第21話 素直じゃなくても、可愛い④

 タイミングが悪い時というのは、どうしてこうも重なるのか。

「リアム、俺は今日こそ早く帰るぞ…!」

「この書類の山を見てもそんなことを言えるのは本当にすごいなと思いますが、目の前の山のうち一つくらいは消してから言ってください。――はい。残念ながらひと山追加です。他の山より小ぶりで良かったですね」

 決して狭くないはずの執務室の机に、うずたかく盛られた山の狭間でカルヴァンが地の底から轟くような声を出すも、リアムは呆れた声で無情にドサリ、と書類を付け足す。

「大丈夫です。鬼神と呼ばれた団長なら出来ます。王子と聖女が婚約するって聞いた日の処理速度は完全に人じゃありませんでした。あの感じで頑張ってください」

「お前…っ!半分持っていけ!!!」

「馬鹿なことを…団長しか出来ないからここに積んでるんですよ。俺が出来る処理なら俺がしてます」

 呆れたように嘆息して、哀れみの視線を寄越される。カルヴァンはこれ見よがしに舌打ちして、ガシガシと頭を掻きながら乱暴な手つきで書類を捌いていく。

「あんのクソ皇子…!空気読め…!」

「口を謹んでください、団長。万が一誰かに聞かれたら大事です」

「なんで遠征前のこのクソ忙しい時に俺がこんな十六年も昔の戦争についての陳述書を書かなきゃならん!!!?」

「それは、昔のアルク平原の戦いの従軍経験がある現役の軍人は団長くらいしかいないからです」

「ファムあたりにでも半分くれてやれ!!!」

「退役軍人にトップレベルの機密情報流出させるわけにいかないでしょう…」

 そんな正論は聞きたくない。カルヴァンはギリギリと奥歯を噛みしめながら荒い筆跡で書類を書き終え、次の一枚に着手する。その処理速度は十分人並み外れているのだが、それを上回る量が積みあがっているため、やってもやっても終わる気がしない。

「仕方ないでしょう…あれだけの国家をひっくり返すためには、それくらいの周到な準備が必要でしょうし。こないだの戦争の時のイリッツァさんを救出しに行った時の話とかは、団長しか知らないんですから、向こうが諸々の処理をこなす相手として団長を指定してくるのも当然です」

「それにしたってタイミングってものがあるだろう!!!なんでよりによって今なんだ!」

「いやそれは知りませんけど。…っていうか、団長、どうしたんですか。一昨日くらいからずっとイライラしてません?」

「そう思うならあまり俺の機嫌を損ねるような発言をするな…!」

 これ以上なく低い声で凄まれて、リアムは仕方なく口を閉ざす。

 最近の帝国がきな臭いことは、この国の限られた人間たちはなんとなく気づいていただろう。だが、そのきな臭さは、恐らくクルサールに利がある匂いがしていたため、誰もそれに不必要に首を突っ込んでかき回すような振る舞いはしなかった。

 そんな中、やってきたのがこの書類の山だ。

 どうやら敵国の第五皇子は、本気でクーデターを企んでいるらしい。国家を転覆させた後――十六年前の真実を話し、クーデターを正当化し世論を味方につけ、去年の敗戦すらうまく使ってクルサールとの関係改善を図り、先の敗戦後の条約の中のいくつかの緩和を狙っているようだった。

 いつの間にか国の中枢にいる人間たちの間で用意周到に密約が交わされていたらしい。それはあのランディア暗躍の賜物だろう。

(だからって、何でここで俺にお鉢が回ってくる――!?)

 さすがカルヴァンの『人生で絶対に殺したい男』ランキングで堂々と殿堂入りを果たしている男だ。次に顔を見たら今度こそ絶対に殺す、と心に誓う。

 世論を納得させるための証拠集めの最後のお鉢が、なぜかカルヴァン宛てに一昨日、一気に集中して届いたのだ。そもそもクーデターの計画自体が最重要国家機密だ。この部屋から持ち出すことはおろか、会話を聞かれるだけでもとんでもないことになる。

