第16話 思い込みが激しくても、可愛い③
「…ィ――……ツィー…」
「ぅ…ん……」
遠くで、誰かが呼んでいる気がする。イリッツァは、うっすらと意識を浮上させ、呻くように小さく声を上げてからそっと瞳を開いた。
「ツィー。おい。大丈夫か?」
「――――…」
ぱちり、と開いた瞳が、顔を覗き込んでいる男の顔を映し出した。
今の今まで夢の中で見ていた顔と比べると、随分と精悍な顔つきになった美丈夫。
「――――――…ヴィー…」
口の端からこぼれるように、夢の中で呼んだ愛称が口を吐いた。
「だいぶうなされてたぞ。寝汗も、すごい」
言いながら伸びてきた大きな手が、うっすらと額に浮かんだ汗をぬぐったあと、いつものように頭を撫でる。
ふわり、と鼻腔をいつもの匂いがくすぐった。緩く抱きしめるようにして回されている腕も、いつもと変わらない優しさだ。
少しだけ怪訝そうな顔でこちらを覗き込む雪空の色をした瞳が――ふと、夢の中で見た過去の記憶と、重なる。
「っ――――!」
「――――は――?おい、どうした」
ぶわっ…と一瞬で瞳に涙が盛り上がったのを見て、カルヴァンがこれ以上なく怪訝そうに眉根を寄せた。
「っ…ヴぃ――ヴィー…っ!」
「?」
疑問符を上げるカルヴァンに構うことなく、ぎゅぅっと感情に任せて目の前の存在に抱き付いた。
「ヴィー…っ、ヴィー…!」
「???…だから、どうした」
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら何度も愛称を呼ぶイリッツァに、困惑したようにカルヴァンが呆れた声で返事をする。
こうして愛称で呼びかけて、当たり前のように返事が返ってくること。
これが――どれだけの奇跡の上に成り立っている世界か、イリッツァはよく知っていた。
「っ…嫌だっ…嫌だ、嫌だ、独りにしないで――!」
「――――は?」
ぎゅぅぅぅっと渾身の力で抱き付いてくるイリッツァに、虚を突かれたように灰褐色の瞳が何度も瞬かれた。
イリッツァの方から抱き付いてくるなど、もしかしたら記憶の中で初めてではないだろうか。
「どうした。――ベッドの中で、随分熱烈な愛情表現をしてくれるじゃないか。これはもう、今すぐ抱いてっていうお誘いか?」
「ぅっ…ヴィー、ヴィー…っ!」
「――――…やれやれ」
いつもの軽口に付き合うこともなく号泣しながら何度も名前を呼ぶ婚約者に、カルヴァンは左耳を掻いて苦笑を漏らした。どうやら、こちらの揶揄に付き合ってくれるような気分ではないらしい。
軽く嘆息した後、イリッツァの腰に緩く回すようにしていた腕に軽く力を入れてしっかりと抱き寄せて、ぽんぽんと優しく子供をあやすように頭を撫でる。
「どうした。――怖い夢でも見たのか」
「ぅ、ぐすっ……ふ…」
「夢で、俺が死にでもしたか?」
くっと片頬を歪めて笑いながら言うと、ぶんぶん、とイリッツァは頭を横に振った。予想が外れて、カルヴァンは少し驚く。
イリッツァがここまで取り乱すのは、去年のトラウマをなぞる夢くらいだと思っていた。
「嫌だ――嫌だ、ヴィー」
前世ではあんなにも口に出す勇気が持てなかったはずの我が儘が、みっともないくらい何度も放たれる。
イリッツァは、カルヴァンの存在を確かめるようにぎゅっとその体を抱きしめ、言葉を紡いだ。
「っ――友達、やめたら、嫌だっ!」
「――――――――――――――は???」
さすがのカルヴァンも、婚約者のその言葉には、思い切り眉間に皺を寄せざるを得なかった。
ベッドの中で、婚約者の胸に顔をうずめながら抱きしめて言うセリフではないだろう。どう考えても。
「俺、これからも、ヴィーのこと、ヴィーって呼びたい」
「はぁ…?いや、待て、その前に――」
