第26話 素直じゃなくても、可愛い⑨

 文具屋に取って返してきたイリッツァを、リリカは驚いて出迎えた後、事情を聴いて平謝りした。

「本当に申し訳ありません。そのまま取っておいてくださっても良かったのに――」

「神に仕える身として、そのようなことは出来ませんよ」

 苦笑に近い笑みを漏らして、商品を返すと、じっと赤茶色の瞳がもの言いたげに顔を覗き込んできた。視線に気づき、疑問符を返すと、リリカは少し痛まし気な顔をして、恐る恐る口を開いた。

「あの――失礼を承知で、うかがってもよろしいですか?」

「はい」

 エルム教徒との会話をイリッツァが拒むはずもない。いつもの慈愛に満ちた完璧な微笑を浮かべると、リリカはそっとその男を虜にする唇を開いた。

「聖女様は――あの男を、愛しているのですか…?」

「え――!?」

 まさかそんな質問を受けるとは思わず、少なからず動揺する。あの男――と言われて心当たりがないはずもない。

(えっと――こ、これってどうやって返すのが正解だ…!?)

 一瞬、聖女としての『模範解答』が何かわからず困惑した。薄青の瞳が泳いだのをどう見たのか、リリカはそっと瞼を伏せる。

「聖女様は、本当にお優しく、慈愛に満ちておられます。私のような穢れた信徒が言葉を交わすような資格を持つはずもないのに、私を思って道を説いてくださる――」

「えっ、いや、えっと、それは――」

 おそらく先ほどのカルヴァンの前でのやり取りのことを言っているのだろう。困惑したままイリッツァは意味のない言葉を繰り返した。

 信徒を導くことは、イリッツァにとって『仕事』だ。まして、聖女たる自分は普通の聖職者よりもより多くの民を救う使命がある。相手の信仰の深さなど関係するはずもない。

「そんな貴女は美しく、気高く、高潔で――だからこそ、心配です」

 赤茶色の瞳を彩る長い睫を震わせたリリカは、か細い声を出した。イリッツァは、言葉の意味が分からず視線だけで問い返す。

 すると、意を決したように面が上がり、意志のこもった瞳がイリッツァを射抜いた。

「聖女様――あの男は、やめておいた方がいいです――!」

(わぁ――なるほど、そうきたかー…)

 一瞬、頬を引きつらせそうになったのを、必死に聖女の仮面で取り繕う。

 しかし、愛すべき信徒はどうやら本気のようだ。必死の形相で言い募る。

「聖女様のご年齢ではご存じないかもしれませんが――あの男は、本当は、エルム教徒の風上にも置けないほどの、女にだらしのない男なのです…!」

「――――――はぁ」

(知ってる)

「私が人のことを言える立場でないことはわかっています。それでも――それでも、純粋無垢な聖女様が、あの男の正体を知らぬままに誑かされているのではと心配になって――!」

「…はぁ…えっと…」

 気まずそうに視線を逸らしてイリッツァは言葉を考える。

 カルヴァンの昔の女事情は嫌というくらい知っている――おかげで当時は何度も面倒事に巻き込まれたし、何ならリリカの件にも軽く巻き込まれた記憶がある――が、イリッツァの公の年齢を考えれば、それを告げるのは不自然だ。世間に広く知られている認識では、ずっとどの相手との結婚も拒んでいたせいか、カルヴァンは女嫌いの鬼神ということになっているらしく、王都一の女たらしと呼ばれていた時代があったと言葉で聞かされたとしても信じられない人間の方が多い。三年も傍にいたリアムでさえ、何度もファムに聞かされたことがあるだろうにしばらく信じていなかったくらいだ。公の記録ではつい一年前に偶然に出逢っただけのイリッツァが、その噂を心から信じるというのはおかしい。

 だが、目の前の信徒が蒼白な顔で本気でイリッツァを心配しているのを見ると、まるで騙しているかのような気持ちになり、居た堪れないのも確かだ。

「いいですか、聖女様。貴女様はきっと男性の免疫がないでしょうからわからないかもしれませんが――男という生き物は、愛などなくても、まことしやかにそれを囁けるのです。『お前だけだ』『信じてくれ――』そんなことを言いながら、平気で裏では他の女とよろしくやっているものなのですよ」

