第23話 素直じゃなくても、可愛い⑥
「――――…何の話だ…?」
何度かその雪空の瞳を瞬いた後、優秀な頭脳は彼なりにリアムの言葉の意味を考えたのだろう。数瞬の沈黙が下りた後、その頭脳をもってしても結論が出なかったのか、結局カルヴァンは眉間に皺を寄せてリアムを振り返る。先ほどまでの、話をすることすら面倒だという態度は鳴りを潜め、くるりと体ごとリアムの方を向き直った。
「そのままの意味ですよ。――覚えてますか。俺に来客があった日」
「あぁ…執務室からお前が出てった日だろう。あの時からお前が不機嫌になったから、そこで何かがあったと思ってはいたが――」
「あの日、尋ねてきたのはイリッツァさんでした」
「――――」
ぱちぱち、とカルヴァンは目を瞬き――
「なんで俺と会わせなかった!!!!?」
「いや。そこじゃないです」
深刻な嫁不足を患っているカルヴァンは、真っ先に見当違いの観点にぶち切れた。
「第一あの時、団長めちゃくちゃ集中モードだったじゃないですか。かなり重要な書類だったんじゃ――」
「知るか!!!ツィーが来たならどんな仕事も途中で放りだして全速力で会いに行くに決まってるだろう!」
「――あぁ…そういう人でしたね、貴方…」
あの時リアムがイリッツァに放った発言は、誇張表現でも何でもなかったのだ。リアムは遠い目をして疲れた声を出す。
「あの時ツィーと会えてたら――あぁくそ、どこのどいつだ、繋いだ奴…!懲戒処分にしてやる…!」
「職権乱用です。落ち着いてください、団長」
己も同じ発言をしたことは棚に上げてリアムはイライラを募らせるカルヴァンをなだめる。今はそんなくだらない話に逸れている場合ではない。
「あの時、団長を呼んできましょうかと言った俺をイリッツァさんが止めたんです。――団長ではなく、俺に用事があって来たのだ、と」
「何…?」
ピクリ、とカルヴァンの眉が不機嫌に跳ねる。ゴゴゴゴ…と音が聞こえそうなほどの修羅の形相になっていく上官を、リアムは呆れて眺めた。
「言っておきますけど。――当たり前ですが、別に、何もないですからね。聖女様にそんな恐れ多いこと、貴方じゃあるまいし、出来るはずありません」
「当たり前だ――!"何か"あったとしたら、今すぐそこにお前の首を転がしてる…!」
「…団長、独占欲が強すぎませんか」
仲を疑われているわけではないのに修羅の形相をしているのは、どうやらイリッツァがカルヴァンではなくリアムをわざわざ訪ねてきた、という事実が気に入らないのだろう。仕事中にも関わらず直接訪ねて来てもらえるような用事があっただろうリアムに嫉妬しているのだ。用事がどんなものかはさておき、それが終わってからカルヴァンに顔を見せてから帰っても良かっただろうに、それをしてもらえなかったことも嫉妬を煽っているのだろう。――十も下の部下に本気で嫉妬出来るのは、ある種の才能かもしれない。
「あーもう、話が進まない!とにかく!イリッツァさんが俺に用事があるって言って来たんです。――俺に、団長の、直近の予定を教えてくれ、と」
「――――…直近の予定…?」
「はい。それも――本人に内緒で、という念押しをされて」
ぱちぱち、と灰褐色の瞳が瞬かれる。リアムはやっと本題に入れたことに小さく嘆息してから言葉をつづける。
「最初は、何かサプライズで企画でもしているのかなと微笑ましく思ったんですが――どうにも様子がおかしくて」
「?」
「イリッツァさんが、まず最初に見せてくれって言ったの――過去三か月の、予定だったんですよ」
「――――は…?」
きょとん、とカルヴァンが間抜けな声を上げた。それもそうだろう――過去の予定をわざわざリアムに確認される心当たりなど、カルヴァンにはどんなに考えてもわからなかった。
てっきりカルヴァンも、直近の先々の予定を確認されたのだと思っていた。恋人に隠し事をして何かを企画するなど随分いじらしいことをしてくれる、と浮足立った。