「ヴィーにも、ツィーって、呼んでほしいっ…!」
「――――…はぁ…まぁ、もう、何でもいいが」
彼女の中で自分の位置づけがどうなっているのか、問いただしたい気持ちになったものの、なんだか全てが面倒になって追及を避ける。ため息を吐きながら、どうやら夢の内容と現実とがごちゃごちゃになっているらしい婚約者の言葉を思い出して彼女の心中を推察する。
(――あぁ。なるほど)
「見たのは、十五年前の夢か」
「ぅ…ぐすっ…」
「どうせアレだろう。聖人だって言ったら俺に嫌われるかもとか、くだらないことで悩んでた半年のことでも見たんだろ」
「くっ…くだらなくて悪かったなっ…!」
「――いや、くだらないだろ…」
呆れてカルヴァンはつぶやく。彼の苦悩を打ち明けてもらえなかったせいで、あの事件を未然に防げなかったと己を苛み、どれだけ当時の自分は信用がなかったのかと、十五年癒えるのことのない強烈なトラウマを植え付けた背景が、そんな馬鹿馬鹿しい理由だったとは。
(てっきり俺は、もっと深刻なことかと――)
彼の両親の遺品から、見てはいけないもの――例えば国家や宗教に関わる重大な秘密だったり、リツィードを愛していなかったとはっきり彼らの言葉だとわかるような形の何かが出てきたりしたのではと邪推したこともあった。打ち明けられたところで直接的な解決策を持っているわけでもないそれらの事態の場合、カルヴァンにはただ静かにリツィードの傍に寄り添うくらいしか出来ない。特に後者の場合は、彼自身の中での整理も必要だろうと思って、最後まで無理に聞かなかった。リツィードの死後、イリッツァと再会するまで、結果としては前者――自分が聖人であることを、聖女の死の前後に何らかの形で知ってしまって苦悩したのだろうとカルヴァンは結論づけていた。いきなりそんな大役を心の準備も無しに強制されれば悩むのも仕方あるまいと思い、簡単に打ち明けられなかった事情を理解はしたものの、それでも打ち明けてもらえなかった無力感に打ち拉がれた十五年だった。
そこまで彼の気持ちを慮っていたにも関わらず、実態は随分昔から聖人だと自覚していて、打ち明けられなかったのはただカルヴァンに嫌われることが怖かっただけだったなんて、本当にくだらないとしか言いようがない。そんな理由ならさっさと話せ、と本気で馬鹿馬鹿しくなって呆れた。
サラ、と絹のような銀髪の手触りを楽しむように、指で梳くようにして何度か頭を撫でながら、呆れたように口を開く。
「お前、人のことを愛が重いとかなんとか言うくせに、お前もなかなか面倒くさいぞ」
「ぅ……」
呆れた顔で呻くと、イリッツァは涙の残滓が残る顔で、ぎゅっと眉根を寄せた。
「過去がどうとか、別に関係ないだろう。お前の泣き顔が好きなのは事実だが、いつまでも過ぎたことで泣かれるのは面倒だ」
「っ……」
泣きながら嫌いにならないで、独りにしないでと縋られるのは気分が良いのも確かだが――それは、出来れば、今起きている現実に対してやってほしい。目の前のカルヴァンの言動に振り回されて一喜一憂して涙を浮かべるイリッツァが見たいのであって、もはや変えることの出来ない過去のトラウマに捕らわれて哀しむイリッツァが見たいわけではないのだ。
呆れたように嘆息してから、幼子をあやすように、小さく音を立てて眦に浮かんだ滴を救うように口づけると、イリッツァはくすぐったそうに瞳を閉じた。気分を良くして何度か口づけるも、イリッツァは大人しくされるがままになっている。――可愛い、と何度見ても飽きずに思うから不思議だ。もう二十五年の付き合いになるというのに、未だに新しい顔を見せてくれる婚約者に、カルヴァンは観念したように息を吐いた。――どうせ、惚れた弱みはこちらにある。
