第25話 素直じゃなくても、可愛い⑧
(結局、あの時、カルヴァンの浮気の基準は聞けなかったんだよなぁ…俺も、正直興味はあまりなかったし)
洗い終えた食器を布巾でキュッと拭き上げながら、イリッツァはぼんやりと回想の世界から現実世界へと意識を戻す。半年ほど前の記憶は、意外と詳細まで覚えていたらしく、その時の夕暮れの紅の色までしっかりと脳裏に焼き付いていた。
(でも、毎日ちゃんと帰ってくるしなぁ…最初のころはともかく、最近は時間帯も早い時があるし、娼館に行ってる感じはしない…リアムから聞いた予定と、俺が聞いてる予定に大きな乖離はなかったし)
うーん、とイリッツァは呻きながら食器棚へと磨き終わった食器を戻していく。
あの時くぎを刺した以上、彼が「これは浮気かもしれない」と思うようなことは絶対にしていないことはわかっている。別に、彼に愛されていないとは思わないのだ。これ以上なく愛されている実感があるからこそ、イリッツァとの約束は守るはずだと信じている。カルヴァンは決して浮気はしないだろう。――浮気をしたらぶっ殺す、というのは冗談でも何でもない発言だと、彼自身も長い付き合いの中でわかっているはずだ。
だから、彼が女性相手に何かをしたというなら、それは彼にとって「これは浮気ではない」と思っている行動のはずなのだ。それがたとえ――キスだったとしても。
「ほんと、一般市民の考えることはよくわかんねぇ…」
ポツリ、とこぼしながら拭き終わった食器を棚に収めていると――
「どうしたの、リッツァ。悩み事?」
「――――」
誰もいないはずの屋敷で背後から飛んできた声に、一瞬イリッツァは目を瞬く。
「――――…せめて玄関から入ってこいよ、ディー」
「ははっ、随分と難しいことを言う」
げんなりと半眼で振り返ると、軽やかなハスキーボイスが返って来た。気配もなく背後に立ち、にこっと笑った顔は、ここ一年で随分と見慣れた中性的な友の顔だ。
「油売ってる暇あるのか?――なんか、カルヴァンに大量の仕事押し付けてるんだろ?」
「あぁ、もう来たんだ。そうそう、うちの雇い主は人使いが荒くてね。もうちょっと時期を分けたり期日に猶予を持たせてあげたら、って言ったんだけど、『これくらいでちょうどいいだろ』って面白そうに笑ってたよ。あれは絶対個人的に嫌いなだけだよね」
「はは…ま、そうだろうな」
吐息だけで軽く笑って、イリッツァは最後の食器を棚に収め終えた。面白そうにランディアがそれを見つめる。
「聖女様にそんなことさせるの、気が引けるなぁ。僕がやろうか?」
「お世話係として?」
「うん。間者として色々な職業になることがあるけど、あれは初めての体験だった。胸糞悪い国の胸糞悪い部屋の中ってことを除けば、思いのほか面白かったよ」
「そりゃぁよかった」
捕虜として拘束されていた部屋でも、思い返せば手足の自由がないイリッツァを、ランディアはなんだかんだ言って甘やかしては身の回りの世話を焼いていた。捕虜に対する待遇とは思えないほど快適に過ごせたのは、彼のおかげだったと言って間違いない。どこの世界に、甲斐甲斐しく着替えを手伝い、風呂に入れ、ベッドメイクをして暖炉に火を入れてくれる監視者がいるのか。「面白かった」というのは強ち嘘ではないのかもしれない。
「で?君の夫は、こんな時間まで仕事?」
「夫じゃない…」
まだ婚約者というステータスでしかない相手を夫と呼ばれるのは違和感がある。イリッツァは呻くようにして呟きながら、昔もこんな形で彼との関係を否定したことがあったなとぼんやりと思い出していた。
「国内で魔物の疑いがあるっていう報告が入ったらしい。調査もあるから、一週間くらいは帰ってこないってさ。昨日出発して行った」
「へぇ。聖女の結界があっても入ってくるの?」
「さぁ…獣かも、っていう話だし、わかんねぇな、そればっかりは」
「ふぅん。…あ、一応言っておくけど、うちは関与してないからね?もう、闇の魔法使いの大半はリッツァのおかげで無力化されてる」
「別に最初から疑ってねぇよ…」
鼻の頭に皺を寄せて呻く。疑われていなかったことが嬉しいのか、にこり、とランディアは楽しそうに笑った。
「――あ」
「ぅん?どうかした?」
思い出したように声を上げたイリッツァに、ランディアが漆黒の瞳を向ける。
「なぁ、ディー。お前、いつ帰る?」
「ん?……んー、こっちでやる仕事はもう終わったから、適当に帰ろうと思ってたけど。別に、急いではないよ。何か用事?」
「えっと――その、ちょっと…買い物に、付き合って、欲しくて」
「???」
少し気恥ずかしそうに申し出たイリッツァに、ランディアは首をかしげる。
