな。突拍子もなさ過ぎて面白い案だと思ったけど、実行するには色々ハードルが多すぎる」

「うーん、確かに。僕も、リッツァに政治的な道具としてお飾りの一生を過ごしてほしいわけじゃないしなぁ…」

 ランディアは頭をめぐらすようにゆっくりと視線を宙に這わせ――

「――あ。僕と結婚するって言うのはどう?」

「――――――――はぁ????」

 良い思いつきだ、と言わんばかりに輝く笑顔で言われ、イリッツァは素っ頓狂な声を上げた。

「僕は無性愛者だから、君に恋愛も性愛も抱くことはないよ。男女の関係になることはない。友愛は今まで通り抱けるけれど」

「え…えぇぇぇ…???」

 気にした風もない急な友のセクシュアリティのカミングアウトに、イリッツァは困惑の極みで言葉を返す。ランディアは、にこにこと思いつきをそのまま言葉に乗せていった。

「カルヴァン以外の男と男女の関係にはなりたくないんだろう?でも僕は、あの真っ白な気色悪い空間にリッツァを独りで籠らせたくはないんだ。君の国内で、リッツァを聖女として神聖視しない人間は珍しいだろうし――国益のためのヴィーとの結婚は、子供を産むことを強制される。――じゃあ、僕と、社会的な見え方だけ繕う結婚をすればいい。運命的な出会いで惹かれ合ったとか、民衆が好きそうな適当なストーリーを付けてさ。ヴィーとの結婚程じゃなくても、王国と帝国の友好の証として見られる。表向きには、僕は皇室御用達の薬師兼ヴィーの側近の一人ってことになってるから、帝国内での社会的地位もそこそこあるよ。一緒に住むことにはなるだろうけど、実態は同棲じゃなくて同居だ。――どう?楽しそうじゃない?」

「いや……うーん」

 イリッツァは眉を下げて呻きながら考える。

 ランディアは「何が不満なのさ」と唇を尖らせた。

「なんだろうな…ヴィクターと結婚するっていうのを思いついたときも考えたんだけど」

「うん」

「色々ハードルはあるとはいえ、まぁ、上手くやる方法がないわけじゃない。ヴィクターやディーなら、俺の素性もよくわかってるし、聖女としての自分だけじゃなくて、リツィードとしての素の部分も出せるから、知らない男と結婚するよりは楽だろうなとも思う。それなりに楽しく人生送れるかもしれない」

「うん、僕もそう思うよ。だから――」

「――――――でも、どんな未来を想い描いても、さ」

 イリッツァはランディアの言葉を遮り、漆黒の瞳を見返す。――呆れたような、半眼で。

「なんでだろうな。――どっちの未来でも、激怒したカルヴァンが乗り込んでくる光景しか、浮かばないんだ」

「――――――あぁ――…それは……うん。そう、だね……僕も、すごくリアルに想像できるよ…」

 達観したような眼をして、ランディアもまた呻く。

 二人は今、髪を染めて、卑怯な手をたっぷり使って、総大将としての責務もあっさり全て投げ打って、イリッツァのためだけに無理矢理軍事拠点に乗り込んできた真紅の装束を一緒に想い描いているのだろう。

 独占欲を拗らせまくっている彼が、いくら国益のためだと説き伏せたところで、イリッツァが自分以外の男の嫁になることなど、絶対に許しはしないだろう。まずは政治的にもそんな事態にならないように、その優秀な頭脳をフル回転させて必死にすべての伝手を使って動くだろうし――万が一それが叶わず、イリッツァが隣国へ嫁ぐようなことがあれば、相手の屋敷に乗り込んで物理的にイリッツァを奪い、雲隠れすることで彼女を己の物にしようとするに違いない。

 そんな未来がありありと浮かんで、イリッツァとランディアは、二人同時に噴き出した。

「ははっ、すごい。リッツァ、すごく愛されてるね」

「自由な奴なんだよ、ほんと。独占欲が強すぎる」

 王国騎士団長などという地位を思えばそんなことは出来ないはずなのに、自国の国益についてなど「知るか、そんなこと」の一言で切り捨てて、あっさり実行してしまいそうなところが怖い。イリッツァは吐息だけで笑った後、小さく嘆息してランディアを見た。

「だから、さ。いろいろ考えてくれてありがたいけど、他人に迷惑かけるのもな、と思うから――他の男と結婚っていう道だけは、やめておこうと思う。相手が誰であろうと、カルヴァンが、本気で相手の男を殺しかねない」