「まぁいい。どうせ今日は休みだし、お前の話にとことん付き合ってやる。――過去のことで不安があるなら、全部話せ。ちゃんと答えてやるから」
サラリ、といつものように銀髪を撫でてやると、イリッツァはされるがままにカルヴァンの胸に頭を預けた。ぎゅっとカルヴァンのシャツをもの言いたげにつかんだ後、ゆっくりとその桜色の唇を開く。
「お――俺は、いつか、絶対、特大の神罰を受けると思ってる…」
「――なんだか、急に話が飛んだな。……まぁいい。聞こう。なんでそう思うんだ?」
「聖人としても、聖女としても――聖職者としても、あるまじき行動をしてる。ヴィーの前で、俺は、冷静に責務を果たせない……今も、昔も、ずっと」
「…ふぅん…それで?」
「犯した罪は、必ずどこかで償わなくちゃいけない。本当は、今生で、それをしなきゃいけなかったんだと思う。十五年前出来なかったことを、今度こそできるように、って神様が機会を与えてくれたんだと思ってた。だから、ヴィーの手を拒絶して、神殿に引っ込むことが俺にとっての罪の償いだと思ってたんだけど――結局、やっぱり、出来なかった」
「まぁ、させないからな。そんなこと。絶対に」
半眼で胸の中で沈んだ声を出す婚約者に呆れた声を返す。カルヴァンの目が届く範囲に彼女がいるうちは、どんな手を使ってでもそんな事態を防いだことだろう。
そしておそらく――これから先も、ずっと、永遠に。
「だから、きっと神罰が下る…」
「?」
「罪が償えなければ、神罰が下るのは当然だ。それは仕方ないって思ってる。ヴィーの手を拒絶することが出来ない、ってわかったときから、それは覚悟してた。十五年前も、今も」
「まぁ…色々言いたいことはあるが、まずは聞こう。それで?」
「罰ってことは、俺が、苦しくて辛くて仕方ないことを強要されるはずなんだ」
「ふむ…なるほど?」
「俺は、正直、もう一回死んでるし――昔から、あまり、死ぬこと自体を怖いと思ったことはない。国民を救うためだとか言われればなおのことだ。別に、明日死んだっていいって思ってる」
「それは俺が困るから全力で防ぐが」
呆れた声で小さく反論し、ぎゅ、と守るようにイリッツァの小柄な身体をしっかりと抱き寄せた。人には簡単に死ぬなと強要する癖に、何とも勝手なことを言う婚約者だ。
「でも――だから、死ぬことは、俺にとって、大した罰にならない。俺が、本気で嫌だと思うことは――きっと、ヴィーに関することだと思ってる」
「…ほう?」
「ヴィーが、俺を置いて先に死んじゃうか――俺のことを、嫌いになるか。たぶん、そのどっちかが、俺にとっての神罰なんだろうと思ってる」
「ふぅん…それで、いつその神罰が下るか、って怯えてるってわけか。――くだらないな」
「っ…く、くだらなくない!お、俺は真剣なんだぞ!」
酷く真剣な顔で主張されて、左手でいつもの場所を掻く。神とやらの存在すら信じていないカルヴァンにとっては酷く馬鹿馬鹿しい思想だとしか思えないが、神罰の存在の有無を今ここで論じても仕方ないだろう。カルヴァンは、億劫になりながらもイリッツァの思想を肯定する立場での反論を考える。
(なるほど。――だから、十五年前、こいつは頑なに俺に打ち明けたら必ず嫌われるはずだと思い込んでいたのか)
目の前のカルヴァンだったらどう反応するか、を考えた結果ではなかったのだろう。自分の罪に対する罰なのだから、それは当然必ず起きる――享受せねばならぬ報いなのだと思い込んでいたわけだ。そして、その罰が怖くて言い出せず――結果、誰もが不幸になるとんでもない結末を迎えた。
(くだらない…)
イリッツァに気づかれないように嘆息してから、思考を巡らせる。
「仮に、百歩譲って神罰なんてものが存在したとして――そんなの、十五年前のあの事件で全部チャラだろう」