だが――過去の予定とは穏やかではない。
「不思議に思いながらもお見せしましたよ。聖女様からのお願いを断る理由などないですし。――イリッツァさんは、どうやらそれを見て、団長の実際の行動と、今まで彼女が聞かされてた行動に乖離がないか確かめているようでした」
「…………なるほど…」
カルヴァンは、あの後急に補佐官がゴミを見るような目で見てきた理由に思い至り左耳を掻く。
「職場でも堂々と惚気けるくらいの団長です。浮気なんてあり得ないと思ったので、きっと最近帰りが遅いのを誤解したんだろうと思い――国家機密なのでさすがにお見せしたスケジュールには今回の仕事については書いてなかったですし――なんとか誤解を解こうと思って、最近遅いのは重要機密の任務が立て込んでいるせいだと説明したのですが――」
リアムはそこまで話した後、再びカルヴァンをゴミを見るような眼で見やる。
「イリッツァさんに聞かれました。――一般的に、浮気というのはどこからを指すと思うか?と」
「…………ほう」
「そして――キスは、浮気に入るのか、と――」
「はぁ………やっぱりか…」
イリッツァがその発言に至ったきっかけには心当たりがあり過ぎる。カルヴァンは額を抑えて呻いた。――やっぱり、誤解はちっとも解けておらず、全く信用されていなかったらしい。
「どう考えても、何かしらの確信がないと出てこない発言です。あのときは本気で、次に団長の休憩で淹れる紅茶に猛毒を混ぜよう、と心に誓いました」
「やめてくれ。誤解だ」
げんなりと否定する。この補佐官も補佐官で、全く信用してくれていないらしい。
「イリッツァさんは、物心付いた時から聖職者としての教育を当たり前のように受けてきたので、色事に関する一般常識がわからない、と仰っていました。いつもの、少しだけ眉を下げるあの表情で――申し訳ないけれど教えてほしい、と言われて俺はなんだかすごくやるせない気持ちになりました。傷ついたり怒ったりする感じじゃなかったんです。起きている事象に対して、どう対応するのが正解なのかわからない、というような顔で――傷つき方すらよくわからない、というような顔をされてしまって――俺はもう団長を家に帰さないようにしてイリッツァさんの心にこれ以上無自覚の負担をかけないようにすることしかできませんでした。そもそもあんなに溺愛していたそぶりを見せておいて浮気をするその神経が信じられませんし」
「だから誤解だ…!今更ツィー以外の女にキスなんぞするか、阿呆――!」
ぐしゃ、と苛立ちまぎれに髪をかき混ぜるようにして呻く。
しかし、リアムの鼈甲の瞳からは相変わらず軽蔑の色が消えない。カルヴァンは、酷く情けない気持ちになりながら、仕方なく彼女がどうしてそんなくだらない勘違いをするに至ったかを説明した。
「――だから、誤解だ。角度的にそう見えただけだ。弁明しようにも、あの日の午後から仕事が立て込んで起きてるツィーには会えないし、お前は妙な勘違いで俺を帰す気を失くすしで、俺からしてみればよっぽどこっちの方が被害者だ…!」
リアムはやや不快気に寄せた眉のままじっとカルヴァンを見つめる。
「どちらの言い分も、俺はその場にいたわけではないので、真実のところはわかりません。――が、少なくとも、イリッツァさんは、弁明した貴方を信じなかったんですよね?そして、貴方に内緒で過去の予定が本当だったかどうかを確かめに来るくらいには、普段から疑われるような振る舞いをしてたってことでしょう?――え、自業自得じゃないですか?」
「だからそれはあいつには『昔』の記憶があるから――!」
誰もかれも全く信用してくれないことに苛立ちながら主張する。
「こっちからすれば、何であんなに毎日毎日嫌になるくらいストレートに愛情をぶつけられておいて、多少怪しい場面を垣間見たくらいでそんな疑惑をかけられなきゃならんのかわからん!!!」
