第13話 八つ当たりされても、可愛い
その日は、世の中に絶望を与えるような閉塞感のある曇天だった。鉛色で塗りこめられた空は、その奥にあるはずの太陽の光の一切を遮断してしまい、昼だというのに、まるで嵐が来る前のような暗さだった。
いつ雨粒が零れ落ちるか――そんな危惧の下で行われた、『愚かな聖女』の葬儀。
不名誉極まりないレッテルを張られたとはいえ、最後まで国の宝と呼ばれる存在への礼を尽くしたのか、国民は慣習にのっとり、彼女を国葬の対象として手厚く葬った。
その日、愚かな聖女の棺が運ばれていくのを眺める国民の顔が暗かったのは、決して神の化身と呼ばれた女の死を悼んだからだけではなかっただろう。
聖女が心の病に伏せってから、公務が十分に行えなくなり、各地の結界にほころびが生じ始めていた。英雄を失ったばかりの騎士団はひっきりなしに遠征をおこない、平時であれば要請されない兵団への遠征随行をはじめとする援助要請も同じだけ増えていった。
結界は、目に見えない。そこにあるのか、すでに結界の効力が無くなったのかは――魔物が侵入してきて初めて、明らかになる。
聖女が亡くなった以上、王都とて例外ではない。何せ世の中には、数々の伝説を打ち立てたバルド・ガエルさえも打ち破る恐ろしい魔物が存在していると、王国民はすでに知ってしまっていた。それほどの魔物を――果たして、一般の聖職者たちの光魔法の結界だけで防ぐことが出来るのか。
一寸先に迫った闇の恐怖に震え、惑い、今にも泣きだしそうな天を仰いで、聖印を切って祈りをささげる――
聖女の国葬は、まさに、絶望の時代の幕開けを意味していた。
リツィードは、血を分けた息子として、聖女の棺を運ぶ担い手の一人を務めながら、絶望と悲嘆に暮れる王国民の顔をその薄青の瞳で眺めていた。聖印を切り、膝をついて、闇の恐怖に震える人々を、ただ、静かに眺めながら、王都を歩いた。
そうして、土魔法使いによって墓地に作られた穴に棺が静かに収められ――その上にあったであろう土が、再び魔法によって最初から何事もなかったかのように戻っていくのを、彼女を想って棺の中にこれ以上なく敷き詰められた花と同じ、薄青の瞳で眺めていた。
春と夏の間に盛りを迎えた可憐な花は、リツィードの自宅に作られた花畑にも咲き乱れていた。死者が愛したその花は、花言葉の通り、まるで呪いのようにリツィードを――決して逃げられない孤独の記憶に縛り付ける。
薄青のミオソティスを見るたびに、フィリアの瞳を思い出した。凍てついた冬の湖面のようなあの瞳が、いつか緩むことを期待して見続けた、十五年の日々を、思い起こさせた。そして、きっと、今日からは――母の死を思い出す花と、なるのだろう。窓の外のミオソティスを眺めるようにして首を吊った聖女は、棺の中いっぱいに敷き詰められた花弁に包まれるようにして、地中深くへと埋まっていったのだから。
葬儀の後――本当にすべてが終わった後、リツィードは再び一人で、つい数刻前に母の棺がぽっかりと地中へと飲み込まれていった場所へとやって来た。
曇天はいよいよ湿り気を帯び、暗澹たる様相を呈している。
彼女の墓前で、神に祈ることはできない。――彼女は、神の教えにそむいて、己で命を絶ったのだ。神に、死後の安寧を祈ることは出来ない。
だから、リツィードはただ静かに、その灰色の墓標を眺めることしかできなかった。
(――――――名乗り、出なきゃだな…)
昼間、葬儀の間中、この曇天のように暗澹たる表情を見せていた国民を思い出す。彼らを救うことこそが命題として生きてきたリツィードにとって、それは何よりも痛ましい現実だった。
彼らを救うためなら、何だってしたい――そう、思うのは、確かなのに。
(ダメだ――…ダメだ、流されるな。孤独と向き合うのが、聖職者だろ。ずっと――ずっと、覚悟して、生きてきたじゃないか)