「へ――…?」
「お前、自分が、六百年近くもある王国史上でも類に見ない悲惨な死に方をした人間だっていう自覚あるのか?」
きょとん、と薄青の瞳が瞬いた。カルヴァンは重たいため息を吐いて左耳を掻いてから、言葉を続ける。
「お前に付き合って、もしもの世界を考えてみたんだが」
「う、うん…」
「お前の母親が死んだあと、もしもすぐにお前が聖人としての役割を引き継いでいたら――まぁ確かにあんな事件は起きなかっただろう。闇の魔法使いの暗躍もなく、帝国の介入もなかった。聖人の結界のおかげで魔物の脅威はなくなるし、<アルク平原の死神>が存命中のこの国に正面切って戦争仕掛けてくるような馬鹿な国はない。国王は当時から名君だったから、執政で民が惑うこともなかっただろう。――そういう意味では、お前の言う通り、あの半年間のせいで、死ななくてもいい人間が死んで、もしかしたら不幸にならずに済んだかもしれない人間が不幸になった可能性は確かにある」
ぐっとイリッツァが眉を寄せて痛まし気にうつむく。傷ついたような表情をした婚約者の頭を安心させるように優しく撫でながら、カルヴァンは再び口を開いた。
「俺に言わせればそんなの関係ないだろうと思うが、お前がそうやって気に病むなら、まぁ、それでもいい。それがお前が背負った罪なんだというなら、そうなのかもしれない。――――ただ、それに対する神罰は、『稀代の聖人』とやらの尊い行いで全て贖われたんじゃないのか?」
「………ぇ…」
「っていうか釣りがくるレベルだろう。未だに俺は納得してないぞ。――お前が、あんな風に命を落とす、納得のいく理由なんてあるわけない。意味が分からん。神罰が下るとしたら帝国の連中だろう。なんで関係ないお前が罪をかぶってるんだ。ふざけるな」
自分で言っておきながら思い出してイライラし始めたのか、カルヴァンは不機嫌そうに顔をしかめる。
ただでさえ崇高な存在とされていた聖女や聖人が、完全に神格化された存在として認識されたのは、リツィードの行いのせいだ。人が背負うにしては重すぎる業をすべて一人で請け負って、それこそが自分の責務だと言わんばかりに、歴史上類を見ない悲惨な死にざまに恨みごとの一つも吐かずに国民の罪を全て許し、闇の魔法使いの暗躍を防ぎ、国を救った。それはまさに"神"としての振る舞いにほかならなかった。
そんな、エルム教徒の基準で行けば最高レベルの"善行"を行っておいて――まだ、これ以上の神罰が下るのでは、と考えているイリッツァの神経が本当にわからなかった。
「お前が犯したとかいう罪で不幸になったかもしれない人間と、お前が救った人間とじゃ、明らかに釣り合わない。っていうか、たいして誰も不幸になってないしな、そもそも。あの半年間に増えた魔物の侵攻で民が命を落としたりはしたのは確かだが、領土が壊滅したとかいうレベルじゃなかった。街道で襲われて、騎士団に要請が来るっていうだけだ。半年間で魔物に食い殺された人数なんてたかが知れてる。その死者の遺された家族が不幸になった、とか屁理屈をこねたところで――国民全員を守る効果が十年続く結界を国中に張ったんだぞ。闇の魔法使いに操られた王都民だって、全員の目を覚ましてからお前は死んでいった。明らかに、お前の行いで不幸にした人間よりも、救った人数の方が多すぎる。罪と罰が釣り合ってなさすぎるだろう」
「で――でも――俺は転生して――」
「本当に転生が神の奇跡とかいうなら、それはあれだろ。お前が釣りがくるレベルの善行を積んだから、神様とやらがちょっとやりすぎたなと哀れに思ってボーナスタイムでもくれたんじゃないか?そっちの方がよっぽど説得力がある。――なんだかんだ、今生でお前、ひとつも不幸になってないだろ。お前も、お前の周囲の人間も。全部未然に防がれてる」