「そんなこと言って…本当は、一緒に暮らし始めてからの一年くらいで何かやましいことしてたんじゃないですか?」
「するか阿呆!!他の女にちょっかい出すような暇があったら、ツィーに直接ちょっかい出すほうが何千倍も有意義だっっ!!!!!」
怒りに興奮した様子で怒鳴る様子は、嘘を吐いているようには思えない。リアムは、半信半疑ながら、一応不幸なすれ違いが起きたというカルヴァンの説を信じてみることにした。
そして、イリッツァが訪ねてきたときの会話を思い返す。
「――でも、真実がどうか、なんて、もう今更関係ないと思いますよ」
「何…?」
「俺のところに来た時点で、イリッツァさんはもう完全に『聖女様』でした。あくまで最後の確認に来ただけで――きっと、あの時点で、もう、団長には愛想つかしてたんだと思います」
「はぁ!!!!????」
思わず声が裏返る。激昂して思わず立ち上がったカルヴァンに、リアムは不憫そうな視線をやった。窓の外はすでに薄闇が広がっており、がたがたと木枯らしが建付けの悪い窓を揺らす。
「何か――まるで達観したような瞳をされていて…自分は、どこまで行っても『聖女』なんだとおっしゃっていました」
「――――」
「ちょっと、あまりに哀れだったので――俺も、神殿の奥に引っ込む『聖女様』よりも『イリッツァさん』でいてほしかったので――彼女の味方をしてしまったところがあるのは、団長に謝りますが。例えば彼女を『聖女様』として扱わない人間とであれば、幸せになれるかもしれないから、諦めないでほしいと伝えたところ――」
「はぁ!?」
「だって、もしかしたら、近い将来<あの国>との国交が始まるかもしれないんですよ?<あの国>の人間なら、彼女を『聖女様』としてなんて扱わないでしょう。あの国の男たちは全員彼女を『人』扱いしてくれますから、あとは彼女の気持ち次第です」
しれっと言うリアムに、カルヴァンは絶句する。まさかこんな近くにとんでもない敵がいるとは思わなかった。ギッと本気でにらんでくる灰褐色の瞳を、ゆっくりと童顔の鼈甲が受け止める。
「そんな俺の思いつきを聞いて、イリッツァさん――『それもいいかもしれませんね』と笑ったんです。いつもの、吐息を漏らす、あの笑い方の方で」
「――――」
「だから、俺は、もうダメなんだなって思ったんですよ。あれは弁明とか聞いてくれる感じじゃなくて、始まる前から没交渉です。他の男との将来を想い描いて、あんな風に笑えるなら――もう、貴方に未練はないんでしょう。誰もが求める『聖女様』として神殿に戻るのか、本当に他の男との将来を考えるのかはわかりませんが――きっと、このままだと団長はフラれるんだろうな、って思いました」
リアムは気まずそうに視線を伏せて、ぐっとこぶしを握る。
「そもそも、実際にしたかどうかなんて関係なく、キスしたと誤解されるほどの至近距離で異性と会話を交わすだなんて、俺からしたらそれ自体が信じられません。それはきっとイリッツァさんも――だから、きっと、貴方がどれだけ説得を試みようと、話し合いは平行線です。それでも彼女が無意識にでも心を痛めることは避けたかったので、貴方を屋敷に帰したくはなかった。――まぁ、仮にあの日団長を帰して、夜にそんな別れ話なんぞになった瞬間、貴方は絶対に翌日以降の仕事なんかあっさり連絡もなく全部放り投げて、何日かけてでも全力でイリッツァさんを説得しようとするでしょうから、国益のためにもそんなことは出来なかった、という側面もありますが」
そもそもカルヴァンが騎士団長などという役職をきちんとこなしていること自体が奇跡なのだ。リツィードに殉じる必要もなくなった今は、騎士団長としての仕事は単純にこの国でイリッツァを養っていくための金を得る手段でしかない。その地位や名誉に興味があるような性格でないだろうことを、リアムはよくわかっていた。彼の中の最優先事項は、常にイリッツァだけだ。それが脅かされる事態に追い込まれてまで、騎士団長としての責務を律儀に遂行してくれるとは思えない。
