第22話 素直じゃなくても、可愛い⑤
ひゅぉ――と木枯らしが吹き抜ける街道をひたすら北へ向かう。馬の蹄が人気のない街道に複数響いていた。
(早く帰りたい…)
つい先程王都を発ったばかりだというのに、既に帰りの旅程を思い浮かべてカルヴァンは憂鬱なため息を吐いた。
結局、急な補佐官の翻意により、あれ以来カルヴァンはついに涙を飲んで家に帰ることを諦め、徹夜で仕事を詰め込んで無理矢理スケジュールを間に合わせることになった。当然、イリッツァとの対話の時間はまだ持てていない。
(出立式で久しぶりに見た起きてるアイツは本当に可愛かった…)
神に遠征の無事を祈る出立式は、聖女が正装をして出てくるのが習わしだ。いつもの仮面を貼り付けていたのが少し残念だが、儀式の時の凛とした表情は、屋敷では絶対に見られない顔だ。薄く化粧をして正装した姿は、惚れた欲目を差し引いても堪らなく美しかった。元から神に祈りなど捧げるつもりは毛頭無かったが、珍しい婚約者の顔を堪能するのに忙しくて、気付けば一瞬で儀式は終わっていた。儀式の最中、目の前に彼女が来たときは、抱きしめてキスしたくなる衝動を抑えるのに必死だったくらいだ。
(対話がどうの、の前に、このままだと俺がツィー不足で死ぬ)
瞳を閉じながら、どう考えても馬鹿馬鹿しい思い付きを割と本気で心配する。
(あと一週間――下手したらそれ以上ツィーに会えないとか、何の拷問だ…)
あの後、執務室のソファで仮眠を取る数日が続いたが、さすがに出兵前夜までソファで寝るのは無謀だ。とはいえ最後の書類を書き終えたときは既に深夜になっており、もはや今から屋敷に帰っても大して寝られないだろうという時刻だったため、カルヴァンは仕方なく兵舎の自室で数刻眠ることにした。身体が資本の仕事をしていて、さすがに命の危機に直結するリスクは犯せない。
(だがまさか、あんなに寝付きが悪くなるとは思わなかった…)
何日も徹夜した後だ。さすがに普段から寝付きの悪い自分でもすぐに寝られると思ったのに、ベッドに横になった時にいつもあるはずの胸の中に抱える小柄な身体が無いだけで、あんなに居心地が悪いとは思わなかった。腕の中にすっぽり収まる温もりが、永遠に触っていられる絹のような手触りの銀髪が、ふわりと鼻腔を擽る甘い香りが、長い白銀の睫毛を震わす愛しい寝顔が――彼女の全てが恋しくて堪らなくなり、何度、眠らなくてもいいから屋敷に帰ろうかと思ったかわからない。――帰ってイリッツァを抱いて横になれば、一瞬で眠りに落ちて翌朝寝過ごすこと請け合いだったので鋼の理性で踏みとどまったが。
(カイネスまでの旅程は、急いだとしてせいぜい一日半。帰りは少し荷物が減るだろうが、速度に変化はほとんどないだろう。となると、往復だけで丸三日。調査がとんとん拍子に進んだとして原因究明に一日~二日、魔物なり獣なりを討伐するのに一日~二日。初陣の兵士もいるんだ、そのまますぐに帰還するわけにもいかないから、討伐戦が終わった日はカイネスで一泊するとして――あぁ、やっぱりどんなに急いでも一週間はツィーに会えない…)
帰還する時間帯によってはまたもや寝顔を見るだけになる可能性もある。さすがに我慢が出来ずに眠るイリッツァを起こしてでも「ただいま」を言ってキスの雨を降らせるかもしれない。
(国内最後の魔物討伐任務はナイードだった。きっと、あいつも心配しているだろう)
出立式という公の場で加護を授ける機会があるというのに、話を聞いた途端に街中でカルヴァンのマントに個人的に光魔法の加護を付与するくらいだ。バルドの存在まで匂わせて、不安そうな顔で無事を祈ってくれた。嫌になるくらい聖女の仮面を外で外さない彼女の揺れる心が透けて見えるようだった。物言わぬ躯となってカルヴァンが帰ってきたときの一年前の恐怖は、きっと未だにイリッツァの心を事ある毎に締め付けているのだろう。
「あいつのためにも、早く帰って安心させてやらないと――」
「大丈夫ですよ、団長が思うほど心配してません」
ひやり、と横から飛んできた無情な声に、思わず半眼になる。
「――お前はこの間から、何をそんなに突っかかってくるんだ、リアム」
「突っかかってませんよ。どうにも団長は国の宝を手中にしたという事実がよくわかっていらっしゃらないようなので、俺が部下として正しい認識を教えてやろうと、そう思っているだけです」
「何だそれは」
「いいですか、団長。本来聖女様というのは、人であって人でない存在です。我々ごとき矮小な存在が気軽に言葉を交わしたりできる存在ではないのです。お手を触れることすらありえません。不用意にそのお姿を視界に入れるだけで目がつぶれるという伝承がある地域があるくらいですよ?」
「目……もはやそれは化け物の類だろう…」
呆れて呻くが、リアムの顔は真顔のままだ。カルヴァンは苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
「聖女様は、本来我ら市井の民になど興味を示されたりしないのです。個を認識することすらなく、ただ、すべてのエルム教徒を『救うべき民』として、神の声に従い、人としての理を離れた世界で、神の化身として我らを導いてくださるのです」
