第18話 素直じゃなくても、可愛い①

 窓の外で、雨が降っていた。

 朝から怪しい空模様で、昼にはいつ零れ落ちてもおかしくなかった。ギリギリまで耐えていたかのようなその雨は――己の感情などめったに表に出すことのない親友の弱音が空気に解けた後、急に空から降ってきた。

 まるで――泣き方すら知らない彼の代わりのような空だと思った。

「ん……何…?寒い、んだけど…」

「あぁ。悪い」

 体を起こしてベッドに腰かけたまま、窓の外を眺めていたせいだろうか。隣で、白い肌を晒して眠っていた女が身じろぎをして呻く。暗くて判別できないが、恐らく蝋燭に明かりをともせば、その白い肌には情事の後を連想させる赤い跡が、体中に散っていることだろう。

「今日は、どうしたの…?貴方にしては、珍しい…」

「そうか?」

「ふふ…別れた女のところに来るなんて――酷い男」

 体ごとこちらを向いた女が、妖艶な笑みで含みを持たせた言葉を吐く。

「別れた男を引き入れる悪い女の言葉とは思えないな」

 ニヤリと笑って言うと、くすくすと女の控えめな声が聞こえた。

「結婚前の最後の火遊びよ。――そういうのが、好きなんでしょう?」

「間違いないな」

 わかりやすく色香を漂わす視線を寄越されて、挑発に乗るように軽口を叩きながら覆いかぶさるようにして、口元に黒子を湛えた蠱惑的な朱唇を塞ぐ。

 この女とは、珍しく長く続いたが、最初は割り切った気楽な関係だったというのに、最後の方は何やら面倒な空気を感じたためにあっさりと別れを告げた。その後、結婚の話が持ち上がったと聞いて、そういえばもう二十歳間際の女だったことを思い出した。少しずつ周りからプレッシャーを掛けられる年齢だ。カルヴァンとの煮え切らない関係に、最後の方は我慢が出来なくなったのだろう。"本気"を感じさせるような空気を敏感に感じ取ったカルヴァンは、無情に、あっさりと縁を切った。

 その手の女ともう一度寝ることは基本的にしない。まして、今の彼女は婚約者のいる身だ。倫理観のぶっ壊れているカルヴァンは、人妻だろうと下半身が反応するなら関係なく据え膳はいただく主義だが、あくまで相手が"本気"にならないことが前提だ。相手が本気を匂わせてきたからこそ別れたというのに、その後にもう一度関係を持つなど、まだ見込みがあるのではと思わせて面倒になる可能性が高い。

 だから、今日はかなり珍しい。

(タイミングが悪かったな――…聖女の葬儀ってのは厄介だ)

 肉厚の唇を貪りながら、頭の隅で考える。

 国葬となった聖女の葬儀の日、基本的にすべての国民は仕事を休みにして死者を弔う。最近付き合っていた女たちは、未成年は同居している親が居ついているだろうし、人妻は旦那が帰ってきている。まして、この雨だ。葬儀も終わった夜に、外に出掛けようという奇特な人間はいないだろう。いきなり押しかけたずぶぬれの男を部屋に上げて、あまつさえ情事にふけるなどということを許してもらえるとは思えない。

 最近関係を持っていた女の中で、こういう時に駆けこめそうな心当たりだった一人暮らしの未亡人の女は、最近再婚が決まったと言って、先日向こうから別れを切り出されたばかりだ。関係ない、と言って押しかければ情に流されて部屋に上げてくれたかもしれないが、比較的信心深い彼女が、聖女の葬儀の後にそうしたことに付き合ってくれるかどうかは怪しい。まして、一夫一婦制を重んじるエルム教だ。婚約したくらいで別れを切り出す彼女の倫理観からは、面倒事の匂いが香って情事に集中できないだろう。

 ならば大人しく諦めて帰ればいいのだろうが――今日のカルヴァンは、どうしてもそんな気持ちになれなかった。

(こうしているときは――何も、考えなくて済む)

 吸いつくような肌の何とも言えない心地よい感触を楽しみながら、自分の下で淫らに体をよじらせる女を眺める。

 カルヴァンが女を抱く理由は単純だ。

 性欲が溜まっているとき。金欠のとき。

 そして――頭を空っぽにして、現実逃避をしたいとき。

 人間の三大欲求のうちの一つはさすがだ。情事の最中に、余計なことを考える暇はない。本能のままに女の身体を貪れば、その瞬間だけは、ただ快楽のことだけを考えていればいい。

