第14話 思い込みが激しくても、可愛い①

 冷たい雨に打たれて歩きなれた兵舎までの道のりを歩く道すがら、リツィードはぐるぐるとまわる頭を必死に回転させた。

 聖人の仮面で取り繕ったはずの表情に反して、心の中がぐちゃぐちゃになっていく感覚。何も言わずに後ろからついてくる親友の存在こそが、その諸悪の根源だ。今、顔を覗き込まれたくはない。――きっと、雨の寒さではない理由で、蒼白になっているだろうから。

(――このまま、一緒に兵舎には帰りたくない…)

 リツィードはぐっと奥歯を噛みしめて軽く俯く。頭が混乱して、まともに考え事が出来ないこの状態で、この、常人の何倍もの速度で回転する友人と対話するのは避けたかった。

 きっと――言わなくていいことも、言ってはいけないことも、たくさん口にしてしまいそうで。

「――――カルヴァン」

 リツィードは、不意に王都の真ん中で足を止めて後ろを振り返った。夏も間近な季節の雨で濡れそぼった髪も服も、とにかく気分が悪い。

 振り返った先にいた親友は、いつも通りの切れ長の双眸をじっとこちらに向けていた。

「俺、教会に寄っていく」

「…は……?」

「神様に――祈りを、捧げてから、帰りたい」

 貼り付け慣れた仮面を面に張り付け、にこりと笑む。

「母さんの、死後の旅路を祈ることはできないけど――やっぱり、こういう日は、お祈りが出来ないと、不安だ」

 それは、嘘ではなかった。朝から、国葬の準備でバタバタしていて、今日は一度も教会で祈りを捧げていない。

 カルヴァンは、それを聞いてどう思ったのか――酷く不機嫌そうに顔をしかめた。何かを言いたげに口が開かれ――いったん閉じられてから、もう一度開かれる。

「……勝手にしろ」

 ドクン

 吐き捨てるように不機嫌を顕わにされ、心臓が不穏にざわめく。鼓膜を叩く雨音にかき消されたが――おそらく彼が、聞こえるほどに大きく舌打ちしただろうことは、その表情からすぐに察せられた。

 そのままカルヴァンはリツィードを追い抜かすようにその脇をすり抜ける。

「俺も、今日は帰る気分じゃない。どっかで適当に女をひっかけて来る。先に寝てろ」

「ぇ、あ、う、うん…」

「じゃあな、リツィード」

 すりぬけざまに吐き捨てられた言葉に、一瞬遅れて何とか頷きを返すも、長身の影は、そのまま一度もリツィードを振り返ることなく、大通りの方へと姿を消していった。馴染みの女のところに行くのか、新しい女のところに行くのかは知らないが、彼ならずぶ濡れでいきなり現れても喜んで家に招き入れて甲斐甲斐しく世話をしてくれる女の一人や二人や五人十人くらいいくらでもいるのだろう。

 ザァ――とその他の音をかき消すような雨音の中に佇みながら、リツィードはカルヴァンが姿を消した方を静かに見つめる。

 教会に行く、と言えば、彼が個人行動をすることはわかりきっていた。決してその敷地に足を踏み入れようとすらしないほどの徹底したエルム教嫌いなのだから。

 だから、この展開は好都合だ。しかも、下手をすると今日はもう明け方まで帰ってくることすらないかもしれない。ゆっくりと考え事をして、頭の中を整理するのには良いことばかりだ。

 それなのに――先ほど、握られた左手が、妙に冷たく感じるのは、雨のせいだろうか。

「――…」

 ふぃ、と妙な感傷を断ち切るように無理矢理顔ごと視線を逸らすようにして、リツィードはこの国で一番大きな教会――初めてカルヴァンと出逢った場所へと、足を向けた。


 ◆◆◆


「リツィード…!どうしたのですか!ずぶ濡れではありませんか!」

「あ…アラン…」

 教会に入った途端、たまたま通りがかった顔見知りの副司祭に声を掛けられた。三十路間近となった今年、異例の若さではあるが次の王立教会の司祭登用試験を受けると言っていた彼は、幼いころより神童と呼ばれたその才を、大人になってもいかんなく発揮している。

 その若さに似つかわしくない、いつもむっつりした寡黙な男は、幼い子供の前では分かりやすく破顔する子供好きで有名だ。幼いころからフィリアに連れられてこの教会に出入りしていたリツィードもまた例外ではなく、昔からアランは、聖女の息子だから、という理由以外で特にリツィードに良くしてくれていた珍しい人物だった。