「だから、気の毒ですが、ちょうどよかったと思ってこの一週間で気持ちの整理を――団長?」
うるさいほど激昂していたカルヴァンが、いつの間にか再び寝台に腰かけて一言も発さなくなったことに違和感を覚えてリアムがその精悍な顔を覗き込む。灰褐色の瞳は少し伏せられ、じっと一点を見つめていた。
「――リアム」
「は、はい」
「カイネスで魔物らしき存在が確認されたのは森だったよな?」
「へ?…え、えぇ。まだ獣の可能性もありますが――」
急に仕事の話をされて、リアムは間抜けな声で困惑したように目を瞬く。
おそらくカイネスの気候では、森の木々のほとんどは既に葉を散らしてしまっているだろう。そんな森の中では、獣にしろ魔物にしろ、痕跡を辿ることは容易ではない。それゆえ、今回の調査は難航することが予測され――
「――――――森ごと丸焼きにすれば、調査も討伐も半日で終わるんじゃないか?」
「は、はぃい!!!????」
一点を見据えたまま、冗談を言っているとは思えないほどの真顔で漏らされた言葉に、リアムが裏返った声で聞き返す。
しかし、鬼神と呼ばれる男は、至極真面目な顔のまま、鬼でもそんな恐ろしい思いつきは口にしない、という内容を滔々と語り始めた。
「カイネスに滞在するのが半日でいいなら、そのままとんぼ返りすれば四日で王都に帰れる。一週間もかからない」
「ちょ、だだだ団長!!!?な、なななな何を言ってるんですか!!!?」
「森を焼き尽くすくらい簡単だろう。今回の討伐隊に火属性の騎士は俺以外にもいる。お前を筆頭に風使いが広げればさらに話は早い。――水の魔法使いだけ現地に置いてきて、焼き尽くしたら消火活動しておけと命令すればいい」
「何も良くありませんよ!!!!!????」
「何がだ。問題ないだろう。――相手が魔物だろうが獣だろうが、逃がす暇もないほど一瞬で丸ごと焼き尽くせば討伐完了だ」
「そんなただの大規模自然破壊を討伐行為と世間は認めてくれません!!!アンタ何考えてるんですか!!!!!」
「世間は俺に多くを求めすぎだ…」
「一般常識範囲内です!!!!」
もはやツッコミが追い付かない。リアムはどこまでも本気の顔でとんでもない解決策をはじき出した常人には理解できない思考回路をしている上官に詰め寄った。英雄などと国民に崇められる男の発言とはとても思えない。
「お、おおおお落ち着いてください!いいですか、早く帰ったからと言って、結末が変わるわけでは――」
「そんなこと言っていいのか、リアム」
「え――…?」
カルヴァンはふ、と灰褐色の瞳をリアムへと向けた。その瞳には――イリッツァと再会する前のような、雪空が広がっている。
世界のすべてに興味が持てず、冷酷極まりない凍てついた心を持っていたあの頃と同じ瞳だ。
「これでも俺は譲歩してやってるんだぞ」
「え――…え…?」
「お前の言う通り、本当にツィーが別れ話なんぞを切り出した場合、俺は全ての仕事を放りだす。翌日仕事になんか行くはずがない」
「は、はい…え…?いやだから、この一週間で気持ちを――」
「たかだか一週間、何を考えたら俺がツィーを諦めるなんていう思考になると?」
「――――――――…」
――十五年。
十五年、ずっと、一日も忘れられなかったかけがえのない存在だ。
カルヴァンは知っている。
――彼が、彼女が隣にいてくれない世界は、昼も夜も漆黒の闇に閉ざされた絶望の世界なのだと。
リアムは勘違いしている。――この話はすでに、恋愛がどうとか、男だとか女だとかは関係ない。
リツィードの魂を持つかけがえのない存在が、十五年前と同じく、カルヴァンから一方的に離れていこうとしている――そんな状況は、天地がひっくり返っても、受け入れることなど出来るわけがなかった。
「未練がない、とは言ってくれたものだな……相変わらず、思い通りにならない女だ」