ふと心の奥に揺らめきそうになった何かを、意識に上る前に否定し拒絶する。
母が死んだら、聖人として名乗り出て、神の化身としての役割を全うして生きる。まさか、こんなに早く――というのは確かに予想外だったが、それでも、物心ついたころから繰り返し脳裏に刻み込まれたその教えに、背くつもりは毛頭ない。それは、十五年、どんなときもずっと脳裏にあり続けた既定路線。自分がどんな人生を辿ろうと、最後に行きつくところはそこなのだ。
冷ややかな母の瞳を思い出す。
息子への愛のひとかけらも見せることがなかったその瞳と同じくらい冷たい声で、母は神の教えを説いた。決して違えることは許されぬ、絶対の教えとして、この身に刻み込まれた。
――本人は、その神の教えを、数々破って、その人生を終えたというのに。
(…なんで…)
ぐっとこぶしを握り締めた時――
ザッ…
「――…リツィード。ここにいたのか」
地面を踏みしめる小さな音が、背後で響き、聞きなれた声が語り掛ける。
――低く響く、落ち着いた声。
「………帰らないのか」
足音が、ゆっくりと近づいてくるが、振り返らなかった。
彼の前では――どんな顔をしていいか、わからなかった。
ザッザッと足音が徐々に近づいてきて――当たり前のように、隣に長身が立ち止まる。まるで、独り佇むリツィードの孤独に寄り添うように――当たり前に。
触れているわけでもないのに、何故か彼が立った左側がほんのりと温かくなったような錯覚を覚え――ふ、と思わず考えていたことが口から零れ落ちた。
「なぁ、ヴィー」
「……なんだ」
珍しく口をついたのは、愛称の方だった。
――隠し事なく、本音で答えてほしかったのかもしれない。
「なんで、母さんは死んじゃったのかな」
我ながら、驚くほどその声は空虚だった。灰褐色の瞳がこちらを向く気配がする。
そちらを振り返ることも出来ぬまま――ただ、抜け殻のような表情で、母の墓標を眺めたまま、口を開く。
「――――俺が、いたのに」
「――――――」
ハッ…と珍しく親友が言葉に詰まったのが分かった。
リツィードは、薄青の瞳をそっと伏せる。雨が近いのか、空気の匂いが独特に変わり、低く小さく遠雷が鼓膜に届いた。
親友との間に落ちたたっぷりの沈黙ののち――リツィードは、すぅっと息を吸ってから、顔を上げてカルヴァンを見た。
「悪い。変なこと言った」
もう、浮かべる表情には迷わなかった。
自分の気持ちが、感情が、どのようであれ――いつだって、意志一つですぐに浮かべられる『完璧な表情』が、自分にはあるのだから。
「リツィー――」
「さて、まだまだやることいっぱいだ。母さんがおかしくなるから捨てられなかった親父のと合わせて、まだ屋敷に二人分の遺品がいっぱいあるし、整理する時間を思うだけで気が遠くなりそうだ。これからは俺たち兵士にも、遠征任務の同行依頼も増えるだろうし、さっさと終わらせないと、全然進まなさそう」
軽い調子で嘯くと、ポツリ――と一滴、ついにこらえきれなくなった涙をこぼすように、分厚い鉛色の空から冷たい滴が落ちてきた。
「ぅわ、降って来た。カルヴァン、本降りになる前に――」
帰るぞ、といって踵を返す直前で。
ぐっと引き留められるように、大きな掌に、左手を掴まれた。
「――――ツィー」
ドクン…
成長とともに、お互いが日常の中で愛称をめったに呼ばなくなって、どれくらいになるだろう。
それなのに――何年たっても、この愛称は、呼ばれるたびに、心の奥に幻みたいな淡い火を灯していく。
「な、何――」
「哀しんで、いいんだぞ」
「――――――――――」
ポッ ポッ ポッ
最初の一滴が呼び水になったように、空から大粒の滴が次々と舞い降りて来る。
徐々に強くなってくる雨足など気にも留めないように――目の前にいる瞳に雪空を宿した男は、痛まし気に顔を歪めて、手を離さぬままリツィードに語り掛けた。