「待っていてください、今すぐにタオルと着替えを持ってきます」

「あ、えっと――」

 そんな、申し訳ない――というより先に、アランはすぐにどこかへと走り去っていってしまった。

(…まぁ、ずぶぬれで礼拝堂入るのも、な…)

 神様にも他の礼拝者にも失礼だろう。自分の中で結論付けて、リツィードは大人しく言われた通りその場でアランを待った。

 雨の日の教会は、いつにもまして静かだ。礼拝に訪れる人間はかなり少ないため、その分普段たまっている仕事をこなす聖職者が多くなる。結果、礼拝堂をはじめとした場所に人気がなくなるのが常だった。

(今日は、母さんの葬儀だったから、なおのこと出払ってそうだな…)

 エルム教のしきたりに沿って行われる国葬の準備は、当然王立教会関係者の負担が圧倒的に多くなる。朝早くから働いていた人間が殆どだろうから、きっと今は、無事に国葬を終えられたことで気が緩んで、皆休憩を取ったり部屋へ戻ったりしているはずだ。姿の見えない老齢の司祭はきっと、枢機卿団と国家の中枢を担うメンバーとの会合にでも出ていることだろう。聖女が死亡して、これから混乱に巻き込まれていく王国をどうやって守るか、その算段を難しい顔で話し合っているはずだ。

 そうして人が出払った教会を、一時的とはいえ任されているのだから、アランの若さに負けぬ信頼は十分なようだった。

(…俺の正体を明かすとしたら…アラン、だと、言いやすいんだけど…)

 もう一人の副司祭は、リアナだ。――だが、彼女は、フィリアが自死をしたことに耐え切れず、心を病んで療養中だと聞く。司祭に申し出るのが早いのはわかっているが――幼いころから良くしてくれたアランの方が、幾分申し出やすい気がしていた。

(いつ言おう…)

 いや、悩む必要など、ない。

 ――――今日、だ。

 リツィードは、昼間の国葬で見た国民の顔を思い出す。彼が護るべき王国民に、あんな不安な顔をさせておいて良いはずがない。一日でも早く、人々を闇から救わねば――

「お待たせしました。こちらを」

「あ、ありがとうございます…」

 急いで駆け寄って来たアランは、大きく吸水性のあるタオルを広げて、幼い子供にするように頭にばさっとかぶせて軽くごしごしと拭いてくれた。実の母親にもされたことのない行動に一瞬面食らい、どんな顔をしていいかわからなくて慌てて礼を言ってから自分でタオルを手にして拭う。

「着替えもこちらに置いておきますね。風邪をひいてしまいます」

「あぁ、いや、そんな、そこまでは――」

「ダメですよ、リツィード。――もう、風邪を引いても、その場ですぐに治してくれる方はいらっしゃらないのですから。身体は大事にしなければいけません。今まで以上に、大切に。私と約束してください」

「――――…はい…」

 ぎゅっと痛ましそうに眉を寄せて言われて、何と答えるべきか窮しながら言葉を絞り出す。

 実は、生まれてこの方、風邪をひいたとしても、全部こっそり自分で治してきた、とは言えない。――母に治してもらったことなど、一度もない。

 彼女との間に、一般的な人々が思い描くような親子の情は、ひとかけらもなかったのだから。

「今日は、神様にお祈りを?」

「はい。…その――」

「構いませんよ。リツィード。――構いません」

 口を開きづらそうにするリツィードを、アランは慈愛に満ちた聖職者の顔で制す。

「幸い、今は、礼拝者は一人もいません。聖職者も全員出払っていますから――あと一刻ほどは、貸し切り状態です」

「ぇ――」

「私も、色々とやることがあるので。――心行くまで、祈りを捧げてください」

「………はい。ありがとうございます。アラン」

 にこり、とアランが穏やかな笑みを返す。感謝の意を示して、軽く頭を下げた。

 きっと、聖女の旅路を祈れないことは知っているはずだ。それでも――母の葬儀を終え、傘もささずにずぶ濡れの状態でやって来たリツィードに、何かを察してくれたらしい。

 その推察はやや的外れではあったのだが、リツィードはこれ幸いと、あえて訂正することをせず、礼拝堂を使わせてもらうことにした。

 気持ち的には懺悔室の方に赴きたい気持ちだが――この懺悔は、この世界の誰にも、聞かせることは出来ないから。


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