「何度抱いても、お前の肌は最高だな。――相変わらず、抱き心地がいい」

「――――」

 情事の最中に睦言を囁けば、女が一瞬目を瞬き――ふ、とその瞳を眇めた。

「酷い男。――こっぴどく振った癖に、そういうこと言うのね」

「くく……女を抱くときに、嘘は言わない主義だ。世辞じゃない」

 嘘を吐くと、後々面倒だ。複数人と同時進行など当たり前のカルヴァンにとって、面倒な修羅場につながりうるリスクヘッジは重要だった。一見自由奔放にしか見えない彼の中にも、それなりにルールがある。

 ひとつ、必ず本気にならないと合意の上で関係を始めること。ひとつ、嘘は言わないこと。

 ひとつ――相手の名前は不用意に呼ばないこと。

「知ってるわ。――どうせ、私の名前も呼んでくれないんでしょう?」

「よくわかってるじゃないか」

 にやり、と笑って嘯く。

 嘘を吐けば、誰にどんな嘘を吐いたか覚えていなければいけない。どこでほころびが出るかわからないそんなリスクを犯すつもりはなかった。

 名前を呼べば、うっかり間違えた時に面倒くさい。一夜限りの女も沢山いる中で、いちいち覚えていられないというのも本音だ。気分が最高潮に盛り上がったタイミングで水を差されたと女が拗ねたりすれば最悪だ。ならば、全員を等しく呼ばなければ問題はない。

「――ねぇ」

「なんだ。今日は随分とおしゃべりだな」

 二回戦目の情事に気乗りしないのか、やたらと話しかけてくる女に眉をはね上げて少し不愉快を顕わに口を開く。しかし、目の前の女は気にした風もなく、くす、と笑った。

「だって、終わったら貴方、お喋りなんてしてくれないもの」

「男ってのはそういうもんだ。知ってるだろう?」

「えぇ、知ってるわ。だから、おねだりは最中にするの」

 褒められた触り心地の良い吸いつくような肌を誇示するように足を艶っぽく絡めながら、勝手知ったる様で悪女は甘ったるい声を出す。

「ね。――――名前、呼んでよ」

 ぴくり、とカルヴァンの眉が動く。それは明らかな『不愉快』を示す表情。

 しかし、口元に色っぽい黒子を湛えた官能的な美女は、意に介した様子もなく、するり、とさらに足を絡めて覆いかぶさるカルヴァンの首に腕を回してねっとりと囁いた。

「いいでしょう?――行く当て宛に困ってた坊やを拾ってあげたお姉さんに感謝して?」

「なるほど…?」

 面倒そうに目を眇めながら呻く。意図せず弱みを握られた形になったようだ。

 ザァ――と窓の外で、雨の音が聞こえている。

 親友が、意図せずふっとこぼしてくれた珍しい弱音を、上手く拾い上げることも出来ず――"哀しい"も"寂しい"も吐露させることも出来ず。挙句、今日は彼の大好きな神様とやらに、慰めてもらうらしい。

 どうにもできない酷い無力感に打ち拉がれ、自暴自棄になって別れたのが一刻程前。濡れそぼった自分を受け入れてくれるであろう女の顔を頭の中で検索しながら、面倒事を覚悟して未亡人の下に転がり込むか悩んで大通りの角を曲がった時に――家の裏口から出てきたこの女と、たまたま鉢合わせた。

 未亡人の許へ行っても、面倒事になるリスクは同じだ。一瞬迷ったが――女は、別れる前と変わりない蠱惑的な笑みでわかりやすく誘惑してきた。

 普段なら乗らないその誘いに乗ったのは――誰でもいいから、早くこの無力感を消してほしいと思ったからだろう。

「ふ…わかった。良いだろう。今日だけ、特別だぞ」

 自分のルールを押し通すことよりも、この女に貸し借りを作る方が面倒だと判断し、カルヴァンは頬を歪めて笑う。目の前から発せられた濃密な色香につられるように、黒子を湛えた目の前の口元がつぃ――と持ち上がった。

「ふふ…素敵。…ねぇ、私の名前、ちゃんと覚えてる?」

「さぁ。どうだったか…教えてくれるんだろう?」

 耳元に熱を持たせた息を戯れに吹きかけるようにして囁くと、女の声が一際甘ったるくなった。言いなりになるように素直に名前を口にした女を前に、やっと今夜の主導権を握れた感触を得て、カルヴァンはにやりと口の端を吊り上げた。