「……は、はぁ…」

「そういうときの男は、決して嘘を言っているようには見えないでしょう。――当たり前です、嘘などついていませんから」

「へ…?」

「その瞬間、その時は、確かに男の中では、まぎれもなく目の前の女が世界一愛しい存在なのです。その瞬間だけは、本気でこの女と結婚してもいい、くらいのことを思っています。何ならそんなことを睦言で嘯きます。――ただし、女が目の前からいなくなり、別の女を前にした時――その時は、心から、その別の女を愛しく思っている…故に、どちらも嘘ではないのです。どちらも、心からの、真の言葉なのです」

「――は、はぁ…」

 真剣な表情は、どこか鬼気迫るものがある。――もしや、リリカの若いころの体験談なのだろうか。話の内容よりも愛すべき信徒の過去の方が気になって来た。婚姻関係を結んだ夫がありながら昔の男を誘惑するような悪女になってしまった背景には、カルヴァン以外にも男性関係で酷く心を痛めた過去があったせいではないだろうかと心配になる。

「あの男は、夜を共にするまでは、息をするように女を褒めるでしょう。最高にいい気分にさせてくれる天才ですが――惑わされてはいけません」

「あ、あの――」

 未成年の聖女を相手に、当たり前のようにすでに夜を共にしているだろうという前提で話をして来る辺りは、リリカ自身の貞操の緩さゆえなのだろうか。控えめに訂正しようと口を開くも、リリカは聞く耳を持たず、言葉をつづけた。

「私は、昔のカルヴァン・タイターという男をよく知っています。そして、彼に泣かされた女性たちも良く知っています。だから、わかるのです。――あの男は、決して女好きなどではありません」

「え――?」

 それは、予期せぬ言葉だった。思わずリリカを見返すと、赤茶色のその瞳が、ふ、と切なげに緩められる。それだけで、儚げな、どこか隙のある色香を纏うのはさすがだ。

「逆ですよ。――あの男は、生粋の女嫌いでしょう」

「――…え。で、でも――」

「聖人様の事件がある前から、ずっとです。あの男は、ずっと――等しく、どの女も、根底では見下し、嫌っている」

「――――――」

 ぱちぱち、とイリッツァの薄青の瞳が何度か瞬かれた。

 リリカは再び視線を伏せてうつむいた。そして、そっと神に罪を告白するように、密やかな声で語り始める。

「昔――昔、私は、一度、本気で彼に恋をしました。遊びの女しか相手にしない、と公言していた彼を承知で付き合い始めたのに…いつか、知らぬ間に、恋に落ちていた」

「……え…っと…」

「最初は、夢のようでした。彼は、一緒にいる間、息をするように私を褒めてくれて、天国を見せてくれる。『女を抱くときに、嘘は言わない主義だ。世辞じゃない』――そんなことを言われて、歯の浮くような口説き文句を耳元で色っぽくささやかれれば、陥落するのは一瞬です。こんなにイイ男に口説かれ、抱かれているんだと思えば、女としての自尊心がどこまでも満たされていくのを感じていました」

「――――…」

「でも――でもね、聖女様。彼と付き合っていくうち――気づくんですよ。彼に口説かれた女の子は、みんな、もれなく」

 ふ…とリリカの面に自嘲に近い笑みが浮かぶ。笑みの形をしているのに、どこか涙が似合いそうな、そんな表情に、トクン、とイリッツァの胸が鳴った。

「彼は、確かに嘘を言いません。それは本当でしょう。私の肌が好きだと、抱き心地がいいと、彼はそんな風に何度も褒めてくれました。――私の知っている女の子たちも、みんなそう。手が綺麗だ、足が美しい、キスの相性が最高だ、一晩中触っていたい髪だ――」

 ドキン

 どこかで言われたことのあるような口説き文句が出て来て、イリッツァの胸が一瞬不穏にざわめく。

「皆、抱かれるたびに、そんな風に褒められて――何度も抱かれるうちに、気づくんです。――――決して、他の部分は褒めてくれないことに」

「………え…?」

 パチパチ、と薄青の瞳が驚きに瞬かれる。リリカは愁いを帯びた吐息を漏らした。

「嘘を言わないから――私の肌が気に入っているのは本当でしょうが、私の髪は好きではないのでしょう。髪を褒められていた子は、癖のないまっすぐな長い髪でした。抱かれるたびに何度もまるで感触を楽しむかのように髪を撫でてもらえると言っていましたが、私はこの癖のある髪を撫でられたことなんて一度もなかった」

