第15話 思い込みが激しくても、可愛い②

「ただいま…」

 ギィ…と耳に馴染んだ音を立てながら自室の扉が開く。薄闇に沈んだ部屋の中には人の気配がなく、同室のカルヴァンはまだ帰ってきていないとすぐにわかった。

 無自覚に胸のあたりに下げた聖印に指で触れながら、リツィードは一つほっと安堵のため息を漏らして、部屋の明かりをともす。頼りない蝋燭の灯が、狭い居室スペースをゆらりと照らした。

 アランにタオルと着替えを貸してもらったので、風邪を引く心配はないだろうが、念のため熱めのシャワーを浴びておく。ザァ――と墓地で聞いたような水音が鼓膜を叩いた。

「馬鹿だな、俺…なんで――」

 小さくつぶやいた独り言は、シャワーの音にかき消されるように、後半は音にならなかった。

 教会へ行ったのは、エルムの宗教画の前で心を静め、聖人としての責務を果たすためだった。――すなわち、王立教会に、自分の秘密を明かすためだ。

 聖人であることの証明など簡単だ。光魔法をひとつ行使すれば、言い逃れの出来ない証が頬に浮かぶ。

 今日は人が少なく、馴染みのアランがあの場の束の間の責任者だった。名乗り出るなら、絶好のチャンスだったはずだ。

 いつものように、宗教画を前にして祈りを捧げれば、すぐに聖人としての己の性分を思い出すと思った。一瞬、墓地でカルヴァンと話してざわりとざわめいた心などすぐに凪いで無かったことになると思っていた。

 それなのに――

『じゃあな、リツィード』

 ふぃっとこちらを見ることもなく冷たく告げられた声が、耳の奥でこだまして、いつまで経っても胸のさざめきは収まらなかった。

 今日アランに名乗り出れば――きっと、あれが、カルヴァンとの今生の別れになるのだ。

 ――そう思うと、静かな湖面に出来た揺らぎのような波が、酷く不愉快に心をざわめかせていった。

 母が眠る灰色の墓標に立った時でさえ、つかの間、波紋のように小さな波が立ったものの、すぐに聖人の仮面をかぶれば心は凪いだ。神の教えを、守るべき信徒を思えば、すぐに己のなすべきことが浮かんだ。

 それなのに、エルムの宗教画を前にしても、いつまでたっても収まらない――いや、鎮めようと思えば思うほど大きくなっていく波に、リツィードは困惑しながら首を垂れるしかできなかった。

 きっと、カルヴァンは、リツィードの心を心配してくれたのだろう。この十年、リツィードが聖人の笑みを浮かべるたびに「気持ちが悪い」と歯に衣着せず吐き捨て、『人』らしく生きろと何度も言われてきた。つい、聖人としての自分ではなく『リツィード』として笑った時には、カルヴァンもどこか嬉しそうにしていたのを知っている。そして、今日のように――うまくその要望に応えられない時、痛まし気に顔をしかめていることも、知っている。

 そんな風に、上手く『人』らしく生きられないリツィードを、それでも心配してくれたのだろう。墓地でのやり取りに痛まし気に顔をしかめた癖に、何も言わずに兵舎までの道のりを一緒に歩いてくれていたのは、母を亡くしたばかりの親友の心に寄り添おうとしてくれたのだとわかっている。

 決して手を握り返すことはできない、カルヴァンの利になるような物は何一つ返すことはできない、と言っているのに、それでも何も言わずに十年も一緒に闇に沈んでくれるような、親友だ。きっと、今日だって、本当はずっと何も言わずにただ寄り添ってくれるつもりだったのだと思う。

(――拒んだのは、俺だろ…)

 ザァ――…とシャワーを浴びながらぐっと瞳を閉じて胸中で呻く。

 教会へ行く、と言い出した瞬間、カルヴァンが一瞬で不機嫌になったのが分かった。

 それはきっと――今の傷ついたリツィードの心を癒すのに必要なのは神への祈りであり、カルヴァンではないのだと言われたように感じたからだろう。

「違う――…」

 ざわり、と強く胸の中に広がるざわめきに、あの時言えなかった言葉が口を吐く。

 「勝手にしろ」「今日は帰る気分じゃない」――何も言わずに寄り添おうとしてくれていたはずの彼にそんなことを言わせてしまったのは、自分だ。

「はは…さすがに、愛想、つかされたかな……」

 笑い飛ばそうと口に出してみるも、乾いた声音は、胸の中のさざ波のように、みっともなく震えるだけだった。ぐっと我知らずこぶしを握り締める。

 本当は、墓標の前に立った時、何も言わずに隣に立ってくれて、嬉しかった。つい、自分でも意図しない弱音が口から零れるくらいには、心が弱っていた自覚もあった。冷たい雨の中で、『ツィー』と言って手を取ってくれたことが――何よりも、本当に、嬉しかった。