(あぁ――簡単で、いい)

 こうしている間は、あの赤銅色の髪をした天使が浮かべる完璧な笑顔を思い出さなくて済む。

 灰色の墓標の前で佇み、ポツリと漏らされた空虚な声音を――思い出さずに、済む。

「特別な夜にしてやる。だから――お前も、楽しませてくれよ――?」

 こんなのは、遊びだ。互いに割り切った、大人の遊戯でしかない。

 カルヴァンは、女の声と同じくらい甘ったるい肌に唇を寄せて、十五の少年とは思えぬ色香を漂わせた声音で、教えられた女の名前を口にする。



「――――――」


 

 そう、それは――夜が明ければ霧散する、うたかたの夢――



 ふ…と重たい瞼を開くと、この一年弱でやっと見慣れた天井が目に入った。

(――天井…?)

 まだ寝起きで、意識と肉体とがうまくつながっていないのか、ぼんやりともやがかかったかのような違和感にゆっくりと思考をめぐらす。

 寝起きで天井を見るのは珍しい。いつもは――そう、いつも、最初に目に入るのは、絹のような手触りが堪らない、美しい銀髪だ。

「――――…先に起きたのか…」

 やっと意識と肉体が繋がったらしい。くぁ、とあくびを漏らしながら独り言を漏らして体をゆっくりと起こす。耳を澄ますと、リビングの方から物音が聞こえる。どうやら、愛しい婚約者は先に起きてカルヴァンを寝台に残したまま布団を抜け出したようだ。

 眠りが浅い自分に気づかれずに抜け出すとは、今日は珍しく眠りが深かったのか、イリッツァの気配の消し方がずば抜けているのかどちらだろうか。考えても答えのないことをぼんやり考えながら、カルヴァンも寝台を抜け出す。

 女と一緒に夜を過ごしたことは数えきれないくらいあるが、毎晩イリッツァにするようにその腕に抱き込んで寝たことなど、たどれる限りの記憶の中には一度もない。

(単純に、寝辛いしな)

 自由に寝返りの一つも打てないその体勢を、夜を共にした女にしてやったことはなかった。そもそも、事が終わればさっさと身支度を整えて、夜明け前に帰ることの方が多かったように思う。翌日に兵士としての仕事が控えていることが多かったというのも理由の一つだが――することをして用済みになった女と無為に時間を過ごすメリットがない、というのが主な理由だった。金目当てで抱いた日は、朝までいれば金払いが良くなる可能性が高くなるので例外だったが、それでも抱きしめて眠るなどということはもちろん、腕枕の一つもしてやった記憶はない。そもそもが眠りの浅いカルヴァンだ。女が身じろぎ一つするだけですぐに目が覚めるというのに、抱きかかえてなどいたら、そもそも眠りにつくことすら難しい。

 たかが女ごときに貴重な睡眠を妨げられてたまるか――と、当時から慢性的な寝不足を抱えるカルヴァンは、本気で思っていた。リツィードやイリッツァが『女の敵』と言って憚らないのも無理はない。

(人間ってのは変わるもんだな)

 己のクローゼットを開けて着替えを取り出しながら、ふ、と口の端に苦笑を刻む。

 イリッツァと寝台に入るときは、その小柄な身体を抱きしめていないともはや落ち着かない。どうにも思い通りにならない女だ。そうして抱きしめていても、あっさりするりと抜け出して、独りでどこかに行ってしまうのではという不安すらある。今日のような物理的な話ではなく――十五年前、たった独り、カルヴァンを漆黒の闇の中に叩き落としてこの世からふっと消えてしまったトラウマだ。

(朝起きて、腕の中にいないことに不安を覚えるとはな…)

 抱きしめているうちは、確かにそこにいると実感できる。もし、何かの危険が迫っても、どんなことからも守ることが出来る。その安心感が、安眠を誘う。抱きしめていないと、きっともう、不安で眠れないだろう。

「抱き心地もいいしな…あいつよりも肌になじむ女がいるとは思わなかった」

 くっと喉の奥で笑って独り言ちる。着替えに手を通しながらふと窓の外を見れば、キラキラと陽光が差し込んでいた。

(雨、上がったのか)