「――――…」

 感触を楽しむように髪を撫でるカルヴァンには心当たりがありすぎて、イリッツァはふ、と瞳を知らず知らずのうちに伏せる。

「そうして、皆、ある日気づくんです。――彼に、『愛してる』なんて囁かれたことがないことに」

「ぇ――…」

「さすが、嘘は言わない男ですよね。――本当に、酷い男。知っていますか?あの男、半年近くも関係を持っていた私の名前すら、憶えていなかったんですよ?そのくせ、自分勝手に別れた後に、思い出したように戯れに抱くんです。昔みたいに、肌を褒めて――本当に最低な男…こちらの気持ちも知らないで」

「え――いやでも――」

「きっと、彼にとっては、女を落とすことも、抱くことも、全部ただの遊戯に過ぎない。狙った獲物を落として、自分のものにして――飽きたら、さっさと捨ててしまう。そんな酷いことが出来るのは、女のことを真の意味では好きではないからでしょう。ある種、興味がないのです。女性への尊敬の気持ちが欠片でもあるなら、性欲処理、などと割り切って扱うはずがない」

「………」

「だから、聖人様の事件があった後、彼はそれまで関係を持っていた全ての女との縁を切った。中には、打算など一つもなく、ただ本気で彼のことを心配して、その心に寄り添おうとした女もいたんですよ?だけど、彼はどんな女の言葉にも耳を貸さなかった。――慰みに抱くことすら、しなかった。決して、その心に、不用意に触れることを許さなかった」

「それは――」

「女嫌い、なんて――言い得て妙だなと、きっと彼と関係を持ったことのある当時の女たちは皆思っていたことでしょう」

 一息に喋り切ったあと、リリカはふぅ、とため息を吐いた。そして、もう一度イリッツァを見つめる。

「聖女様。――心当たりは、ないですか」

「え…えっと…」

 イリッツァは言葉に窮して、眉を下げた。

 いくつか、心当たりがあるのは事実だ。カルヴァンは、イリッツァのことを毎日息をするように褒める。癖のないまっすぐな長い髪が好きなのは十五年前から同じなのか、一緒にいるときは常に髪を弄ぶように触れていることが多い。抱きしめているときも、会話しているときも。

(…確かに、なんかやたらと具体的に褒められたことはある…)

 言われたことがあるのは、髪の手触りと――そういえば、泣き顔が好きだなどと訳の分からないことを言われたこともあった。

(…胸とかは、『十五歳にしては発育がいい』って言われただけだし、好みじゃないのか…?)

 目の前の零れ落ちんばかりに自己主張をする巨乳に比べれば確かに慎ましやかすぎるサイズだ。口元に手を当てて、イリッツァは真剣に考える。

(手とか、脚とか、キスの相性とか――肌ざわり、とか。そんなこと、言われたことないな。一度も)

 いつだってカルヴァンは――そう。『可愛い』と漠然と褒めてくる。そのワードだけは鬱陶しいくらい毎日上機嫌で囁かれるが、それ以外で具体的に好きだと言われたことがあるのは、髪だの泣き顔だのくらいだ。

(外見がタイプだ、とは何度か言われたけど――強烈に記憶に残ってるらしい母さんの外見に似てるってだけだろうしな…そもそもそれも、思い出補正が凄そうだ)

 遠い記憶となった母親を想い描いて胸中で呻く。当時の周囲の反応を見るに、一般的に整った顔立ちだったのだろうとは思うが、何せ、イリッツァからすれば肉親だ。しかも、リツィードだったときですら、顔のつくりだけは酷く彼女と似ていたため、あの造形を女として魅力的な顔つきだと言われてもどうにもピンとこない。何なら前世の時は、もっと精悍な顔になりたいと、あの女顔の極みのような造形を憎んですらいた。

(総合点をつけるなら、母さんの想い出補正もあるし、全体の雰囲気的には好みなんだろうけど――嘘はつかないらしいし――でも、パーツで見ていくと、それぞれ細かい好みは別にあるのか)

 なるほど、と妙にストンと腑に落ちてしまった。女を口説くときに嘘を吐かない、というのも、ひどく彼らしくて納得だ。

(――――そういえば、求婚された時以来、一度も『愛してる』なんて言われてないな、俺も)

 ふ…と白銀の睫が影を落とす。

 一緒に住むようになってから、好きだの愛しているだの言われたことがないことに気が付く。可愛い、キスしたい、抱きたい――そんなことはうんざりするくらい何度も言われているが、純粋な愛の言葉など、久しく聞いていない。