ぐっ…と羞恥に言葉を詰まらせた後、イリッツァはもごもごと事情を説明した。途端、パァッとランディアの顔が明るく輝く。
「なんだ!そんなこと!――もちろんいいよ!明日買いに行こう!」
「ぅ……あ、ありがとう…」
「でも可愛いなぁ、リッツァは。下着を買うのが恥ずかしいなんて――ただの服じゃん。布だよ?」
「そ、そうだけどっ…!や、やっぱ、なんか、店の中見てるだけで、見ちゃいけないもの見てる気になる…!」
「へー。僕にはよくわからない感覚だけど、聖職者っていうのは皆そんな童貞拗らせたみたいな感じなの?」
「基本的に聖職者は全員童貞で処女だ……」
まるでカルヴァンのようなあけすけな言い方をする友に、呻くように指摘する。
クスクス、と笑ったランディアは、女友達が戯れるように、イリッツァの首にゆるりと両腕を絡ませ、甘えるような声を出した。
「ねぇ。今日は君の夫、帰ってこないんだろ?じゃあ、僕、今夜ここに泊ってもいい?――久しぶりに、時間を気にせずお喋りしようよ」
「だから、夫じゃないって…………まぁ、いいけど」
言っても無駄とはわかりながらも律儀にツッコミを入れてから、イリッツァは承諾する。
「君の家、ベッド広い?――昔みたいに、ゴロゴロしながらおしゃべりしよう」
「――クッション持ち込んで?」
「そう。きっと、すごく楽しい」
にこにこと嬉しそうなランディアに嘆息して、イリッツァはリビングにあるクッションを取りに行ったのだった。
ベッドにごろん、と寝そべりながら、ランディアが最近の帝国の事情を話す。どこで聞かれるとも限らないのだから――と昔は止めていたが、ランディアが気配を察知できないような手練れがいるとは思えない、と言われてしまえばまぁその通りだった。彼の暗殺者としての技能は、誰よりも信頼している。夏以降、彼がやってくるたびに、筋力がなくても戦いで有利に事を運ぶために、力を速さで補う方法や、気配の消し方などを折に触れて教わっていたが、彼に指導を受けるたびにその技量に舌を巻く。暗殺者と剣士が正面切って戦うことなどほとんどないが、彼と戦えばどちらが勝つかはわからないな、とイリッツァはいつも考えていた。
「――って感じだから、あとはもう君の夫に投げた仕事が返ってこれば根回し完了!ひと月以内には動くと思うよ」
「へぇ。本当にやるとは思わなかった」
「よく言うよ。自分でけしかけた癖に。――まぁ、僕は嬉しいけど。やっぱりヴィーは、誰かの下にいるような人間じゃないなって、最近特に思うし」
言いながら、ふわりと優しく微笑む。
「クーデターが成功して、国民に説明したら――今度は、王国に堂々とヴィーがやってくるよ。王様と、聖女様に、会うために。――そしたら、国を案内してくれないかな」
「え?うん。いいけど――」
「それで、出来れば――連れてってあげて。お墓参りに」
「――――――――あぁ――…うん。まぁ、いいけど」
ランディアの言わんとすることを理解し、複雑な境地でうなずく。ヴィクターは、人を食ったような笑みを浮かべるあの親友に酷く似ているとずっと思っていたが、彼と違って、意外と律儀な性格なのかもしれない。
(…何気に、俺も、自分の墓って見たことないんだよな。変な感じだ)
「俺も――王都に帰ってきてから、そういえば、親父の墓にも母さんの墓にも行ってないな。行くっていう発想がなかった。怒られるかな」
「大丈夫じゃない?だって、故人をしのぶのを忘れるくらい、今が幸せだってことでしょう?きっと許してくれるよ」
「…うーん……まぁ…もともと、俺のことなんて興味ない人たちだったからなぁ…今頃あの世で、俺のことなんか気にせず仲良くやってそうだ。墓に行ったところで、無視されそう」
「ははっ、何それ。ラブラブじゃん」
「ラブラブなんだよ。本当に。――人の目気にしなくてよくなったから、母さんなんかは嬉しいんじゃないか?」
ふ、とイリッツァは既に遠い記憶となった氷の眼差しを持つ雪女を想い描く。
転生して、彼女と同じ聖女としての人生を歩み――聖女でありながら伴侶を得るという特殊な経験をして、知ったことがある。
「聖女ってのも、意外と大変なんだ。あの人が俺に見せてたのはずっと、聖女の仮面だけだったけど――親父の前では、いつも、素の『フィリア』でいられたんだと思う。そういう相手がすごく大事なことは俺もよくわかるし、かけがえがないのもわかる。――昔は、親父の躯に縋って泣いて取り乱した姿を見て、聖女なのにあり得ない、反面教師にしなきゃ、なんて思ってたけど…ははっ、結局俺も、同じことしちゃったからな。聖女失格だ」
「違うでしょ。――親子だから、似てるんだ」
パチリ、とイリッツァの瞳が驚いたように瞬く。ランディアを振り仰ぐと、にこり、と安心させるように漆黒の瞳が笑みの形に緩んだ。