 昨夜、寝る前には秋の長雨が鼓膜を叩いていたことを覚えている。――そのせいで、あまり愉快ではない夢を見た気がしていた。

 夢に出てきた女は、今まで抱いた中で一番肌の相性が良かったことを覚えている。髪が綺麗だった女、キスがうまかった女、手が綺麗だった女――色々いたが、肌の触り心地が一番よかったのがあの女だ。肉感的で、色気の塊といった余裕のある年上の魅力も悪くなかった。珍しく長続きしただけのことはある。――正直、ついさっき夢で教えてもらったはずの名前は、すでに憶えていないが。

 だが、イリッツァはその女の肌の相性を軽く超えてきた。服越しでしか抱き合ったことがないというのに、いつまでも離し難いとはどういうことか。裸で抱き合ったらどうなるのか、今からお預けされている一年後が心から待ち遠しくてたまらない。

(まぁ…いいのは肌の相性だけじゃなさそうだけどな…)

 何せ、外見に関しては、カルヴァンにとってパーフェクトなのだ。キスの相性も、ふとした時の反応も、すべてがカルヴァンの雄としてのツボをしっかりと抑えて来るイリッツァは、間違いなく歴代のそれぞれの分野の女たちをすべての点で凌駕しているだろう。

(これが惚れた弱みってやつか?)

 欲目だか贔屓目だか知らないが、間違いなく実物の良さに自分の感情が拍車をかけていることはわかっていた。この一年弱で、女嫌いの英雄が人が変わったように婚約者を溺愛している、と世間を驚かせるゴシップが駆け巡っていることは知っているが、事実なので特に気に留めたことはない。

「さて…家事が苦手なあいつは、今日は何を作ってくれているんだ?」

 そんな欠点すら愛しいと思う自分は、なかなか重症だ。

 そう思いながら、何やら旨そうな臭いが漂ってくる部屋へと続く扉を開けたのだった。



「くく…これはまた、豪快に焦がしたな」

 予想通り早起きして朝食を作ってくれていたらしいイリッツァが並べてくれた皿を前に、カルヴァンは愉快そうに笑いを漏らす。白い皿の上には、こんがりと焦げたオムレツにしようとしたらしき卵が乗っている。

「もう…いいよ、食わなくて。スープはちゃんと出来たから、スープとパンとベーコンだけ食っとけ」

 ぶ、とむくれたように言いながら、イリッツァは手早く朝の祈りを済ませる。くく、ともう一度笑みを漏らして、カルヴァンは何も言わずに卵に手を伸ばした。

 当たり前のように甘やかしてくる婚約者に苦い顔をしてイリッツァは呻くように口を開いた。

「――お前さ」

「ん?」

「――――俺の、どこが好きなの?」

「は?」

 ぱちり、と灰褐色の瞳が瞬く。いきなり何の話かとイリッツァの顔を見返すが、半眼の少女は、呆れてはいるようだが冗談を言っている様子ではない。

「いや、だって…改めて考えると、正直、本当にお前に惚れられる要素が分かんない…」

「そうか?」

「料理も掃除も洗濯も、何とかやってるって感じだし。もっと上手な女いっぱいいるじゃん」

「まぁ、別に、そんなの女に求めてないからな。お前にやってほしいとも思ってない。人を雇ってもいいし、面倒なら溜めておけば帰ってきてから俺がやる。昔は全部俺がやってただろう。手間は変わらん」

「いやさすがに今の状況じゃ俺がやるけど」

 十五年前ならいざ知らず、圧倒的にイリッツァよりも激務のカルヴァンにそこまでさせるのはさすがに気が引ける。どこまでも激甘仕様の婚約者に、イリッツァはさらに困惑した。

「ほんと、そこまでしてもらう理由が分からない。…お前、女に何求めてるの?」

「…求める…って言ってもな」

「体の関係も――俺は、少なくともあと一年ちょっとは、応えられるわけじゃないし」

「いやそれはいつでも応えてくれて構わないぞ。すごく求めてる。今すぐにでも。そのためならソッコーで仕事休む」

「応えられるわけじゃないし!!!!」

 ぶれない幼馴染に、頬を赤く染めながら強めに念を押す。少し油断するとすぐこれだ。

「若い嫁さんもらって――とか言えば聞こえはいいかもしれないけど、十五だぞ。お前からしたらガキじゃん。昔、自分の年齢の半分しかないガキに欲情するほど暇じゃないって言ってたし」