 だけど――ダメなのだ。

 あのとき一瞬よぎった考え。

 もし、リツィードをこの世に置き去りにして消えていくのが母親ではなく――カルヴァンだったとしたら――

 ――自分は、今日と同じように、冷静を保つことが出来るのか。

「――――っ…」

 そう考えた途端――雨の中取られた左手を、反射的に握り返そうとした自分が、信じられなかった。

 理性の最後のひとかけらで踏みとどまったが、自分自身までは騙せない。

 まるで、引き留めるかのように――行かないで、と懇願するように、取られた温かな手を握り返しそうになった自分が、どうしても信じられなかった。

 本来そこに、是非はない。冷静を保てるか保てないかではなく――保たねばならないのだ。『特別』を作ることなど、聖人には許されないことなのだから。

 リツィードの脳裏に浮かんだのは、愚かな聖女のレッテルを張られた雪女だった。夫の物言わぬ躯が返って来て、我を忘れて縋り付き、聖女でありながら衆目も気にせず滂沱と涙を流して泣き叫び、蘇るはずもない完全な死体となったその物体に光魔法を全力で展開した。魔力の枯渇で昏睡した後、目覚めてから――母は、静かに、確かに、狂っていった。まさに、聖人たるもの、決してこうなってはいけないというお手本を、神が次世代の聖人となるリツィードに、戒めるように毎日つぶさに見せているようだった。日に日に壊れていく母を眺めて、改めて自分は決して『特別』など作りはしない、と心に誓って――

 それなのに今日――自分の意思とは関係なく――

「ダメだ…ダメだ、リツィード…ダメだ…」

 その手は、取ってはいけない手なのだ。どんなにそれが、温かくて優しくて、ずっとずっと永遠に傍にいてほしいと思いたくなるような居心地の良い物だったとしても――決して、決して握り返すことだけは許されない。

(大丈夫…大丈夫、だ…まだ、大丈夫。俺が――俺が、『聖職者』だと知れば、カルヴァンは――)

 ぐっと力を込めて瞼を閉じれば、眉間に深いしわが寄った。キュッとシャワーを止めて、気持ちを切り替える。

 思い出すのは、二人にとっての、始まりの記憶。

『つまり俺は、『聖職者』となんか、友人になりたくない』

 幼い日の彼は、はっきりと、きっぱりと、こちらの目を見て告げた。

 そう――もともと、彼との関係は期間限定だったのだ。リツィードが聖職者の頂点である聖人だと明かせば――二人の関係は、あっけなく解消される。彼との間にあった<友人>という関係性は、リツィードの一言だけで、まるで最初からそんなものは存在していなかったかのように――幻のように、あっさりと、消えてなくなるのだろう。

(そうしたら――…)

 きっと、今ならまだ、うまく、『独り』になれるはずだ。

 カルヴァンは、今日のように酷く不機嫌になり、自分からリツィードの傍を離れていくだろう。どんなに彼の期待に応えられなくても決して離れなかった彼が、ずっとずっと握ってくれていた手をするりと解き、自分から、離れていく。『じゃあな、リツィード』と冷たくこちらを見ることすらなく、背を向けて。

「っ――…」

 それを思うと一瞬胸が刺し貫かれたように痛んだが、気づかないふりで無視をする。寝間着に着替え、部屋に戻るが、まだカルヴァンは帰ってきていないようだった。無意識に胸のあたりを指でたどるが、寝間着のそこに、いつもの聖印はなかった。

 彼に聖人と告げた時にどうなるか、なんて――期間限定で友人になると決めた時から覚悟していた『別れ』のシーンだ。十年も前から確定していた予定調和の結末に、今更何を迷っているのか。父が聞けば、「軟弱者!」と殴られること間違いなしだろう。

 そう思うのに――胸のさざ波は収まらない。

「くそ…っ…情けねぇ…」

 眉を下げて呻きながら、いつまでも帰ってきそうにない相部屋の友人を待つことなく明かりを消して寝台へと向かう。

 ふっと暗闇が訪れ、しん…となった部屋で、ドクンドクンという不穏な心臓の音だけが静かに響く。

 さざ波を抑え込もうとするたび、耳の奥で、懐かしい記憶が蘇るのだ。声変わり前の、子供らしいカルヴァンの声が――それまで捕らわれていた闇を、その瞳からふっと消した時の、彼の言葉が、蘇る。