「はぁ…」
「神の化身たる聖女様が我ら『人間』ごときと個別に言葉を交わしてくださるのは、全て彼女のご厚意であり気まぐれです。我々は本来、その僥倖に感謝し、涙を流して平伏すべきところなのです」
「なんだそれは…」
鼻の頭にしわを寄せてうんざりした声でカルヴァンが呻く。――本当にこの国の連中は、全く以て理解の出来ない考えを他人に押し付けてくるから嫌いだ。
「そのような僥倖を、当たり前のように享受するだけにとどまらず、あまつさえべたべたとお手を触れて、敬意のかけらもない発言を繰り返し、聖女様を人の理に縛り付けようなどと――団長、貴方は本当に、いつ神罰が下ってもおかしくないんですよ?そもそも何ですか、あの出立式は。神に祈ることもなくずっと聖女様のお姿を不躾に眼で追ってばかりで」
「知るか。あいつは俺の嫁だ。お前のせいで最後の数日は屋敷にも帰れなかったんだぞ。好きな時に好きなだけ見させろ。補佐官なら機転を利かせて二人の逢瀬の時間を作り出すくらいのことをやってみせろ」
左手で耳を掻きながら辟易した声を出す。――こういう連中がいるから、何度手を取ってひっぱり出そうとしても、イリッツァはするりとその手を抜け出て、何度だって孤独と不幸の闇の世界に沈んでいこうとするのだ。
「団長の無礼な振る舞いを許されているのは、ひとえに聖女様の海よりも深く空よりも広い慈愛に満ちたお心故です。いわば気まぐれなのです。――ふと、彼女が聖女としての本分に戻ろうと思ったなら、貴方なんか視界にすら入れてもらえなくなる程度の矮小な存在なんですよ」
「あーもうお前は一体何が言いたいんだ、さっきから…!」
要領を得ない補佐官の発言にイライラと吐き捨てると、リアムは鼈甲の瞳を軽く伏せた。
「イリッツァさんを――『聖女様』にしたくないなら、それなりの振る舞いをしてください、と言っているんです」
「――は――?」
「お忘れなく。『イリッツァさん』が、彼女の素晴らしい行いと性格でこの一年で徐々に市井の民にも受け入れられ始めているのは確かですが――まだまだ大多数の民は、『聖女様』を求めているんですからね」
「リアム――…?」
怪訝に問いかける言葉に応えを返すことなく、金髪の補佐官は、愛馬の腹に軽く蹴りを入れてカルヴァンの傍を離れていってしまったのだった――
「なんで野郎と相部屋なんだ――!」
「我慢してください。清貧を愛する心を持ちましょう、団長。――今期、経費が厳しいんです」
綺麗事と切ない現実を一度に両方突きつけながら、リアムは部屋に荷物を下ろす。
カイネス領の端の街の宿屋のその部屋は、どう見ても国家の英雄が宿泊するような宿ではない。もともと王都の路地裏で過ごしたこともあるカルヴァンは、豪奢な宿に泊まりたいなどと思ったことはないが、ただでさえ普段から睡眠の質が悪いのに、男なんかと相部屋で眠らされると、さらにそれが悪化する。男で相部屋にされてもカルヴァンがいつも通り眠れるのは、リツィードくらい気心が知れた相手だけだ。
「他の兵は三人部屋とか四人部屋とかですよ。一応、敬意を払って二人部屋にしてあげたんです。感謝してください」
「どうしても二人部屋にするなら、絶世の美女付きにしてくれ」
(例えば銀髪が美しい十五歳の聖女とか)
心の中で付け足しながら軽口を叩いて、騎士団長のマントをバサッと外す。最近の寝不足を少しでも解消するべく、今日はなるべく早く床に就きたい。――どうせ、イリッツァが腕の中にいない以上、今日も寝つきが悪くなることは目に見えている。それならば、一秒でも早く横になるべきだろう。
シャワーだけ浴びてさっさと寝てしまおうと、騎士団の制服を脱ごうとして――
「――――なんだ。男に着替えを眺められる趣味はないぞ」
睨み付けるような表情でカルヴァンを眺める鼈甲の視線に気づいて、眉をひそめて軽口を返す。どうも、ここ数日この補佐官は情緒不安定だ。
「団長。一回腹割って話しましょう」
「はぁ?」
「俺も、頑張ります。団長の軽口は、軽口なんだと信じてます。――さっきの発言、本気だったら、俺、英雄殺しとして国家に悪名を轟かせてでもあなたを必ず殺しますよ」
「――――…はぁ。わかったわかった。真面目にちゃんと話してやるからそう睨みつけるな」
軽く両手を広げて抵抗の意思がないことを示しながら、面倒くさそうに安宿の寝台に腰掛ける。ギシッと安物のスプリングが耳障りな音を立ててその長身を受け止めた。
「で?お前は何を最近そんなにカリカリしてるんだ?カイネスで魔物を相手にする羽目になった時に連携が取れないのは困る。遺恨があるならさっさと話せ」
鬱陶しそうに装束の胸元を緩めながら相手を見ることもなく尋ねる。こんな面倒はさっさと終わらせて、今日はもう早く眠りにつきたい、というのが本音だった。
リアムはぐっとこぶしを握り締めて何か決意を固めるようなそぶりをした後――そっと口を開いた。
「団長…――イリッツァさん、たぶん、近いうちにあなたを捨てますよ」
「――――――――は――――――?」
ぱちぱち、と灰褐色の瞳が、戸惑ったように何度も瞬かれた。
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