第20話 素直じゃなくても、可愛い③
ダラダラと、人生で経験したことのないような量の冷や汗が一気に全身に噴き出すのを実感する。もしかすると、玉座の間でウィリアムに手袋を投げつけて我に返った時以上かもしれない。
(待て――落ち着け、落ち着け、俺…!)
後ろから響いてきた声を、自分が聞き間違えるはずがない。一瞬――本当に一瞬、全力で現実逃避して、もしかしたら人違いなんじゃないか説を提唱しようと思ったが、毎日聞いている鈴を転がすような愛しい美声を、カルヴァンが聞き間違えることなどあるわけがなかった。
何より、目の前にいて、恐らく店の入り口の方を見ることが出来るはずの女の顔が、幽霊でも見たかのように蒼白だ。――これで人違い、というのはありえないだろう。どう考えても。
灰褐色の瞳がさっと伏せられ、一瞬で人生最速で頭脳が稼働する。
(待て――待て、この店の見取り図――入口から見られていたとして、今の一連のやり取りはどんなふうに見えていた――!?)
自分が店にやって来た瞬間からの行動を脳の中で再生しながら見取り図を思い浮かべて、イリッツァから見られた可能性のある構図を想像する。どこから見られていたかは重要だが、こういう時は最悪を想定すべきだろう。――すなわち、最初から見られていたと想定する。
(最初の会話――手を指で辿られたのは…!?いや、セーフか!?アウトか!?)
コツ コツ
遠くからゆっくりと近づいてくる足音に、ぐるぐると頭が混乱を極める。
何故だろう。――怖くて振り返れない。
(身を乗り出してきて耳元で囁かれたのはアウトか!?いや、それよりも――俺が相手の顔を掴んで至近距離で覗き込んだことの方が問題か!?)
角度的に――あぁ、頼むから、キスしていたなどと見えていないでくれ。
今なら全力で神様とやらに祈ってやってもいい。胸中の懇願もむなしく、ダラダラと、もう木枯らしが吹く季節だというのに全身から汗が噴き出す。それは、カルヴァンの優秀な頭脳が、店の入り口から二人のやり取りを見ていたとしたら、最後のあのやり取りはどう考えても唇を重ねていたとしか見えないだろうということを弾き出してしまったからだろう。
「聖女様――…」
目の前の女は、呆然とした蒼い顔でつぶやいたかと思うと、胸の前で聖印を切ってぎゅっと瞳を閉じて震えだした。
(おい待てそれじゃ何かやましいことをしていたみたいだろう――!)
いや、わかっている。この女は確かに『やましいこと』をしていたのだ。聖女の婚約者を誘惑しようとちょっかいをかけていたのだから。
だが――今この状況でその反応をされては、カルヴァンまで巻き込まれること請け合いだ。
コツ…
すぐ後ろで止まった音に、ギクリと心臓が妙な音を立てる。
「顔を上げてください、リリカさん」
(あぁ、そうだった、こいつの名前そんな感じだったな確か――)
完全に現実逃避をしている自覚を持ちながら、カルヴァンは必死に頭を回転させる。弁明などいくらでもできる。事実をそのまま話せばいい。
問題は――どれだけ言葉を尽くしたとして、それを信じてもらえるのかどうか、だ。
何せ、イリッツァは――十五年前のカルヴァンの下半身事情を、嫌というほどよく知っている。
「せ、聖女様――お、お許しください!わ、私は――」
「構いません。…構いませんよ。あぁ、可哀想に…そんなにも蒼い顔でおびえて――」
ガタガタと祈りの姿勢を取ったまま蒼い顔で震えている女――リリカに、もう一歩近寄るようにして、ふわりとその頬に白い繊手が触れた。
カルヴァンの視界にも、その手と――よく見慣れた、美しい銀髪が見える。
(あぁ――やっぱり、そうだよな、本人だよな――)
もはや脳みそは現実逃避に全力投球しているらしい。どんどん意味のあることを考えられなくなっていく。
「私は教会で使う文具を買いに来ただけなのです。怯えさせてしまって申し訳ありません」
「そっ、そんなっ――!」
青い顔でやっと顔を上げたリリカを、イリッツァはいつもの聖女の微笑みで困ったように覗き込んだ。
「貴女は、カルヴァンを愛しているのですか?」
「え――」
「貴女には、すでに、愛を誓った夫となる方がいらっしゃったと記憶しておりますが。――もし、道ならぬ本気の恋に落ちているのならば、教会の懺悔室に赴くことをお勧めいたします」
「――――!」
「ですが、そうではなく――ただ、雰囲気に流されただけ、彼の色香に誑かされただけとおっしゃるなら、神もおそらく見逃してくださることでしょう。貴女はとても美しいのです。どんな男性も貴女の魅力の前では無力です。自覚して、己の身をしっかりと守ってください」
「オイ」
(なんだか話の流れがおかしくないか)
さすがに黙っていられずツッコミを入れる。
しかしイリッツァはリリカの手をきゅっと優しく両手で握って、ふわりと聖女の笑みで言葉をつづけた。
「真に愛する人が誰なのか――貴女は、ちゃんとわかっているはずです。甥っ子や姪っ子といつも公園で遊んであげていますね。今日も、姪っ子のためにと店番を引き受けたのでしょう。貴女は心根の優しい、素敵な女性なのですから――決して、道端の誘惑に負けてはなりません。己をしっかり持って、愛し、愛される人と、幸せを築いてください」
「せ、聖女様――!!」
「オイちょっと待てツィー」
感動に瞳を潤ませ始めたリリカに構うことなく、イリッツァを振り返る。そこには、いつもの完璧な笑顔が信徒を導く慈愛を湛えていた。
「では、リリカさん。このメモにあるものが欲しいのですが――」
「すぐにご用意いたしますっ!」
メモを受け取って、感動に瞳を潤ませたまま素直にうなずき、リリカは店の奥へと引っ込んでいく。在庫をあさるのだろう。
しん――…と何とも言えない沈黙が一瞬場を支配した。
「――ツィー。一応、言っておくが――誤解だ」
「誤解…?」
きょとん、とした顔がカルヴァンを振り仰ぐ。ぐっ…と息を詰めて、カルヴァンは呻くように早口で弁明を口にした。
「誘惑してきたのはあっちの方だ。俺は何もしてない」
「――…あぁ…なるほど」
ひやりとする汗を感じながら言い募るも、イリッツァは少し目を伏せて何かを考えてからうなずいた。
(外だから聖女の仮面をかぶってるせいで、本心が見えない――!)
せめてここが屋敷ならよかった。抱きしめてキスをして、愛しているのはお前だけだと何度だって信じてもらえるまで愛を囁けた。だが、今の『聖女モード』のイリッツァはいわゆる『仕事中』だ。べたべたと接触しようものなら、ゴミでも見るような眼で見られること請け合いだ。今この不利な状況で、彼女の機嫌を不必要に逆なでする行為は避けた方がいいだろう。
「まぁ…貴方の『癖』は昔から知っていますし」
ぐっ、と痛いところを突かれて言葉を飲み込む。今のことを責められる分にはいくらでも弁明できるが、過去の習慣を責められると、何も言い返すことはできない。それは、純然たる事実だからだ。
「ツィー。信じてくれ。昔がどうとかはいったん置いておいて――今は」
「カルヴァン」
ひやり、とした声が言葉を遮る。静かだが力のあるその声に、カルヴァンは続く言葉を飲み込んだ。
「エルム様の教えを信じない貴方に、私たちの教義の"常識"を押し付けるつもりはありません。貴方が、同時に何人もの女性を、同じように全員愛せるというのならば、それでもいいのです。私にはよく理解できない価値観ですが、例えば帝国では、それが当たり前ですし」
「な――オイ、違う!だから――」
「ですが、これだけはちゃんと覚えておいてください」
反論しようとしたカルヴァンの言葉を遮って、薄青の瞳がしっかりと灰褐色の瞳を射抜いた。
「同時にちょっかいを出した相手が王国民なら――エルム教徒なら、必ず、責任を取って全員を幸せにすると約束してください。誰一人、私の大切な民を泣かせることは許しません」
「――――――――――――」
真剣そのものの眼差しで言い切られ、ひくり、とカルヴァンは頬を引きつらせる。
知っていた。――知っていたとも。
この婚約者は、決して嫉妬などという感情とは無縁なのだと。
(だが、いくらなんでも――それはないだろう…!)
あまりと言えばあまりの主張をされて、カルヴァンは無力感に打ちひしがれる。さっきまであれこれ考えていた反論も弁明も愛の言葉も、もう、すべてが言葉にならない。
「それから、昔、何かのタイミングで伝えた気がしますが――くれぐれも、今の自分の立場を忘れないでくださいね。貴方が思っている以上に、<聖女>の存在は、国民にとって大きいのです。その婚約者、夫ともなれば、見られ方も変わります。過激な信徒もいることをお忘れなく」
「――…」
「先ほども、私が声を掛けなければ、通りを歩く人に見られるところでした。いつから逢引きしていたのかは知りませんが、迂闊すぎます。しばらく、夜道にはくれぐれも気を付けて」
「逢引きじゃない…そんなわけないだろう、馬鹿野郎…」
もう、この気持ちはどこに持って行ったらよいのだろうか。そうか、これが片思いの切ない気持ちとか言うやつなのか、とカルヴァンはらしくもない気持ちを持て余す。
毎日毎日、うんざりするくらいストレートに愛情を伝えているつもりだ。始まりが男同士、友人関係だった二人だ。そう簡単に色っぽい関係になれるとは思っていない。まして、相手は物心つく前から聖人としての教育を徹底的に受けてきた純粋培養の聖職者だ。口説き落す難易度が最高峰なことはわかりきっている。
だがせめて――もう少し、信頼してくれてもいいんじゃないか。
確かにカルヴァンの過去は、女の敵と呼ぶにふさわしいだけの振る舞いを繰り返してきた。そのころの印象が強いのもわかっている。過去はもう変えられない。
それでも、毎日全身全霊で愛を伝えているのだから、もう少し、愛されている自覚を持ってほしい。
他の女なんて見ている暇がないくらいぞっこんなんだと、いったい何をしたら彼女は理解してくれるのだろうか。
「私は、気にしていませんよ?」
「気にしてくれ、頼むから……」
苦い気持ちで呻いてから、ちらりと店の奥を覗き込む。リリカはまだ帰ってきそうにない。そのまま視線をめぐらし、入口の方を見やるが、通りにも人通りはなさそうだ。
「ツィー。信じてくれ」
言って、さっと隣の小柄な身体を抱き寄せる。ぴくっと小さく銀髪が揺れた。
「今更、お前以外の女なんか目に入るわけないだろう――」
囁いて、そのまま唇を奪おうと――
「いや。屋外なので。ありえない」
パッと冷静な顔で口元を押しのけるようにして冷静な声で拒否を示される。ご丁寧に、ふぃっと顔まで逸らされた。ひくり、と頬が引きつる。どこまでも思い通りにならない女だ。難易度が高いにもほどがある。
仕方なく体を離すと、見計らったようにリリカが店の奥からいくつかの箱を持って現れる。
「こちらが、聖女様のメモにあった品物です。――こちらが、カルヴァンが注文した、聖印入りの文具一式。ペン軸は二本しかなかったわ。インクと書類もつけておくわね」
「あぁ、助かる。手間をかけたな」
カウンターに広げられた物品を確認しながら手短に礼を言うと、イリッツァが驚いたような顔でカルヴァンを見た。
「――え。本当に買い物に来てたんですか…?」
「だから何度も言ってるだろう阿呆…!!!」
ぱちぱち、と瞬かれる薄青の瞳に、苛立ちを隠さず低い声でうなる。
「しかも、聖印入りの文具だなんて――わざわざ、どうしてカルヴァンが?」
「知るか。リアムに無理矢理追い出された。魔物遠征の書類書こうとしたら、専用のペン軸が折れたから、縁起が悪いんだと。不吉な予感がするから、ただでさえ神に嫌われている俺は不興を買うようなことをするなと、代理人に買い物に行かせるようなことをするなと、わけのわからん理論でな」
(不吉ってのは、この文具屋での遭遇だったんじゃないのか?)