『――ヴィー。…友人になるなら、呼ばせてやる』

「っ……」

 聖職者とは<友人>にはなれないと言った彼に、自分が聖人だと打ち明けて、<友人>ではなくなったのなら――

 もう二度と、彼を、『ヴィー』と呼ぶことは、許されないのだろうか。

 あの、低く響く落ち着いた声が――『ツィー』と呼ぶことも、ないのだろうか――

「嫌だ――嫌だ、嫌だ、神様っ…それだけは、嫌だっ……ヴィー…!」

 聖人として国民のために己を殺して生きることに何の不安もないが――ただ、彼に、嫌われることだけは、怖くてたまらない。

 自由をこよなく愛する彼が、世界でただ一人、リツィードだけにくれた<友人>という称号。

 それを象徴する宝物を失うことが怖くて――凍える漆黒の闇の中で、仄かな温もりをくれた灯を永遠に失うことが、ただただ怖くて――どうしても、今日、アランに申し出ることが、出来なかった。

 たとえそれが、敬愛する神の教えに背くことなのだと言われても――それだけは、どうしても。

(せめてもう一回――聞きたい)

 今日の別れが、人生最期の別れだなんて、そんなのは嫌だ。不機嫌そうに『じゃあな、リツィード』と言われたあれが最期だなんて――嫌だ。

 どうせもう二度と会えないというのなら――せめて、最期に彼に呼ばれる呼び名は、『ツィー』という、あの大好きな響きがいい。ふわりと心を錯覚のように温めてくれる、呼び名がいい。本音で話せと、何かを真剣に問い詰めるような響きではなく――昔みたいに、気安く、親しみを込めて、呼んでほしい。

 きっと、きっと、記憶に刻み付けるから。

 死ぬ最期の瞬間まで、永遠に、覚えていられるように――深く、深く、刻み付けるから――

 だから、最期は、もう一度。

 もう一度――あの、低く響く落ち着いた声音で、もう一度――



 どれくらいの時間が経ったかわからない。

 ギィ――と独特の微かな音を立てて、部屋の扉が開く気配がして、ハッと息をのんだ。いつの間にか雨は上がっていたらしい。外から差し込む月明かりの角度を見れば、すでに時刻は明け方近いのではないかと予想が出来た。

 音と気配を殺して入って来たらしい相部屋の住人は、そのままいつものように反対側の二段ベッドの下段に入り込む。

「…おかえり…」

「!――…起きてたのか?」

「ん…ちょっと、眠れなくて……」

「珍しいな。…明日は雪か?」

 寝つきの良いリツィードが、こんな時間まで眠れず起きていることなどない。カルヴァンは驚いたような声を上げた。

「はは…こんな季節に、雪なんか降るかよ」

 いつものように軽口を叩く。

 ――いつもみたいな会話が、したかった。

「明日も仕事だろ。さっさと寝ろ」

「……ん…そう、だな」

 こちらの思惑とは異なり、正論をぶつけられて曖昧にうなずく。

 もしかしたら、これが最後の会話かもしれないのだ――と言い出す勇気は、なかった。

「?……どうした」

「え?」

「何だ。…言いたいことがあるなら言え」

「――――!」

 ハッと小さく息をのむ。

 ――そう、だった。

 言葉などなくても――吐息一つで、相手の言いたいことくらいわかる。

 それが、この十年で築いてきた、絆なのだから。

「っ…なん、でも、ない…」

「?」

 咄嗟に口を吐いた言葉が本心でないことくらい、カルヴァンはすぐに察しただろう。

 リツィードもまた――言葉などなくとも、相手の言いたいことなど、手に取るようにわかるのだから。

(どうしよう…もう、いっそ、今、言い出すか――?)

 すべてを打ち明けて、最後の別れを悔いなく済ませて――

(――――――…悔い、なく…?)

 自分で考えた内容に、ざわり、と胸が不穏にざわめく。

 彼との別れを、悔いなく済ませることなど――出来るのだろうか。

「あの…あのさ…」

 リツィードは、迷いながら口を開く。ドキン、ドキン、と心臓がうるさく脈打っていた。

 まだ、返事をしてくれるだろうか。この呼び名を口にする資格が、まだ、自分にあるのだろうか。

「――ヴィー」

 この愛称を――こんな風に緊張しながら呼んだことがあっただろうか。

「?――…なんだ」

(――――っ…!)