「――――…」
ぱちぱち、とイリッツァは目を瞬いた。
確かに、言われてみればその通りだ。聖女の隠匿は重罪だが、ダニエルの機転とカルヴァンとリアムの根回しによって、イリッツァが愛するナイードの領民は結局誰一人責められることはなかった。むしろ聖女を二人も輩出した領地として、再び王国中から注目が集まり、潤っていると聞く。この生を神罰だと受け止めて、カルヴァンに会いたいという我が儘が叶ったのだから…と、生涯を孤独に聖女として生きる覚悟を決めて、本当にやりたかった目の前の人々を救うという生きがいを捨てようとしたが――それも、結局は全て防がれて、最後は丸く収まり、今はやりたいことが叶っている。権力にものを言わせてくる好きでもない王太子だの皇太子だのに無理矢理妃にされかかったりもしたが、それも未然に防がれた。敵国の暗殺者に攫われて捕らわれの身になったというのに、拷問の一つも受けずに済んだ上に無事に帰ってくることが出来た。
「もういいだろう。お前は今生で、どんなに不幸になりたくても、なれない。お前が大好きな神様とやらが、どうせ邪魔をする。だから安心して好きに生きろ」
面倒くさそうに言って、話は終わりだとばかりにぽんぽん、と雑に頭を撫でると、イリッツァは困惑した顔でうつむいた。カルヴァンの言葉をゆっくりと頭の中で反芻し――
「神様のおかげじゃない――…」
「は?」
まだ言うか…と眉をしかめると、イリッツァは薄青の瞳をあげて、カルヴァンを振り仰いだ。
「お前が――!」
「?」
「お前がっ……全部っ……全部、お前が、やったことだ――!神様のおかげじゃない――!」
揺れる瞳で訴えられて、カルヴァンは左耳を掻く。せっかくイリッツァが納得しやすいような論理展開をしてやったというのに、どうにも思い通りにならない女だ。
「…まぁ。お前が不幸になるような状況で、目の前にいるのに俺が黙って見てるわけないしな。――俺が、お前をリツィードだと認識した瞬間から、お前が今生で不幸になる未来なんてない。どんなトラブルに見舞われようが、どんな手を使ってでも助けるからな。感謝しておけ」
飄々と嘯きながら、イリッツァの頭をあやすようにぽんぽんと撫でる。
カルヴァンは、神の奇跡などに頼らない。
どんな災難が降りかかろうと、必ず自分の手でイリッツァを守り、彼女の安寧を保ち続ける。それこそが、カルヴァンが己に課した誓いなのだから。
「なんで――…」
「ん?」
「なんで、ヴィーは…そこまで…」
イリッツァは、へにょ、と眉を下げて、人生をかけてまで己を幸せにしようとしてくれる友人を見上げた。
「俺――お前が大嫌いな、聖職者なのに――…」
イリッツァにとっては、信じられないくらいの幸せだが――どうしても、彼が、そこまでする理由がわからない。蛇蝎のごとく嫌うはずの聖職者の筆頭たる聖女のイリッツァを、そうまでして愛してくれる理由が、全くもって、わからない。
「…なるほど?お前がやたらと嫌いにならないでとか訳のわからんことで泣くのはそういうことか」
カルヴァンからしてみれば、イリッツァを嫌いになるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないと思っており、そんなことは誰の目から見ても自明の理だろうと思っていたので、初めて軍事拠点で号泣された日からずっと、どうしてイリッツァはそんなことを不安に思っているのか、不思議でたまらなかった。もしかしたら、彼女が聖職者である以上、いつどんなきっかけで嫌われてもおかしくないと思っているのかもしれない。