「せめて今日だけでいいから早く帰してくれ、明日は徹夜してやるから…!」

「いやむしろ、何でこのタイミングで毎日家に帰ってるんですか。昔の団長なら普通にもう二徹くらいしてるレベルですよ?徹夜しないまでも、ちゃんと兵舎に部屋持っている騎士団長なんて歴代初なんですし、こういうときこそ活用しなくてどうするんですか」

「こっちにもいろいろ事情があるんだ…!!!」

 ギリッと奥歯を噛みしめる。握りしめたペン軸がミシッ…と嫌な音を立てた。

 このタイミングで見計らったように大量の書類が届くのは、どこかであの胸糞悪い第五皇子か漆黒の暗殺者がカルヴァンを見ていたのではないかという邪推すらしたくなる。

(なんっでこういうときに限って弁明の一つも出来ない――!?)

 舞い込んできた久しぶりの遠征前の忙しさの合間に、のどかなお使いに出掛けた先で、予期せぬとんでもない修羅場を経験したのが一昨日のことだ。リアムに八つ当たりしようと決意を固めながら兵舎に帰って来たカルヴァンを迎えたのは、何故かすでに蒼い顔をした補佐官だった。手には、厳重に封がなされた明らかに厄介ごとの匂いがプンプンする分厚い書類封筒。――思わず、回れ右をしたくなったのは仕方あるまい。

 そこから先は、殆ど記憶がない。ただでさえ遠征準備で忙しいのに、そこにどんどんと追加されていく『カルヴァンにしか出来ない』仕事。しかも、周到に準備されたクーデターの決行時期を、カルヴァンの怠慢で遅らせるわけにはいかない。国益を考えても、それはありえない判断だ。

 書いても書いても終わらない書類。資料が足りなければリアムに走らせ、インクが無くなれば新兵に走って大量に買いに行かせ、休む間もなく久しぶりに本気で仕事をした。

 それは全て――"屋敷"の中でないと、イリッツァと本音の会話が出来ないためだ。

 初日は、ただ目の前の書類を消すことだけを考えていたら、気づいたらとうの昔に日付を回っていた。兵舎に泊まることを進めるリアムの声を聞き流し、急いで帰宅したが――当然、屋敷の明かりは消えていて、イリッツァはスヤスヤとベッドで丸まって眠りの世界に旅立っていた。

 昼間、あんな出来事があって、午前様はないだろう。さすがに自分でも呆れる。

 隣国から寄越された書類は、普通なら何とか間に合うだろう、というくらいの期日が設定されていたが、あいにくとタイミングが悪い。近々、遠征で一週間ほど王都を空けることになる。国家機密を執務室から持ち出すわけにもいかない以上、遠征出立前までに最低限のものは可能な限り終わらせておかなければならない。

 それを考えれば――当然、朝も夜明けとともに作業を開始するレベルで仕事をしなければならないだろう。

 寝台の中でいつも通りの寝顔を見せるイリッツァの髪を撫で、その寝顔にキスを落とし、シャワーを浴びて身支度を整え――我慢できずに一刻だけ、と寝台に入ってその小柄な身体を抱きしめて目を閉じた。きっかり一刻後、死ぬほど後ろ髪を引かれながら、愛しい寝顔にキスだけして屋敷を出た。万が一、億が一にも無断外泊をしたなどという誤解を生まないように、書置きだけはしっかりと遺して。

 『帰ってきたら、ちゃんと話がしたい――』そんな書置きを残したくせに――

「なんっで出立の日程が前倒しになる――!!!?」

「領内で追加で複数の被害が出たからですよ…報告したでしょう…」

 青筋を浮かべたカルヴァンは、今度は我慢できずに、バキン、と手にした木製のペン軸を力任せに真っ二つにした。はぁ、とリアムがため息を吐いて無言で新しいペン軸を用意する。特注のものではないのでストックはまだいくつかあるが、この二日間でもうすでに何本もこうして怒りに任せて折られているせいで、いつもより格段に減りが早い。高い物ではないが経費の無駄遣いにつながるような行いはやめてほしい、と清貧を愛するエルム教徒はげんなりと胸中で呻いた。