「母親が、死んだんだ。お前は、たった一人の、息子だった。――哀しんでいい。泣いたっていい。それが、『人』として当然の感情だ」
「――――…」
「独りで残していく母親を恨んだっていいんだ。最後まで愛してくれなかった母親を、憎んだっていいんだ。――お前は、『人』なんだから、それくらいしたって、罰なんかあたらない」
「………でも」
「ツィー。――隠し事はなしだ」
ザァ――――
ついに、一気に雨粒が降り注ぎ、一瞬雨音以外のすべての音が掻き消える。
ふと――カルヴァンが、あえて兵舎に戻ってからではなく、この墓地で引き留め、こんなことを言い出した理由に思い至る。
泣いたっていい、と彼は言った。――この土砂降りの中でなら、確かに泣いたってわからないだろう。
不器用な親友の、わかり辛い優しさに、ふ…と思わず笑みが漏れる。――笑みだと思った。表に出た時は、苦笑に近かったかもしれないが。
「…うん。…ありがとう。――でも、悪い。俺、本当に――――本当に、哀しく、ないんだ。ヴィー」
愛称で呼ぶときは、隠し事はしない。本音で話す。その約束通りにしていると伝えるために、自分も相手を愛称で呼んだ。
「だいぶ、わかったつもりになってたんだけどなぁ…やっぱり俺、喜怒哀楽の、"怒"と"哀"だけは、よくわかんねぇみたいだ」
言いながら、シャワーのように降り注ぐ雨の中、天を振り仰ぐ。エルム教において死者が向かうとされる天に向かえなかったであろう母は、一体どこへ向かったのだろうか。
「母さんが何考えてたか、最後までよくわからなかった。俺には、聖人並みの振る舞いを求める癖に、自分は聖女としてあるまじきことを沢山して――結婚して子供作って、一人の男を愛して、特別視して、その死に惑って国民を守る責務を放棄して、最期は自分で命を絶って。……なんだろうな。今、俺の中にあるこの感情が、何て言う感情なのか、正直よくわかってない。でも、怒りとか、悲しみとかじゃない気はするんだ」
ふ、と小さくため息を吐く。
「お前が言う通り、『人』なら、怒ったり哀しんだりするのが正しいんだ、ってわかってる。理解はしてる。きっとこういう時、人は絶望したりして、前に進めなくなったりするんだろう。闇に捕らわれて、動けなくなってしまうんだろう、って知識ではわかってる。だけど、幸か不幸か――俺、そういうに捕らわれないように、っていう教育を、母さん自身の手で施されてきたから、今、本当に、いつもと大して変わらない気持ちなんだ」
そう――なぜなら、自分は、すでに物心ついた時からずっと、闇の中に捕らわれているのだから。
最初からこの場所になじんでいる自分にとって、今更、母が一人いなくなったからと言って、心を痛めるはずがない。
それこそ、万死に値すると母が教えていたことだ。聖人となる者は、そんなことで心を痛めていてはいけない。
血を分けた母が死のうと、父が死のうと――『特別』は誰一人、作ってはいけない。
それが、聖人としてこの世に生を受けた者の責務なのだから。
「お前が心配してくれるのはありがたいよ。お前も、両親を亡くしてるから、気にしてくれてるんだとも思う。本当にありがとな。――でも、悪い。俺、ちょっと、やっぱり『人』とは違うみたいだ」
ふ、と疲れたように笑みを漏らす。カルヴァンは、眉間にしわを寄せて、痛まし気な表情のままリツィードをじっと見つめていた。
安心させるように、柔らかい笑みを返す。慈愛に満ちた――聖人の、笑み。
「強がってるとかじゃ、ないんだ。家族と、他人との違いが、よくわからないんだ。俺にとっては、誰もが等しく――平等で。みんなが、大事だ。だから、早く、手を打たないと、この国が惑う。――母さんが死んだせいで、多くの人が、惑う。だから――」
そのまま、聖人の笑みで言葉をつづけようとして――
ふ、と喉に言葉がつっかえた。