 当たり前のように返事が返ってきたことに、言葉に出来ない程の安堵が押し寄せ――すぐに、これから先の未来を思って堪らない寂寥に胸が痛んだ。

 これが、当たり前ではなくなる未来が、来るのだ。

 明日から――いや、彼に真実を告げる、今日この瞬間から――これは、もう、当たり前の光景ではなくなる。

 真実を打ち明けた後、すぅっと温度を失くす灰褐色の瞳が想像出来る。

 冷え切った声で、嫌悪感のにじむ声音で、『もう口を開くな。不愉快だ』と拒絶される未来が見える。

 ツィー、と呼んでくれたその声で、そんな風に言われる世界が、すぐ目の前に、迫っている。

(い――――――嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!)

 恥も外聞もなく、胸中も頭の中も、ただそれだけの言葉で埋め尽くされていく。

 聖職者の矜持なんか、聖人の責務なんか、知ったことではない。

 目前に迫った、本当の意味での救いのない孤独と不幸に叩き落とされる恐怖に、本能が徹底的な拒絶を表す。

「?……おい…?どうした」

「っ――…」

 様子がおかしいことに気づいたのだろう。言葉などなくても互いの様子が分かってしまうのは、こういう時、良いのか悪いのかわからない。

「ごめ…なんでも、ない。明日、早いし、今日はもう寝る」

「…?変な奴だな」

 早口で出てきた言葉は――完全に、一度決めたと思った覚悟をあっさりと覆す言い訳だった。聖人が、神の化身が、聞いてあきれる。どこまでも『人』のような、脆弱な、許されざる、あるまじき心。

「おやすみ、ヴィー」

 今日はもう言い出せる気がしない。明日のチャンスに賭けてさっさと寝てしまおうと、呟くように、もはや無意識の慣習に近くなったいつもの挨拶を口にすると――

「あぁ。――おやすみ、ツィー」

 ドクン…

 返って来た、いつも通りの慣習となった挨拶に、心臓が驚くほど飛び跳ねる。

 成長して、日常の会話の中で互いを呼ばなくなってもう何年も経つが――毎日交わす、この挨拶だけは、昔からの習慣で、唯一ずっと変わらない。

 お互い、愛称を呼んでいるという認識すらなかっただろう。互いの愛称までがセットになった挨拶、という認識だ。

 昼間、互いを愛称で呼ぶとしたら、それは相手の本音を引き出したいと思った時だけだ。真面目で切実な話題の時くらいしか呼ばないその愛称が――こんなにも気軽に、幼いころのように呼ばれるのは、この、寝る前の挨拶だけだろう。

(ぁ――これ、ダメだ…)

 これを聞いて、最後にしようと思っていた。これさえ聞ければ、聖人と名乗り出る勇気が出ると思っていた。たとえ二度と呼ばれないとしても、この特別な響きを想い出に生きていくのだと思っていた。

 だけど、そんなものは思い上がり以外の何物でもなかった。

 神罰すら覚悟して、生まれて初めて抱いた自覚的な我が儘の結果は――いつもと変わらず、心の奥に温かい火を灯してくれた。

(これが――もう、二度と、聞けなく、なる…)

 一度焦がれた響きを耳にしまうと、それを失う恐怖は、聞く前よりも強く大きくなっていた。

(嫌だ――二度と聞けないなんて、嫌だ――…っ…)

 今すぐにでも、もう一度同じように呼んでほしい衝動に駆られる。

 安心したかった。ツィー、と呼ばれているうちは――カルヴァンに、嫌われていないと証明されているも同義だから。

 これからは、あの純白の檻のような神殿に引っ込む生活になる。

 当然――おやすみ、と返してくれるこの親友は、もういない。

 耐えられるのだろうか。いつか、慣れる日が来るのだろうか。

 つい習慣で、「おやすみ、ヴィー」とつぶやいたときに、ただ痛いほどの静寂が返ってくるだけの日々に――慣れる日など、来るのだろうか――

「っ………」

 そんな日は、来ないでほしい。

 ――ヴィー、と呼びかけたときに、何も返事が返ってこない日々なんて――永遠に、未来永劫、絶対に来てほしくない。

 昼間であれば聖印が下がっている胸元のあたりをぎゅっと無意識に握りしめて、リツィードは眉根を寄せて固く瞳を閉じた。

 明日こそ――明日こそは、覚悟を決めるのだと自分に言い聞かせて――

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