言葉にせずともわかるほど露骨に「馬鹿馬鹿しい」という表情をしたカルヴァンに、イリッツァはぐっと言葉を詰めて言い募る。
「っ…だ、だって!――お、お前がっ…お前が自分で、言ったんだろ!」
「?…何を」
「せ、聖職者とは友達になれないって――!」
「……?」
責めるような口調のイリッツァの言葉に、カルヴァンは視線を巡らせて遠い記憶をたどる。
「と、友達なら呼ばせてやる、って言って、ヴィーって呼ばせてくれたっ…」
「それは覚えてる――…って、お前それ、もしかして最初に出逢った頃の話か?」
「そ…そうだけど…」
「どんだけ昔の話を掘り起こすつもりだ、お前は…」
呆れかえってこめかみを抑えながら、げんなりとつぶやく。――もう、二十五年も昔の、たかだか五歳児が特に考えず発した一言を、そんなに強烈に覚えていられるとは思わなかった。
「まぁ――言われてみれば、そんなことを言ったような気もする」
「ぅ…」
「まさか、それをずっと気にしてたと?――あぁ。だからお前、そんなに呼び方に拘るのか」
長年の謎が解けた、とでも言いたげにカルヴァンは合点が言った声を上げた。
再会して一番驚いたことの一つは――ツィー、という呼び名に、イリッツァがとんでもなくこだわりを持っていたということだった。
カルヴァンからしてみれば、大して特別な思い入れがあったわけでもなく、その場で思いついた適当な呼びやすい渾名、というだけだった。ファム―ラの言語が根底にあった当時の彼にとって、リツィードという王国民らしい名前は長ったらしく発音しづらかったので、呼びやすく縮めようという、ただそれだけの考えだった。
ところが、どうやら本人はカルヴァンが思っている以上にその呼び名を気に入っていたらしい。二度と呼ばない、といって脅したら、二十五年間頑なに認めなかった我儘をやっと口にしてくれたくらいだ。色っぽい雰囲気になった時に、女を口説くときの声音でその名を呼んでやれば、さぁっと頬を染めて恥ずかしそうに――それでも嬉しそうにしているのにも、気づいていた。甘えるようにその名を呼べば、多少の無茶なお願いも真っ赤な顔のまま許容してくれるくらいだ。相当気に入っているんだろうな、ということにはさすがに気づいていた。
だが、なぜ彼女がそんなにその呼び名を気に入っていたのかまでは、心当たりがなかったのだが――
「…まぁ、確かに、お前くらいだな。俺が愛称で呼ぶの」
特に意識していたわけではないが、気づけば人生で誰かを愛称で呼んだことなど、リツィードとイリッツァ以外にはいないことに気づく。それは単純に、カルヴァンが、他の人類に対して全員等しく興味がないためだろう。リツィードとイリッツァ以外に、特に距離を縮めたいと思うような相手がいなかったため、必要性を感じないから愛称で呼ぶことなどなかった。それは、若いころに散々夜を共にした女たちも同様だ。
どうやら、イリッツァの中では、カルヴァンが愛称で呼ぶことこそが、彼女を友人として認めているという証であり――その呼び名で呼ばれなくなれば、それは彼がイリッツァを友人と認めなくなったと認識しているようだ。
そして、その根底には、昔自分が言ったという「友人なら『ヴィー』と呼ばせてやる」という発言が影響しているらしい。
(――――…まぁ、あながち間違いじゃないかもしれないが…)
正確、というわけでもない。
カルヴァンは左耳を軽く掻いて嘆息する。灰褐色の瞳を伏せて、少しばかり記憶を辿りながらゆっくりと口を開いた。
「俺がお前と友人になってやってもいいと思ったのは――お前は、独りにしておくと、積極的に不幸と孤独にまみれた世界に進んでこうとする馬鹿だと思ったからだ」
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