自分の発した言葉が、自分への問いかけとなって返ってきた。
誰もが平等だ。全員が等しく、平等だ。
(――――――…)
だけど――今、手を握っているこの青年は、どうだろう。
もしも。
もしも、今日の葬儀が、母ではなく――
――この青年のものだったとしたら――
「っ――――!」
ぴくっ…
意識とは隔絶されたところで、反射的に握られた左手が動く。それを自覚し――リツィードは、静かに、絶望した。
「…ツィー…?どうし――」
「――雨、強くなってきたな。このままだと、風邪、ひいちまう」
必死に取り繕う表情は――聖人の仮面を、きちんと被れていただろうか。
「早く帰ろう。――カルヴァン」
「――――……」
自分が、どんな表情をしていたのか、今となってはわからない。
カルヴァンは、ぎゅっと眉間に皺を寄せ――ふ…と静かに、握っていた手を、離した。
チチチ…
「――――――…」
眩しい陽の光と鳥の鳴き声で、ゆっくりと意識が覚醒する。
(夢――…)
随分とまた、懐かしい夢を見たものだ。――あまり、気分が良い内容ではなかったが。
ゆっくりと瞼を押し開き、ひとつ、ふたつ、みっつ、と瞬きを繰り返す。意識の覚醒と共に、ふわりと鼻腔をくすぐる心地よい香りが自分をすっぽりと包み込んでいるのを自覚した。
(――――落ち着く…)
イリッツァは、瞬いた瞳をもう一度閉じて、我知らず甘えるように、目の前にあった厚い胸板に額を預けた。視界が閉ざされた分、嗅覚が鋭くなるのか、息を吸い込むと、この一年弱で嗅ぎなれた親友兼婚約者の不思議な香りが肺を静かに満たしていく。
「……ツィー…?」
「あ、ごめん、起こした?」
もぞ、と胸板の主が身じろぎをする。眠りが浅いせいで、昔からほんの少しの空気の動きや物音で意識を覚醒させるのは変わっていないようだ。最近はずいぶんと休みを取ってくれるようになったとはいえ、激務であることに変わりはないカルヴァンの眠りを妨げてしまったか、と慌てて謝ると、ふぁ、とカルヴァンは気にした様子もなくあくびを漏らした。
「朝か…」
「うん。もう少し寝ててもいいぞ。――俺も、もう少し、こうしてる」
すり、と甘えるように体を寄せられて、ぱちぱち、と半分眠気をはらんだ灰褐色が瞬いた。
「どうした。今日はやけに甘えてくるな」
「なっ…!?」
「やっと音読してくれる気になったか?」
「なななななるわけねーだろ阿呆か!」
すり寄った身体を慌てて引きはがそうとするも、にやり、と笑んだ顔はこれ以上なく上機嫌な様子でしっかりとイリッツァの身体を抱き寄せてそれをさせない。
「てゆーかっ…おま、お前が、あんな手紙のこと思い出させるからっ…変な夢見ただろっ!」
「夢?」
「っ…十五年前の、夢っ…手紙、書いたころの……っ、胸糞悪い…!」
「へぇ」
ぐっと顔をしかめて八つ当たりすると、カルヴァンは少しだけ瞳を伏せてから、にやりと口を開く。
「その、『胸糞悪い夢』を見たから、こうして俺に甘えてくれてるのか?」
「っ――――――!」
図星を差されて、かぁっ…と一瞬で羞恥に頬が灼熱に染められる。くっ、とカルヴァンは喉奥で笑いをかみ殺した。
「なるほど。…俺の嫁は、朝から随分とサービス精神が旺盛らしい。言葉の代わりに、態度で表してくれるとは」
「~~~~っ…」
「キスしていいか?」
「っ…勝手にしろ…っ…阿呆っ…」
八つ当たりされたにもかかわらず上機嫌な婚約者に乱暴に言い捨てて、イリッツァはぎゅっと瞳を閉じる。どうにもこの女たらしの掌の上で転がされているような感覚が抜けない。
夢の中の雨粒のように、最初はゆっくりと――徐々に熱を帯びていく口づけに翻弄されていくうち、心の奥に残っていた不快な夢の残滓はいつの間にか霧散していくのだった。
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