「ふふ、わかったよ。一度、英雄と手合せしてみるのも面白そうだけど、それはリッツァが悲しがると思うから、やめておいてあげる」

「ん。ありがとう」

 ふわり、とほほ笑んでから、イリッツァはぼすっとベッドに横になった。

「まぁ…仕方ないから、一度、カルヴァンと、ちゃんと話すよ。で、どうしたらいいか二人で考える。あいつの社会的地位が脅かされるような世論にはさせたくないから、どうやったら婚約破棄してもお互い国民に理解してもらえるか、考えるしかないな。あいつ、頭いいし、何か思いつくだろ」

「どうかなぁ。そもそも、婚約破棄だなんて、彼、納得する?」

「ははっ…すぐにはしないと思うけど。――まぁでも、俺も、今更縁を切るとか、二度と会わないとか、そんな頑ななことを言うつもりはないからさ。昔みたいに――『友達』に戻ろう、って言うつもりなんだ」

「――――…」

「昔と違って、手を離すつもりじゃない。ちゃんと、手は取ったままで生きていく。カルヴァンが握ってくれた手も、握り返す。――友人として、だけど。それを懇々と話して、なんとか納得してもらうしかないな」

「――そっか。まぁ、リッツァがいいなら、いいよ。好きなように生きればいい。僕は、君のどんな選択も応援するから」

 暗殺者にしては甘すぎる漆黒の瞳が優しく緩むのを見て、イリッツァはふわりと笑みを漏らしたのだった。



 暗闇の中、まんじりともせず寝返りを打つ。月明かりの角度を見れば、すでに深夜を回っているようだ。

「…リッツァ…?まだ、起きてるの…?」

「あ、ごめん。起こしたか?」

「ううん、大丈夫。――どうしたの、珍しい。敵国のど真ん中でもあんなに寝つきが良かったのに」

 いつもより少しゆったりとした口調なのは、きっと彼が束の間眠りの世界に旅立っていたせいだろう。一流の暗殺者の隣で身じろぎなどすれば、当然彼を起こしてしまうことになるとわかっていたはずなのに、申し訳ない。

 ランディアは、くす、とおかしそうに笑い声を漏らして、イリッツァの方へと体ごと向き直るように寝返りを打った。捕虜として手足を拘束された状態ですら、イリッツァは瞳を閉じればさっさと寝入っていた過去を思い出しているのだろう。一見、可憐な美少女にしか見えないイリッツァの豪胆な性格に、当時は舌を巻いたものだ。

「なんだろな…最近、寝つきが悪くて。――まぁ、魔法かければすぐなんだけどさ」

「ふふ…光魔法って便利だよね。僕も時々、仕事明けで神経高ぶって眠れないときは、安眠の魔法をかけたりしてたよ」

 安眠の魔法は、光魔法の中では難易度はさほど高くない初級魔法だ。王国では、聖職者見習いですら使役することが出来る基礎中の基礎なので、闇の魔法使いとしての顔を持っていた時代でも、ランディアはその魔法を使役できたのだろう。

「ただ、うっかりすると次の日寝坊するから、加減が難しくて」

「あぁ…聖女様の魔法となれば、強力すぎるもんね。――じゃあ今日は、僕がかけてあげるよ」

 遠慮しようと口を開く前に、ランディアはイリッツァの額の前にその手をかざしていた。パァッ――と淡い光が闇の中に幻のごとく浮かぶ。

「ん――…あり、がと…」

 とろん、と瞼が重くなってきて、意識がなくなる前に慌てて礼を口にする。魔法の効果による強制的な眠気は、やや不快を伴うが、一晩中ごろごろと寝返りを打ち続け、くだらないことを考え続けるよりはずっといい。

 毎日――毎日あったはずの、落ち着く香りがない。すっぽりと包み込んでくれる、温もりがない。額を預けると安心する厚い胸板がない。

 ――『おやすみ、ツィー』と囁いてくれる、いつもの挨拶が、ない。

(あぁ――嫌、だな…)

 転生してまで、ずっと焦がれた響き。――十五年前は、毎晩その挨拶を聞くたびに、いつも、二度とこれが聞けなくなるのかと、決心が鈍っていた。

 話し合いの結果、どうしても決裂してしまったら――昔と同じく、その手を離して神殿に籠る以外なくなってしまうのだろうか。

(それは、嫌だ――)

「おや、すみ――ィー――…」

 眠りに落ちる直前にささやく、いつもの挨拶は、相手に届いただろうか。

「ふふ…おやすみ、リッツァ。――よい夢を」

 クスリ、と吐息が漏れる音が聞こえた気がしたのを最後に、イリッツァの意識は曖昧模糊な靄の中へと吸い込まれていった。

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