「そうかな。――考えたこともなかった」
「そうだよ、きっと。――王国騎士団長に惚れちゃうところまでそっくり」
揶揄するように言われて、苦虫を嚙み潰したような顔で押し黙る。ランディアは知らないかもしれないが――父とカルヴァンは、役職以外のことも様々に似通っているのだ。
「そういえば、さっき、食器棚の前で何を考えてたの?何か悩み事?」
ふと、ランディアは思い出したように口を開く。あぁ、とイリッツァは言葉を返し――少し悩んでから、再度口を開いた。
「――ディーはさ」
「ぅん?」
「"浮気"って、どこからだと思う?」
「――――――――」
イリッツァの問いかけを聞いたとたん、すぅ――とそれまで笑みが浮かんでいたランディアから表情が抜け落ちた。
「――え。何?それどういうこと?浮気?してるの?あの男」
「ぇ、あ、いや、その――えぇと」
王国民らしい白く抜ける肌の整った顔立ちから表情が抜けたそれは――ランディアの"暗殺者"としての顔に他ならない。ぞくりとする恐怖を覚え、イリッツァは額に冷や汗をかいた。
「殺す?いいよ、リッツァなら特別に無料で請け負ってあげる。――どっちを殺る?カルヴァン?相手の女?両方?」
「ちょちょちょちょっと待てそんな物騒な話じゃない!!!!」
慌てて手をあげて冷ややかに暗殺者としての顔を覗かせる友を止める。制止されたランディアは、きょとん、と漆黒の瞳を瞬いた。
「――え。大丈夫だよ?――証拠なんか残さないから」
「違う心配してるのはそんなことじゃない――!」
彼が本気になれば、カルヴァンの寝首を掻くことくらいたやすいだろう。イリッツァはダラダラを汗をかきながら必死に誤解を解いた。
「別に殺したいとか、そんなこと思ってない!――っていうか、そもそも俺、浮気の定義がよく分からなくて!」
「ぅん?何それ」
「その…気持ちが移ったら浮気、っていうのはわかるんだけど…別に、愛してるわけじゃなくても、そういうこと出来る人って、いるんだろ?」
「あぁ…うん。まぁ、そうだね。いるね、そういう人種は。…どっちかっていうと、そういう人の方が多いんじゃない?男は特に」
「そ、そうか…その、そういう時――気持ちが無かったら、全部、浮気とは言わないのか?」
イリッツァは真剣に尋ねて来る。ランディアは怪訝な顔を返した。
「それは人による…としか」
「えぇ…お前もそういうこと言うタイプか…」
げんなりと呻き、イリッツァは天井を仰ぐ。誰か明確な答えを教えてほしい。
「何、どうしたの。何で急にそんなこと気にし始めたの?ちゃんと話して」
「う、うーん……」
イリッツァは眉を下げてこれ以上なく困った顔をした後、決して逃がさないというような漆黒の瞳に観念して、結局先日の文具屋での顛末を話して聞かせることになった――
「――え。何それ。ダメでしょ。アウトだよ」
「ぅ…」
「しかも、昔の女とか。ギルティギルティ」
スパっと言い切られて、イリッツァは気まずげに視線を外す。
「…でも、あいつは違うって言ってた」
「キスは浮気じゃない、ってこと?」
「いや、そういうことじゃなくて――誤解だ、って言ってた」
「……キスしたように見えただけで、本当はキスしたわけじゃなかった、と?」
「さぁ…でも、向こうから迫られただけだ、とは言った」
「ふーーーーーん…リッツァはどう思ってるの?」
ランディアに問われ、イリッツァは視界を緩くめぐらす。当時の状況をもう一度思い返し――
「アイツが息をするように女を口説くのは昔からだし、据え膳食わないアイツなんて想像も出来ないし、キスなんて皮膚接触と変わらないと思ってそうだからなぁ…気持ちなんかなくても、相手から迫られたら挨拶代わりにキスしててもおかしくないなとは思う。花売りに声掛けられた時もしれっと当たり前みたいな顔で腰に手回してたし…基本的に、女との距離感近いんだよ、アイツは。――昔の『お気に入り』の女の子なんだろうし、俺が相手してくれないんだからしょうがないって言ってキスどころか身体の関係持ってても驚かないな」
「えぇぇぇ…信用無さすぎじゃない?」
「付き合い長い分、あいつのことはよくわかってるよ。――ただ、今回は本当に違ったみたいだけど」
「?」
疑問符を上げるランディアに、イリッツァは少しだけ眉を下げて、言葉をつづける。
「あの日、カルヴァンに教会に送って行ってもらった後、確認したら注文した文具の数が合わなかったんだ。払った金額分より多くて――取って返して、文具屋に行ったんだ。そこで、リリカと話をしたんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます