第17話 思い込みが激しくても、可愛い④

「俺がお前と友人になってやってもいいと思ったのは――お前は、独りにしておくと、積極的に不幸と孤独にまみれた世界に進んでこうとする馬鹿だと思ったからだ」

「――――――へ…?」

「そして、この狂った価値観の国にいる以上、そんなお前に手を差し伸べる奴なんていないと思った。だから、俺が手を取ろうと思った。――それだけだ。お前が聖職者だとかそうじゃないとか、そんなの別にどうでもよかった」

「………?????」

 イリッツァは、言われている意味が全く分かっていないのか、美しく整った顔をこれ以上なく怪訝に歪めている。

 カルヴァンはゆっくりとかみ砕くようにして、二十五年ぶりの記憶を呼び起こしながら、幼馴染に言って聞かせる。

「俺と出逢ったあの頃、お前を取り巻く環境は明らかに異常だった。狂ってるとしか思えなかったが――それを、狂ってると気づかない大人しかいないことの方が、もっと異常だった。笑ってるくせに感情が読めない人形みたいな顔をして、子供らしくない口調で神の教えを説く五歳児なんて、普通、気持ち悪くて仕方ない」

「ぃ――いやでも、俺は聖女の息子で――」

「知ってる。この国の人間なら、全員がそう思うだろうな。『さすが聖女様の息子』と言って――わずか五歳にして、己を殺して神の教えに殉じ、人々を幸せにすることを喜びと感じることを、手放しで褒めるはずだ。この国の聖職者は、孤独で不幸なことが美徳なんだろう?」

「ぅ…ふ、不幸なのが美徳なんじゃない。孤独から逃げずに、人の幸せを己の幸せと思えることが聖職者の――」

「親からの愛情を受けられなくても、幸せなのか?親からの愛情を受けられない子供は、お前たちの世界では"不幸"なんじゃないのか?」

「――それは…でも、仕方ないことだってある。親を早くに亡くしたり――哀しいけれど、親に愛されない子供だって、世の中にはいる。でも、彼らが一概に不幸なわけじゃない。それぞれの幸せを見つけて――」

「その手伝いをする――そういう哀れな子供の手を取って、真の幸せが見つかるまでの間、つかの間の幸せを与えるのが聖職者、なんだろう」

「そ、そうだ」

「ふぅん――…で?当時、親からの愛を受けられない『哀れな子供』だったお前の手は、つかの間、誰が取ってくれたんだ?」

「――――――――――」

 ひゅ…とイリッツァが息をのむ。

 さっと表情が消えた婚約者を少し痛まし気に目を眇めて眺めてから、カルヴァンは安心させるように身体を引き寄せて抱きしめた。

「あのままだったら、誰も取らなかっただろう。何せ、『聖女様の息子』だ。幼かろうが何だろうが、そのレッテルを張られたお前は、人らしさのかけらもなく孤独と共に生きていく姿こそが美徳とされていた。あの頃の大人たちは皆、リツィードにとっての幸せが何か、ではなく、『聖女の息子としての幸せ』を押し付けて、それを幸せだと思い込むように寄って集って洗脳していた。初めて会った時、どう見ても喜怒哀楽が欠落してるとしか思えないくせに、当たり前のように「誰かが幸せになることが嬉しい」とか言い出した時は本気で気味が悪かったぞ」

 イリッツァは蒼白な顔のまま呆然とうつむく。カルヴァンは落ち着いた声で銀色の小さな頭をゆっくりと抱えるようにして抱きしめた。

「そんな『素晴らしい行いをする子供』に、手を伸ばすなんて――むしろ、お前たちの狂った世界の中じゃ、やってはいけない行いだろう。このエルムの教えが浸透しきった狂った価値観の世界で、聖女の息子にそんなことをする人間はいない。聖女の教えを励行する、まるで聖人のような人間像を、周囲は五歳児のお前に求めていた。お前の母親も、将来を見越して、息をするようにそうして生きられるよう、教育をしていたんだろう。結果として出来上がった愛情に飢えた子供は、周囲の期待に応えて、放っておくとどんどん自分から孤独の道に進んでいく馬鹿だった。孤独になることが、不幸になることが――誰からの愛情も受け取らないことこそが、己の幸せだと思わなければやってられなかっただけかもしれないが」

「――――…ぁ…」

「…まぁ。そんなお前が、俺に興味を示したのは、あの狂った世界で異質な価値観を持った奴だったからなんだろうが」

 左手で耳を軽く掻きながら、カルヴァンは静かに思考をめぐらす。

 きっと、少年リツィードにとって、カルヴァンは未知との遭遇だったに違いない。今まで礼賛されてきた教えを励行したら、気味が悪い近寄るなふざけるなと逃げられ、殴り掛かってくる始末だ。神の教えを説いても頑なに心を開かない少年に、きっと最初は聖職者として『哀れな子供』の手を束の間取るために近寄り――どうしたら彼が心を開いてくれるのかを必死に考えるうちに、心の交流が始まっていった。

「俺が聖職者を嫌ってると知ってから、お前は神の教えとやらを説くのを止めただろう」

「ぇ…ぁ…あぁ…」

「俺が徹底的に避けるせいで、お前は試行錯誤をして――俺がまともに話をするのは、聖職者としてではなく、一人の人間として対等に相対するときだけだと気づいた。お前がそうして寄ってくるようになって――まぁ、お前らの言うところの『哀れな子供』の一人だった当時の俺は、久しぶりに孤独以外の世界を見た気がした。あまり生きている意味を見いだせなかった当時だったが――お前といるときだけは、まぁ、もう少し生きていてもいいか、と思った」

「――――――」

「それなのに、俺を暗闇から救ったお前は、一緒に出てくればいいのに、阿呆みたいに独りでもう一度暗闇に戻っていこうとしていた。…意味が分からん。それを礼賛する周囲の人間はもっと意味が分からん」

 カルヴァンは呆れたようなため息を吐いて、さらりと銀髪を梳いた。

「当時、どれだけ見回しても、あの状況を『異常』だと捉えている人間が見つからなかった。俺を孤独から救った恩人を救ってくれる人間が、一人もいなかった。――なら、まぁ、俺が手を取るしかないだろう。自由が阻害されるのなんか御免だと思っていたし、そんなしがらみは面倒だと思っていたが、他に誰もいないなら仕方ない」

「――…」

「お前、そもそも、なんで俺が聖職者が嫌いか、知ってるか?」

「え…?い、いや…神様を信じてない、から…?」

「違う」

 恐る恐る答えるイリッツァをはっきりと否定して、カルヴァンはため息を吐く。

「――俺の唯一の友人を、積極的に孤独と不幸に追いやる筆頭の奴らだからだ」

「――――――――」

「エルム教の考えを理解できないのは確かだが、そんなことだけで聖職者を嫌いになりはしない。気味が悪い連中だとは思うが、信仰の自由はあっていいだろう。俺に強要しない限り、どんな宗教を信じようが自由だ。現に今、お前が毎日祈りを捧げようが、神罰だのなんだの俺には理解できない考えを展開しようが、興味はない」

(まぁ、布教活動なんてものをしているくらいだから、俺に害をなすのは大前提なんだが…こいつは、それをしないしな)

 リツィードと友人になる前は、自身に懲りずに何度も繰り返される布教活動が気に入らなくて嫌いだったことは確かだ。しかし、無理に神の教えを説こうとしないリツィードと友人になってからは、害のない聖職者もいるのだと考えを改めた。その代り、別の要素が嫌いの理由の大部分を占めることとなる。

「お前が自分を『聖職者だ』と認識している限り、聖職者として美徳とされる姿を周囲は強要するし、お前もそうなろうとするだろう。――結果、勝手に独りで積極的に不幸の道に突っ走っていく。必死に引き留めようとする人の手を振りほどいて、残された人間の気持ちなんか考えず、さっさと独りで死んだりする。それが美徳だ、とかいう、訳のわからん考えの下に」

「っ……」

 半眼で嫌味を言ってやると、イリッツァはぐっと息を詰めてうつむいた。心当たりがあるのだろう。やれやれ、と嘆息してもう一度さらりと銀髪を梳く。

「だから俺は、世界から聖職者なんかいなくなればいいと思っている。今も昔も、お前は早くそんな訳の分からん価値観の集団とさっさと縁を切れと思っている。あいつら、思い出したみたいにお前が『人』らしく幸せを追求しようとやっと前を向き始めたところで、たいていお前に接触して人の努力を無駄にしやがるからな。いつも、俺のツィーに手を出すなと思っている」

「――!」

「だから俺は、自分から不幸になろうとする『聖職者』のお前とは友人になるつもりはない。――っていうか、なれない。お前が自分を聖職者だと認識している以上、絶対に俺の手を握り返さないからな。いつか言っただろう。友人なんて、一方通行じゃなれない」

「……じゃぁ、ヴィーって…呼ばせてくれたのは――」

「そうでも言わないと、お前、この関係を双方向のものだと――"友人"っていう関係なんだと認識しないだろう」

「――――…」

「お前だけに許した愛称だと――俺にとって、お前だけが『特別』なんだとわかりやすく理解させたかった。どうせすぐに独りになりたがることなんかわかりきってたからな。その時、自分が誰かにとっての『特別』だと自覚していたら、踏みとどまってくれるかもと期待した。――まぁ、そっちより、ツィーって呼び方の方を気に入られるとは思ってもみなかったが」

 左耳を掻いてカルヴァンは視線をめぐらす。予想外ではあったが、最終的に『ツィーと呼ばれなくなるのは嫌だ』と言って馬車の中で本音を口に出してくれたのだから、結果オーライだろう。

 それに、カルヴァンは知っている。そうした長年の結果として、彼女が知らぬ間に、カルヴァンにとっての『特別』であることを"当然"のことと認識して、無自覚のうちに並々ならぬ――カルヴァンをもしのぐほどの独占欲の塊となっていたことを。

 結果的に、だいたいはカルヴァンの思惑通りになって、カルヴァンを特別に思うが故に神殿に独りで籠るのをためらってくれるようになったのは良かったのかもしれないが、まさかあんな結末になるのは予想外だった。良かったのか悪かったのかの判断が難しい。転生して再会できたことだけは、まぎれもなくよかったと言えるのだが。

「だから、お前はそもそもの前提が間違っている。――別に、俺がお前を幸せにしようとして何があっても助けるのは、女のお前に惚れてるからじゃないぞ」

「――――ぇ――…」

「男でも女でも関係ない。お前と友人になると決めた時から、やたらとお前が孤独と不幸に突っ走るのを止めることが目的だった。言っただろう。『お前を友とし、常にともにある。決して、お前を独りにしない』。――まぁ、一回失敗して死なせてるからな。今は、昔より過保護になっている自覚はあるが」

 そうして、ふぅ、と呆れかえった様子で大きなため息を吐いて、呻くように言葉をつづける。

「阿呆らしい…俺が、お前の傍にいる理由なんて、もっと単純だ。――お前といると、居心地がいい。それだけだ」

 リツィードがいない世界は、昼でも夜でも、常に真っ暗の漆黒に閉ざされた世界だった。その世界に色どりを与えてくれるのは、今腕の中にいるこの存在だけなのだ。だから一緒にいるし、手放したくないと思う。

「お前と一緒にいる理由に、聖職者だの男だの女だの、そんなことは関係ない。――恋愛対象になるかどうかという観点では性別は大事だが。友人関係を築く上では、別に」

「……でも…じゃぁ…もし、十五年前、俺が聖人だって打ち明けてたら――」

「たかがそんなことで嫌いになんぞなるか、阿呆。『…へぇ』で終わりだ」

「な――…」

「神なんぞ信じてないから、神の化身とか言われてもピンとこないしな。魔法を使うと謎の文様が浮かび上がる特殊体質の男なんだな、と認識する程度じゃないか?」

 ふぁ、とあくびをかみ殺しながら面倒くさそうに言われて、イリッツァは呆然と親友を見上げる。十五年間、ずっと悩み続けたことが阿呆らしくなるほどの飄々とした発言に、感情が追い付いていかない。

「でっ…でもっ…でもっ…!俺が、お前に嘘を吐いて、十年間も騙してたことは――!」

「まぁ…さすがに背景くらいは聞くと思うぞ。自覚したのはいつだったのか、それを隠していた理由は何だったのか。…聞けば、親の意向だったってわかるだろ。なら、仕方なくないか?お前に拒否権があるわけでもなし――最初から聖人だと世間に公表していたら、そもそもお前とは友人になってなんかいなかっただろうから、むしろ隠していてよかったと思うんじゃないか?」

「――――――」

「そんなくだらないことより、今後どうするつもりなのかをしっかり話し合おうとするだろうな。――どうせお前は、独りで色々思い詰めた末に勝手に自己完結させて神殿に引っ込むんだとか言い出すに決まっているから、それを引き留めることの方が骨が折れる」

「ぅ……」

「思い込みが激しい恋人を持つと大変だ」

 くぁ、ともう一度あくびを漏らしながら、ぽんぽんと頭を撫でる手は、呆れた口調に反して優しい。

「これで、お前の憂いは無くなったか?――別に、ちゃんとまともに対話してくれたら、お前の心配なんか杞憂だった」

「……ぅ…」

「問題は、勝手にくだらない思い込みで何も相談しなかったことだ。――おかげで十五年、しなくてもいい後悔をする羽目になった。謝れ」

「ご…ごめん……」

 素直に頭を下げるイリッツァにふっと吐息だけで笑って、うつむいた可愛らしい額に口づける。

「まぁ、いい。終わったことをどうこう言っても仕方がないしな。――手紙だけ残されて引き留める間もなく勝手に神殿に引っ込まれる未来じゃなかっただけよしとする」

「――…や、やっぱ…その方が、怒ってた…?」

「当たり前だろう」

 ぎゅっと不機嫌そうに寄った眉間のしわを見て、イリッツァはバツが悪そうに視線を逸らした。

「あの神殿がどれだけ厳重な警備だと思ってるんだ。まして、当時の俺は一兵士だぞ。――確実に、会いに行くだけで面倒だ」

「――――――え…?」

 きょとん、とイリッツァは薄青の瞳を瞬き、驚いてカルヴァンを見上げた。その反応に、カルヴァンの方が怪訝な顔をする。

「?…なんだ、その反応は」

「え…いや……け、警備…??」

「…お前、まさか、あんな手紙だけ残して勝手に消えて、そのまま俺が納得するとでも思ってるのか…?」

 ひくっと頬を引きつらせるカルヴァンにイリッツァは驚きに目を見張った。おそらく、その通りに思っていたのだろう。

(――どこまで思い込みが激しい馬鹿なんだ…)

 どうやら、こちらの意図は伝わっているようで全く伝わっていなかったらしい。カルヴァンは頭痛を覚えながらこめかみを抑えた。

「あんな気になる手紙だけ残されたところで、納得なんかするわけない。どんな手を使っても会いに行くに決まってるだろう。お前の真意がわからなさすぎる」

「え…?え、ぇえ…?」

「まして、神殿に引っ込むってことは――お前が進んで孤独になりに行ったってことだろう。聖女の息子、っていうだけでも誰もお前の手を取らなかったんだ。聖人、なんていうレッテルが付いたら今度こそ誰も取らない。そんな状況で、お前は、あの気味の悪い笑顔で祭事の度に顔を出すんだろう?――俺が、黙って見てると思うのか、そんな状況」

「――――」

 カルヴァンは知っていた。リツィードが聖人の笑みを張り付けるときは、余所行きの顔だ。本音を隠したいときにこそ、その笑顔はより完璧になる。誰も近づけたくない、という意思表示に他ならない。

 『人』らしさが極限まで詰まった手紙を残していったくせに、公の場ではそんな笑顔を振りまくのだ。

 そんな痛ましい姿を――カルヴァンが、放っておけるはずがない。

「で、でも、そんなのどうせ――」

「まぁ、何とかなるだろ。何せ、剣一振りしか持っていなくても、玉座にだって思いのほか近づけたんだ。周到に準備をしていけば、意外といいところまで行くんじゃないか?」

 今度はイリッツァが頬を引きつらせる番だった。言われて初めて、目の前の男が『正義の諫言』などという無謀極まりない事件を犯した人物だったことを思い出す。

「お、王族の命狙うのとはわけが違う…!この国で、<聖人>の住まう神殿に武器を持って侵入しようとするなんて――そ、そんなの、言い訳も事情も聞かれず、その場で即刻首切られて終わりだ…!」

 さぁっと蒼い顔でイリッツァが言い募る。そんな事態、想像するだけで心臓がバクバクとうるさい。

「そうか?俺は、そうは思わない」

「な――何言っ――」

「だって、お前が、止めるだろう」

「――――」

 パチリ、と薄青の瞳が瞬く。カルヴァンは、ニヤリ、といつもの笑みを浮かべた。

「仮に侵入がばれたところで、侵入者が出たことは、すぐに王城全体に伝わる。お前を守ろうとお前自身にもすぐに伝えられるだろう。――お前も馬鹿じゃない。外見特徴の一つでも聞けば、すぐに俺が来たって気づくはずだ」

「な――…」

「そのうえで、神殿までたどり着けずに途中で捕まったとして――どうせ、お前は、俺を殺せない」

「っ――――!」

 ニヤニヤと笑いながら言われた言葉に、ぐっとイリッツァが息をのむ。

 聖人は、王族をしのぐ国家の最高権力者だ。――リツィードが「殺すな」と言えば、たとえ王が「殺せ」と言ってもリツィードの言葉が優先される。侵入者がカルヴァンだと気づいた時点で、リツィードはすぐに全員に、絶対に殺すな、目の前に連れて来いと厳命するはずだ。そこまでを見越して、カルヴァンは乗り込んでくるのだろう。

「せ…性格悪い…」

「何とでも言え。お前が俺から逃げるのが悪いんだろう。死んだわけでもないのに、俺から一方的に、勝手に離れていけると思うなよ」

「でも俺…そんな風にお前が乗り込んできても、素直に、本音、喋らないかもしれないぞ。…個人的感情は、口にしたらいけないって――今より、ずっと強く、思ってたし」

「まぁ、その時はその時だろ。最後の切り札使うまでだ」

「へ――?」

 カルヴァンはニヤリ、と笑う。

「魔法の言葉があるしな。――『ツィー』」

「っ――――!」

 足元を見るようにニヤニヤと笑って言われて、ぐっと息を詰める。カルヴァンは、どこか楽しそうにイリッツァの銀髪を梳きながら言葉をつづけた。

「きっと、無理矢理乗り込んでいったってことは、普通に考えたら、まともに対話する最後のチャンスだ。本音で話さないと嫌いになるぞとか、二度と呼ばないぞとか俺に言われて――お前、耐えれるのか?その時を逃したら、二度と、未来永劫、ツィーなんて呼んでやれないんだぞ」

「ひっ……卑怯、だろっ…それはっ…」

「知らなかったか?俺は目的のためならいくらでも卑怯な手を使うんだ」

 ぐっと言葉に詰まるイリッツァに、くく、と喉の奥で笑いながら、カルヴァンはその体をゆっくりと抱きしめた。

 イリッツァはカルヴァンの胸に顔を伏せてぎゅっと瞳を閉じる。

 神殿の奥で――そんなことを言われたら、きっと、最後の理性なんか一瞬で崩れ去るに決まっている。

 そんな事態になったということは、人生最大の勇気を振り絞って、嫌われることを覚悟して神殿に向かったはずなのだ。今頃、カルヴァンにひどく嫌われているのでは――と思いながら孤独の闇の冷たさに泣きそうな気持になっていて――

 そこに、諦めたはずのカルヴァンがやって来て、変わらず『ツィー』と呼んでくれたなら――そんな奇跡が起きたら、きっと、聖人としての責務だの矜持だの、そんなものは一瞬で吹っ飛ぶ。

「だから、神罰だのなんだの、くだらないって言ってるんだ。寿命がある以上、先に死ぬ可能性があることは否定しないが――少なくとも、嫌いになるっていう方の神罰は、天地がひっくり返ってもない」

「――――!」

「っていうか、お前、こんなに毎日溺愛されてて、なんでそんな不安を抱くんだ。俺の愛情表現はまだ足りないのか?」

 ちゅ、と掠めるように唇を盗まれて、さっとイリッツァの頬が桜色に染まる。

「求婚してからずいぶん経つのに、未だに愛の言葉の一つも口にしてくれない婚約者よりも、だいぶストレートに表現してるつもりなんだが」

「っ………!」

 イリッツァは思わずうつむいて――もごもごと口の中で言い訳をつぶやく。

「い――言っても言わなくても、わかりきってることは…わざわざ言わない…って、言っただろ…!」

「ほう?あいにく、はっきりと口にしてもらわないと全然わからないんだが?」

「っ……絶対わかってるはずだから、言わない…っ…どうしてもって言うなら、手紙読み返せ、阿呆っ…」

 銀髪の間から覗いている耳が真っ赤に染まっているのを見ながら、くく、とカルヴァンは喉の奥で笑いを漏らす。口に出しては言ってくれないらしいが、あの手紙の最後の一文の気持ちを、イリッツァも持っていると伝えてくれているのだろう。

 どうにも不器用な愛の伝え方しかできない婚約者に笑みを漏らしながら、もう一度一つだけ口づけを落として、カルヴァンは随分と遅い始まりとなった休日の朝を迎えたのだった。


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