「そんなこと言ったか?」

「言ってた。それにお前、昔から付き合ってるの、色気むんむんのいかにもって言うような女とか、年上の女が多かったじゃん。もちろん同年齢もいたけどさ」

「まぁ――当時は俺が十五だからな。あまり年下ってなると、本気でロリコンになりかねない」

「ぅ…まぁ確かに」

 カルヴァンが求めていたのは端的に言えばただの性交渉の相手だ。割り切った付き合いが出来て、夜をお互い楽しく過ごせる相手――となれば、若ければ若いほど数は少なくなる。必然的に同年代から年上が多くなっていくのは仕方がない。また、遊びとして付き合うということは、相手もカルヴァン以外を相手にしている可能性が高い。男を誘うような恰好や仕草を当たり前にする女が多くなるのも道理だった。

(そういえば、夢に出てきた女もまさにそういう女だったな…)

 ぼんやりとすでに記憶のかなたで靄に掛かったようになっている女の姿を思い出す。口元の黒子が色っぽい、胸の大きな肉感的な女だった。

「…俺、女としての魅力はないと思う…」

「お前、鏡見て物を言え……絶世の美女だろ、どう見ても…」

 俯いてつぶやくイリッツァに呆れた声を返す。彼女以上の美女など、世界を探すほうが難しい。少なくとも、カルヴァンにとっては世界一の美女だ。確かにやや幼いかもしれないが、もうあと一、二年もすれば一気に垢ぬけて、昔のフィリアのように視線ひとつで男を恋の沼に落としまくるに違いない。

(いや、表情が豊かな分、あの女よりも質が悪いな…)

 聖女としての仮面のような張り付けた笑顔以外は、常に無表情で冷ややかな氷の人形を思わせていたあの雪女と違い、くるくると変化する表情で周囲を魅了するイリッツァは、それはそれはたくさんの男たちを道ならぬ恋に叩き落としていくことだろう。早く結婚の約束を取り付けておいて本当によかった、とカルヴァンはほっと安堵の息を吐く。

「でも、男って、胸のでかい女とか好きなんだろ?――俺が男だった時は、女の人をそういう対象として見ること自体がなかったからあんまりピンとこないけど」

「…お前、思春期真っ盛りのあの頃でどうしてそんな無欲でいられたんだ…」

 本当に神の化身なのかもしれない、と信じられない気持ちで呻く。もはや下半身の方が主人格だったのでは思うほど色狂いと言われる行動を繰り返していた自分と同じ人間とは思えない発言だ。

「…胸、なぁ……考えたこともなかったけど。昔のお前と一緒にいた女たちと比べると、小さい気がする」

 じ、と自分の胸のあたりを見つめてつぶやくイリッツァに、くっとカルヴァンは笑いを漏らす。

「心配するな、昔言っただろう。十五にしたら悪くない発育だ」

「っ――!」

「この一年で少しはでかくなってるしな。将来が楽しみだ」

「はぁ!?ちょっ――な、なんでそんな――!」

「毎日抱きしめて寝てるんだぞ。気づかないわけないだろ」

「~~~~~っ!」

「あぁ、大きさを気にするなら下着はちゃんとサイズに合ったものに新調しておけ。今のじゃ小さいだろう」

「お、おまっ……そ、そこまで来ると怖いんだけど!!!!???」

 羞恥で染まった赤い顔をさっと青ざめさせてイリッツァは叫ぶ。王都一の女たらしと呼ばれた男を嘗めていた。まさか、ここまでとは。

「くく…どうしても気になるなら、手伝ってやろうか。揉んだり吸っ――」

「はいはいさっさと食え!!!!!!」

 手元のパンを掴んで無理矢理カルヴァンの口に押し込んで、朝っぱらから際限なく放たれる卑猥な言葉を物理的に防ぐ。

「……人の扱いが、あの暗殺者に似てきたな」

「あぁそうだろうな、ディーには感謝してるよ、ほんと」

 押し付けられたパンを咀嚼して憮然と呻く婚約者に憎まれ口をたたきながら、自分もスープに口をつける。

 帝国でクーデターの準備が着々と進む中、ランディアはよく王国へと足を延ばしていた。帝国のクーデターを喜ぶ王国内の人間は一定数居る。信頼できる人物を選出し、協力者とさせていくには、間者のランディアはうってつけだった。定期的に王国を訪れる際、律儀に必ずイリッツァの許へと訪れるため、この一年弱ほど、なんだかんだよく顔を合わせている。