 じっと黙って考え込んだイリッツァを見て、何かを悟ったのだろう。リリカはぎゅっと眉根を寄せて痛まし気な表情でイリッツァの手を取った。

「聖女様。決して誰か一人と添い遂げるなんてことを考えなかった彼が、色々な思惑の下であなたと婚約したことは、この国の信徒であれば大体想像がついています」

「ぁ――…えっと、それは――」

「女嫌いの英雄が、人が変わったように幼い婚約者を溺愛しているという噂も聞きました。彼も、市井の民の目を気にして振舞っているのでしょう。そもそも、女を相手に口説き文句を口にすることに何の抵抗もない女の敵です」

「は、はい、それはわかっていますが――」

「でも、聖女様。昔、あの男に惑わされた身として、忠告いたします。――十五歳、男の経験もないとなれば、つい絆されて彼に心から愛されていると勘違いしてしまうかもしれませんが――いいですか。決して、決して、本気になってはいけませんよ。――貴女が、辛くなるだけです」

「――――…は…はぁ…」

 何と答えればよいか本気でわからなくなって、イリッツァはこれ以上なく眉を下げた。

「今日の彼を見たでしょう。昔の女が店番をしていて、偶然の再会を果たしたのに――情の一つもかけない、そんな冷たい男です。誘惑には乗らないくせに、戯れに昔のように肌を褒める、そんな人でなしです」

「――なるほど」

(あのとき、そんな話をしていたのか)

 口の中でつぶやく。さすがに店の奥のカウンターの中の二人の会話は途切れ途切れに聞こえていただけで、すべてが聞こえたわけではなかった。――カルヴァンの『妙な噂を流されたら困る』という発言だけは聞き取れたのだが。

(でも、誘惑には乗らなかったってことは――あの時、ヴィーは本当にキスしてなかったのか…?)

 角度的には、どう見てもキスしているように見えたのだが。少なくとも、いつキスしてもおかしくない程度の距離ではあった。

(もしかして、俺が声かけなかったらキスしてた、ってのが正しいのか…?)

 本当に誘惑に乗らないつもりなら、あの距離で、相手の肌を褒めるなどしないだろう。髪だの手だのならともかく、肌の手触りなど、明らかに夜の情事を連想させるものだ。そんなものをあの距離で堪能しておいて、あの女たらしがこの蠱惑的な美女にキスの一つもしないなどというのは信じられない。そのままあわよくば店の奥になだれ込む、くらいの芸当はする男だ。

 事実としてキスは無かったかもしれないが、キスくらいで文句を言うなと嘯くカルヴァンの姿は容易に想像出来てしまった。――聖職者たるイリッツァには到底理解出来ない価値観だが、二十五年の付き合いは、彼の下半身の奔放さを嫌というほど理解している。

「――リリカさん」

「は、はい」

 善意で忠告してくれるリリカに、イリッツァは聖女の微笑みを湛えた。

「貴女は、過去の恋愛にあまり良い思い出がないように察せられますが――ひとつだけ、伝えさせてください」

「え――?」

「――カルヴァンは、貴女の名前、ちゃんと覚えていましたよ。十五年たった今も、ちゃんと」

 リリカの赤茶色の瞳が、これ以上なく大きく驚愕に見開かれる。

「今日、貴女と再会するより前からです。彼は、貴女の事をちゃんと覚えていました。名前だけではなく、文具屋の、半年以上続いた珍しい女性だったと、しっかりと認識していましたよ」

「ぅ――嘘――…」

「しっかりとこの耳で、彼が、『リリカ』と呟いたのを聞きました。――貴女が望んだ形では無かったのかもしれませんが、それでも、カルヴァンの中では貴女はきちんと残っていた。だから――そんな風に、哀しいだけの思い出にしないでください」

 はらり、と赤茶色の瞳から涙が零れ落ちた。イリッツァは優しく微笑んで、そっとその涙を優しく拭う。

「ただし、エルム様は見ておられます。――カルヴァンと真に結ばれたいのならば、貴女は夫ときちんと話をせねばなりません。夫の理解を得て、神に誓った永遠を破ってでも――と思うのなら、そこで初めて、カルヴァンと向き合ってください。私は、貴女のような心根の優しい女性が神罰に見舞われることを望みませんから」

「せ――聖女、様――!」

 今日もまた、一人の信徒を熱狂的な沼へと無自覚に叩き落として――イリッツァは、にこり、と聖女の微笑みを浮かべたのだった。

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