後ろからイリッツァの声が響いてきたときは、一瞬、本気で心臓が止まるかと思った。
「なるほど。…ふ……ははっ…リアムらしいですね」
くしゃり、とイリッツァが破顔する。聖女の微笑みではなく、ふと漏らされた素のイリッツァの笑顔に、ドキン…と心臓が一つ音を立てた。
(なんで今ここで、こいつにキスしたらダメなんだ…?本当に意味が分からない)
ぎゅっと眉根を寄せて込み上げてきた衝動を堪えながら、カルヴァンは心の中でうんざりと呻く。抱きしめて、キスをして――今すぐ、愛しい女を独り占めしてしまいたい。
「でも確かに、縁起が悪いですね。――カルヴァン、貸してください」
「?」
手を差し出されたので、言われるがままに聖印が入ったペン軸を渡す。イリッツァはそれを受け取ると、瞳を閉じてそっとその聖印部分に桜色の唇を寄せた。
パァっ――
「――…はい。加護を付けておきました。このペンの持ち手はもちろん、これで書かれた書類を手にした人たちにも皆御利益があるはずです。といっても効果は小さく、気持ちばかりですが…聖女の加護付きとあれば、リアムもきっと安心するでしょう」
(――…そんなところにキスするくらいなら、俺にしてくれ…)
聖女の美しい笑みで差し出されたペン軸を受け取りながら、渋面を作って胸中でぼやく。
ため息を吐いてイリッツァと二人で会計を済ませて店を出てから、カルヴァンはイリッツァを振り返った。
「教会に戻るのか?」
「え?はい」
「…送る」
「え?いえ、大丈夫ですよ。兵舎と真逆ですし――」
「いい。せっかく昼間に会えたんだぞ。――俺が、もう少し一緒にいたいだけだ」
どうにも愛情を素直に受け取ってくれない婚約者には、こうして何度も態度で示していくしかないのだろう。カルヴァンは心の中で嘆息してから、サラリと隣の小柄な銀髪を撫でた。
「…リアムに、怒られないといいですが」
「いい。今日のあいつは余計なことをしてくれた。少しくらい罰が当たればいい」
「?」
不思議そうな顔をするイリッツァには答えず、カルヴァンは歩き出す。
今日の一連の事件は全て、リアムが無理矢理買い物に行けと言わなければ起こりえなかったことだ。帰ったら八つ当たり代わりにたんまり仕事を押し付けよう、とカルヴァンは静かに心に決めていた。少しくらい遅く帰ってもいいだろう。
「…そういえば…遠征、なのですか?」
「?」
「その…ペン軸が…と…」
「あぁ。今朝、報告が入って来た。カイネスに行く」
「カイネス――確かに、最初の方に結界を張りに行きましたね。でも、まだ一年は経っていないのですが…ほころびがあるのでしょうか。私も赴いた方がいいですか?」
イリッツァが心配そうな顔でカルヴァンを仰ぎ見る。ふ、と安心させるようにほほ笑んで、カルヴァンはポンポン、とイリッツァの頭を撫でた。
「大丈夫だ。まだ、魔物の仕業だと決まったわけじゃない。あくまで、疑いがあるって言うだけだ。もしかしたら、冬眠前で切羽詰まった熊だの狼だのの仕業かもしれん。聖女様の出番ってほどじゃない」
「そう――ですか…心配、です」
薄青の瞳が白銀の睫に覆い隠されるように伏せられる。ポツリ、と囁く声は消え入りそうに小さかった。
「帰ったら伝えようと思っていた。準備が整い次第出立だ。カイネスだから、そうだな…天気次第では雪がちらついている可能性もある。調査も含めて、一週間は家を空けるだろうな。手間取れば、もっとかかるが」
「カルヴァン」
イリッツァは立ち止まって、カルヴァンのマントを掴んだ。背に大きく聖印が描かれた、騎士団長にのみ許される特別な装束。
カルヴァンが疑問符を上げるより先に――パァッと一瞬、あたりに淡い光が広がる。
「加護を、つけておきました。半月くらいは効果が続くでしょう。――カイネスは、父の出身領です。貴方と同じマントを付けた彼も、きっと、見守ってくれるかと」
「そうだな…軟弱者!って言って殴られないようにせいぜい気を付ける」
「ふ…ははっ…ウケる」
耳元で、聞き馴染んだ叱責がリアルに蘇って思わず素の笑いを漏らす。くしゃり、と破顔したイリッツァを目を眇めて眺めたあと、カルヴァンはサッと目にも留まらぬ速さでその額に唇を寄せた。
「――――!!?ちょっ…何す――」
「唇じゃないんだし、良いだろう。さっきからずっと我慢してたんだ。ケチくさいこと言うな」
「っ……!」
屋外では禁止、というルールを破った婚約者を恨めしげに眺めながら、イリッツァは頬を染めてキスを落とされた額を手で抑える。
屋外でイリッツァの聖女の仮面を剥げたことに気分を良くしながら、カルヴァンは再び足を踏み出した。
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