「ちょうどいい。今度あいつが来たら、下着の新調に付き合ってもらえ」

「へっ!!?」

「あいつ、最近女の格好して来るだろう。店に連れてっても違和感ない」

「い、いや…そ、そうかもだけど――」

「どうせお前ひとりだと、いつまでたっても店に行かないだろうからな」

「ぅ゛っ……」

 何でもお見通しの幼馴染の観察眼の鋭さに舌を巻く。

(だ、だって…は、恥ずかしい……)

 転生して記憶が戻ったとき、一番最初に抵抗があったのは、女物の下着を身に着けねばならないことだった。だいぶ慣れたとはいえ、女物の下着がずらっと並んだ店に入って買い物をすることはやはり気恥ずかしさが勝つ。ナイードにいたころは、先輩修道女のラナが色々と教えてくれて、一緒に買い物に行ってくれたりおさがりをくれたりしたが、王都に来てからはなかなかそんな機会がない。聖女の立場を思えば、王立教会にいる修道女の誰かに声を掛ければ調達してくれるのだろうが、仕事とは関係ないそんなことを頼むのは少し気が引けた。

 結果、最近少しきついかもしれない、と思いながらもずっと同じ下着を着けていたことを、まさか婚約者に見抜かれていたとは思わなかった。羞恥に頬を染めて、静かに俯く。

「こないだ見たが、あいつの変装すごいな。どこから見ても女だ」

「まぁ…最初、王国に忍び込んでた時も女の格好してたしな…」

 もともとの中性的な顔立ちと体つきだ。化粧と髪型で、ランディアは一瞬で不思議な魅力を放つ美女へと変貌を遂げる。万が一帝国の間者だとばれたとしても、雇い主や彼にまつわるすべてが露見しないようにする術なのだろう。

「…ああいうのは、どうなんだ?」

「?…何がだ?」

「いや…ディーみたいな、中性的な美女、みたいな――」

「なんだ。今日はやけに突っかかるな」

 スープを飲んでいたスプーンを置いて、半眼でカルヴァンがイリッツァを見る。ぐっとイリッツァは息を詰めて視線を落とした。その視線の先には、焦げたオムレツがある。

「卵焦がしたくらいでそこまで卑屈になるな」

「いや…卑屈になってるわけじゃ――」

「言っただろう。天地がひっくり返ってもお前を嫌いになることなんかないし、お前の外見は俺のタイプだ。ど真ん中だ。最高に可愛いと思っている。よく転生してその外見に生まれてきてくれたと、こればかりは神とやらに感謝してもいい」

「ぅ……」

「まぁ、普通の女だったら確かにガキすぎて対象外だが。――お前とは、年齢とか、なんなら性別とか、そういうのを超越した関係だしな」

 もし普通の女だったら、などいう話を持ち出すなら、そもそもカルヴァンは結婚してもいいと思えるような女を作らない。さらに言えば、聖職者でもあり、男と遊び慣れているわけでもないイリッツァは年齢だの外見的特徴だの関係なく、そもそも最初から対象外だ。

 ここまで溺愛するほど惚れこんでいるのは、"イリッツァだから"だということに、いつになったらこの婚約者は気づくのだろうか。

「まぁ、女としての自覚を持ってくれる分には歓迎する。せいぜい色っぽくなってくれ」

 さらり、と銀髪を撫でてにやりと笑う。イリッツァは少しむくれて視線を逸らした。彼女の趣味である鍛錬を減らしてほしいと常々言われているくらいだ。カルヴァンの言外の要求にむくれているのだろう。

「ゆっくりしすぎたな。――そろそろ出る」

 食べ終えた皿を下げて、支度を整え玄関へと向かうカルヴァンを、あわててイリッツァが追いかける。律儀に見送りに出てきてくれた婚約者を上機嫌で振り返り、カルヴァンは頬を歪めて満足そうに笑った。

「心配しなくても、今日も可愛いぞ」

「ぅ…うるせー…」

「くくっ…下着を新調したらぜひ見せてくれ。身につけた状態で」

「ふざっっっけんな!!!!やるわけねぇだろ阿呆か!!!!!さっさと仕事行け!!!」

 狼の前に無防備な子羊を用意するほど馬鹿ではない。

 カッと頬を赤く染めた婚約者にふっと笑った後、手触りを楽しむように銀髪を撫でてから額に軽く口づけを落とし、カルヴァンはいつものように家を出て行ったのだった。

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