 結局、昨日は早まった出立のせいで、当初予定していた遠征準備をさらに詰め込む羽目になり、一昨日と同じことの繰り返しになった。さすがに徹夜を覚悟してほしいレベルの山積みの書類を前に、今日は帰っている暇はないですよと蒼い顔をして引き留めてきたリアムの手を無理矢理振り切って、再び同じことを繰り返す羽目になった。帰った先で愛しい婚約者は、スヤスヤと全く気にした様子もなく穏やかに眠っていたのが恨めしい。少しは気にしろ。嫉妬しろとは言わないから、せめて心配をしてくれ。

「やっぱりリアム、お前が討伐隊を率いて行けばいいだろう、俺がわざわざ出向く必要なんかない。どうせ獣だ、獣の仕業だ、そうに違いない」

「いやいやいや…久しぶりの遠征任務ですよ?これが初陣の新兵も沢山います。国民も注目します。金食い虫とか言われないためにも、『英雄』カルヴァン・タイターの勇姿を内外にしっかりアピールしてください」

「俺にはそんなことより優先すべきことがあるんだ――!」

 絶望的な声で呻きながらも、手を止めないのはさすがだ。一つ間違えば国家の危機になるような書類ばかりを前にすれば、書類の内容を理解するだけでいつもの倍の時間がかかることはもちろん、常人ならばミスを恐れてスピードが落ちる。だが、さすがにこの英雄は脳の処理速度が常人と異なるせいか、そんな最重要書類を前にしていても普段と全くスピードが落ちない。――本人にのっぴきならない事情があってとにかく早く家に帰りたいという鬼気迫る思いがいつも以上に処理速度を上げているのかもしれないが。

「団長、この辺にある通常業務の騎士団長権限で許可が必要な書類ですが、ここだけの秘密で、俺が押印してもいいですか?」

「勝手にしろ!」

「はぁ…俺が許可したことで何か面倒があったら、尻拭いは頼みましたよ」

 言いながら、積みあがった山の一つをひょい、と持ち上げていく。優秀な補佐官は、フォローも的確だった。もしもばれたら処罰は免れないだろうが、カルヴァンはそんなへまはしないだろう、という信頼がある。細やかとはいえ悪事に手を染める罪悪感に聖印を切って軽く祈りを捧げて神に許しを請うてから、ポンポンと自分でも判断可能な物を一瞬で判別しては次々と判を押していった。

「これが終わったら、スケジュール再度調整しますね。この手の処理を俺がしていいなら、何とか出立が早まる前に組んでたところまで進められるかもしれません」

 手を動かしながら告げるも、カルヴァンからは反応が返ってこない。おそらく、本気の集中モードに入ったのだろう。何か、よほど重要な書類に入ったのかもしれない。

 鬼神はやはり鬼神だ。文句ばかり言っているくせに、仕事はなんだかんだで手を抜かない。こんなに膨大な仕事をこなしてもミス一つなく処理できる秘訣を、本気で教えてほしい。

 そんなことを考えながら、手元の最後の書類に判を捺し終えて、リアムは懐から手帳を取り出す。補佐官時代から使い慣れた手帳には、カルヴァンの予定専用のページがある。

(えーっと…休憩時間は全て考慮に入れないとして――)

 カルヴァンに負けず劣らず鬼畜なことを当たり前のように考えながらリアムはペンを動かす。

(出立式は外せないし…あ、ここの王城での極秘会議も外せないな。十中八九クーデター関連だろうし――となると、移動時間と、事前準備と――ここまでに終わらせておけって言われていた書類をここの時間を使って優先的に終わらせるとして――)

 上官ほどではないものの、一般人と比較すれば十二分に優秀な頭脳で、パズルを組み合わせるように仕事の予定を組んでいると――

 コンコン

「?」

 ドアが控えめにノックされて、顔を上げる。ちらりと上官を見やるも、酷く集中しているせいか、興味がないのか、眉ひとつ動かすこともなく書類から視線を上げもしない。リアムに対応を任せるということだろう。

 国家機密が詰まりに詰まったこの執務室に、不必要に人を入れるわけにはいかない。リアムは手帳を再び懐に入れて立ち上がると、自分が部屋の外に出て来訪者を迎えた。

「なんだ」

「あ、はい、あの、その――」

 訪ねてきたのは新兵だった。練兵場で激怒したリアムを思い出すのか、あれ以来新兵たちはリアムの前で不必要に緊張している。

「副団長に、お客様です」

「――…俺に?」

 今日、リアムに来訪者の予定はなかったはずだ。鼈甲の瞳がぱちり、と瞬く。

「玄関でお待ちです。そのっ…お、俺は、中に入ってお待ちいただくようにお伝えしたのですが、頑なに断られてしまって、そのっ…!」

「?」

 新兵が蒼い顔で言い募るのを、怪訝な顔で見つめる。何やら身分の高い者がお忍びで訪れたとでもいうのか。

(――俺を?)