「だ…団長…?」
「本当は今すぐ王都に向けて踵を返したいところだが、素直に事情を話したお前の顔を立てて一応カイネスまでは赴いてやると言っているんだ」
「いやあの――」
「普通に一週間だのそれ以上だのかけてゆったり調査をして帰ってみろ。――帰った日が、俺がツィーと話をする日だぞ。翌日以降仕事に来なくなる」
「――――」
「いいのか。――まだ、<例の件>はたっぷり残ってるだろう」
「――――!」
もの言いたげなカルヴァンの視線を正しく理解し、さっとリアムの顔が変わる。
つい昨日までの激務は、遠征期間を考慮して、提出期日が遠征期間中と重複するものだけを死ぬ気で前倒して終わらせただけだ。期日が遠征からの帰還後に設定されているものまで全てが終わったわけではない。
だが、カルヴァンは帰還後しばらく仕事に出てこないと言っている。
つまり――残った仕事を、期日までに終わらせようと思うならば。
「っ――――!」
「自分が置かれている状況を正しく理解したか?――さぁ、優秀な補佐官は、どうするんだ?」
「す――すぐに早馬を出して、夜間行軍してでも先遣調査隊として兵を送ります――!」
「そうか。それがいい。俺も、無意味な自然破壊をしたいわけじゃない」
すぃ、と灰褐色の瞳が興味を失ったように逸らされる。リアムは一つ敬礼した後バタバタと蒼い顔で部屋を出て行った。――他の部屋にいる騎士をたたき起こして、先遣隊としてカイネスに無理矢理派兵させるのだろう。
カルヴァンがイリッツァを根負けさせて折れさせるまで、何日かかるかわからない。一晩かもしれないし、数日かもしれない。これは話し合いなどではない。カルヴァンは消して意見を曲げる気などないのだから、交渉ではないのだ。すなわち、ただ一方的にカルヴァンの要求をイリッツァが飲むまで、ただひたすらに我儘を通すだけの期間。
通常通りの予定で帰ったら、そんなことをしている余裕はないが――この遠征から一日でも早く帰れたなら、その分、イリッツァの説得期間が生まれる。カルヴァンは、仕事の期日が迫っているからと言ってイリッツァの説得を諦めることだけはしないだろう。つまり――少しでも前倒して帰還出来た日から最終期日までが、国益を考えた時の<猶予期間>なのだ。
優秀な補佐官が、国益も騎士としての責務も叶えようと思えば、やることは一つしかなかった。
(――…俺から、逃げられると、まだ思ってるのか、あいつ)
カルヴァンはごろん、と安宿の寝台に横になる。すると、すぐに隣にいつもの体温が恋しくなった。
「阿呆なのか――…二度と、手放すわけないだろう」
一度自覚した独占欲は、今や、とんでもなく肥大して、カルヴァン自身も持て余すほどなのだ。
(他の男と――なんて言われてあいつが笑ったのは、たぶん、その方が国益になると思ったからだ)
リアムはきっと、機密事項を漏らすわけにはいかないと口を閉ざしながらも、それとなく、イリッツァを『人』扱いする男がいる国について、匂わせたことだろう。イリッツァは馬鹿ではない。それを聞けば、カルヴァンが帰ってこない理由として説明された<重要機密>と繋げただろう。ランディアが暗躍するたびイリッツァに会いに来ているのだ。その計画が進んでいることは、イリッツァ自身よく知っていたはずなのだから。
リアムが、帝国の男と――などと匂わせた時、きっとイリッツァには彼女の良く知る帝国の男の顔が思い浮かんだはずだ。
「くそっ…本気で殺したいな、あいつ――」
行儀悪く吐き捨てるようにして顔を歪めてから、現実逃避するように腕で視界を覆う。
次期皇帝となるであろう褐色の肌の色男と結婚すれば、それは間違いなく国益となるだろう。帝国は王国との国交正常化を狙っている。本来、婚姻関係によって国家のつながりを持ちたいならば、シルヴィア王女あたりをヴィクターに嫁がせるのが定石だろうが――
聖女を嫁がせれば、その結びつきは絶大だ。