 団長として国の中枢を担う面々との交流もあるカルヴァンならともかく、最近副団長に任命されたばかりのリアムに会いに来るとは、どんな人物なのか。

「まぁいい、わかった。玄関だな」

「は、はい!」

 カルヴァンの仕事の負荷を軽減するために、リアムもまだ作業が残っている。なるべく早く執務室に戻るべきだろう。リアムは大股で玄関に赴き――

「あっ、リアムさん。すみません、約束もなく急に訪れてしまって――」

「い――イリッツァさん!!!!????」

 玄関で、申し訳なさそうに眉を下げた聖女を見て、思い切り声がひっくり返った。

「なななななな何してるんですか!!!!!早く入ってください!!!!すぐに応接室にご案内します!!!!!誰ですか対応した糞兵士は!!!!!懲戒処分にしておきます!!!!!!」

「ま、待って下さい、本当にここでいいんです、お構いなく――」

「そんなわけにいきますか!!!!?聖女様ですよ!!!!!?」

 恐らく、王族がいきなり訪ねて来てもここまで動揺はしない。敬虔なエルム教徒のリアムにしてみれば、聖女を木枯らし吹き荒ぶ玄関口で立ったまま待たせていたなど、神に仕える騎士として許される行いではなかった。

 完全に色を失ったリアムに、イリッツァは困った顔で苦笑する。どうにもまだまだ、市井に下ったという認識を持ってもらえていないようだ。

「団長ですか!?すぐに呼んできます!!!!!どんな重要書類の処理途中でも、全速力で走らせます!!!!」

「い、いやいやいや、違います、違います!」

 こちらの話も聞かずに踵を返そうとするリアムを急いで引き留める。この補佐官は、時々本当に上官に対する礼儀を忘れる発言をするようだ。

「その――私が今日用事があったのは、リアムさんですっ…!」

「――――え?」

「あの…だから、その…できれば、カルヴァンには、私が来たことは内密に――」

 ぱちぱち、と鼈甲の瞳が何度も瞬かれる。

 イリッツァは少し気まずそうに視線を外した後、ゆっくりとリアムに要件を口にした。



 ガチャッ…

 執務室の扉がノックもなく開いた音には、さすがに視線を上げた。見ると、つい先刻来訪者の対応をしに出て行ったはずのリアムが戻ってきたところだった。

 相手を視界の端で確認した後、再び書類に視線を戻しながら口を開く。

「――何だった?」

「いえ。大した用事ではありませんでした」

 帰ってくる声は、どこか平坦で――冷ややかな、声。

「………?」

 補佐官のこの声を聴いたことがなかったわけではないが――カルヴァンに向けられて発せられるのは、珍しい。

 違和感に眉を顰め、再び書類から視線を上げる。

 見ると、いつも困った顔や呆れた顔を見せていることが多い童顔が、珍しく表情乏しく冷ややかな視線を寄越していた。

「――なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」

 激昂すると火が付いたように過激になる兄とは正反対に、この弟はこうして本気で切れたときは酷く静かに怒りを燃やす。

「最低ですね、団長」

「はぁ…??」

「手伝ってあげようかと思ったのは間違いでした。家に帰る間もなく徹夜で頑張ってください」

「はぁ!!!?」

 部屋を出ていく前とは打って変わって掌を返した補佐官に、慌てて声を上げる。

「さすがに遠征任務は人の命がかかっているので、神の騎士の責務を果たすためこちらで準備を進めますが――それ以外は、どうぞ、ご自分で」

「ちょ、おい――」

 パタン…

 いうだけ言って、無情にも執務室の扉は閉められてしまう。

「――――…何なんだ、一体…」

 急に不機嫌になった補佐官に心当たりなどあるはずもなく、カルヴァンは大きなため息を吐いたのだった。


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