帝国から提出を求められている書類を見る限り、ヴィクターがどんなシナリオを描いているかなどカルヴァンにはすぐに思い至った。国内に渦巻く王国への悪感情を、先の戦争での聖女の寛大な心を説いて、卑怯な先帝と対比させ、うやむやにしてしまおうとしているのだろう。一度無体を働いた国家に嫁いでくる聖女、という図は、帝国内に衝撃をもたらすはずだ。あの頭の切れる策謀家は、イリッツァを嫁に迎えることであわよくば国内の光魔法への偏見をなくしたい、くらいのことまで考えるかもしれない。子飼いの暗殺者と呼ぶには肩入れしすぎているランディアの将来のためにも。
王国にとっても利はある。そもそもカルヴァンが聖女との婚約を発表した理由は、敵国に捕らわれた先で口づけまでされたイリッツァに聖女の資質がないとする勢力があったためだ、と世間の大部分には認識されている。傷物の聖女の取り扱いに対して未だに快く思っていない勢力は、帝国に彼女を渡すことを喜ぶだろう。それ以外の勢力も、イリッツァが「これは布教活動だ」と言えば押し黙る。かつての敵すら許し、決して相容れない異教徒と思っていた国家に、ありがたいエルムの教えを広めるのだとその身を捧げる様は、聖人や聖女の自己犠牲の憐憫に浸るのが好きなこの国の人間の性質を思えば、「さすが聖女様」といってもろ手を上げて喜ばれるはずだ。
「チッ…胸糞悪い…」
全部――全部、『聖女』が考えそうな思考だ。
リアムは何かを勘違いしたようだが、イリッツァが笑ったのは、他の男と恋愛関係になりたいなどと思ったわけではないだろう。もともと、色ごとは潔癖すぎるほど遠ざけていた女だ。彼女がカルヴァン以外の男と、個人的感情で恋愛関係だの婚姻関係だのを結ぶはすがないと知っている。――それくらいの信頼はしている。
だからきっと、彼女が笑ったのは、思いもよらない『聖女』としての希望の叶え方に思い至ったが故におかしかったせいだろう。過去にヴィクターの妃という地位に納まったことを思い出し、滑稽だったのかもしれない。
ヴィクターと結婚するならば、カルヴァンとの婚約など、聖女側から一方的に破棄してしまえばいい。どうせ、カルヴァンの婚姻は聖女を醜い人間たちの争いに利用されるのを防ぐためのものだということを、まともな大人たちは理解している。――女嫌いの英雄が、幼女趣味のゴシップで汚名を着てでも、聖女を救ったと。
騎士団長というのは、本来これ以上なく敬虔な信徒でなければなれない役職だ。カルヴァンも、面倒を避けるために積極的に神を信じていないことを公言したりはしていない。大衆のほとんどは、神の化身たる聖女を救うためにそんなことをしたのだ、さすが騎士団長は違う、とすんなりと信じていた。その後、王都の随所でカルヴァンがイリッツァを溺愛している様が目撃されているが、せいぜい、聖女を市井に落とした責任を取って市井に馴染みやすいように振舞っていると思われているか――神による愛の奇跡が起きたとでも思われていることだろう。
そんな状況で、聖女が、さらなる神に殉じる善行を積もうとしているとすれば、カルヴァンとの婚約破棄など世間は気にも留めまい。
カルヴァンの社会的地位が悪くなるわけでもなく、帝国にも王国にも利がある。そんな提案は――『聖女』であるならば「それもいいかもしれませんね」と思わず笑って受け止める程度には、魅力的なはずだ。
(あぁ――ほらみろ。やっぱり、抱きしめてないと、すぐに勝手に、独りで消えていく――)
ここ数日、あの愛しい体を全く抱きしめて寝ていないことが急に不安を煽った。
安心したい。――安心したい。
毎日この腕の中に抱きしめて――うんざりするくらい愛を囁いて。
こんなやり取りを一体何度繰り返したら、彼女は、この腕にとどまる覚悟を決めてくれるのだろうか――
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