第11話 女の自覚が足りなくても、可愛い②

「――…お前…これだけはやるなって言っただろう…」

「お、おまっ…おま、お前がっ…お前がっ…!!!!」

 『強制賢者タイム』を発動させられたカルヴァンは、理性が戻った灰褐色の瞳を半眼にして、キスをしていた距離から恨めし気に低く呻くが、目の前のイリッツァは蒼い顔で反省どころか涙を浮かべて全力で非難の色を表していた。必死に胸の前にシャツを掻き寄せて訴える声は、震え切ってまともな抗議の言葉すら紡げない。バクバクと全力疾走をしている心臓は、羞恥でもときめきでもなく、まぎれもなくただの恐怖だ。

 チッと苛立たし気に大きく舌打ちして、イリッツァの右腕も解放してごろんとベッドに投げやりに横になる。イリッツァはその隙に、慌てたようにサササッと外された釦を留めた。あの一瞬で、手元も見ていなかったはずなのに全ての釦が外されていたのは、手品か何かなのか。早業過ぎて本気でカラクリが分からない。

「な、なん――なんで、きゅ、急にっ…!」

「あー。うるさいうるさい」

 震える声で言われて、カルヴァンが苛立たし気に額に手の甲を押し当てながら、投げやりな声で呻く。賢者タイム真っ最中に女の非難めいた泣き声は煩わしい。その対応で、さらに女が泣くことが分かっていたとしても、だ。

 案の定、イリッツァは酷く傷ついた顔をして息を飲んで黙った。ぐっと息を詰めた代わりに、薄青の瞳に薄い涙の膜が張っていく。

(あー…最高に可愛い顔のはずなのに、本当に何とも思わない…)

 魔法による強制的な鎮静効果はすさまじい。よほど混乱していたのか、おそらく前回かけられた時よりも、今回の方が圧倒的に強力に魔法をかけられている。煩わしい、という感情はあるが、さっきまでは抑えることが出来なかった性衝動も突き抜けるほどの怒りの感情も――可愛い泣き顔を前に溢れてくるはずの愛しさも、全く何も感じない。

 声もなく涙を流す女と、賢者タイムもどきで凪いだ感情を持て余す男による沈黙は、もう十五年以上も前に経験したきりだ。

(別れ際の女かよ…)

 こっぴどく女を振った時に似た沈黙に、カルヴァンは深くため息を吐く。その昔、嫌というほど経験したその空気は、懐かしいと思うほど心地の良い記憶ではない。

 十五年前なら、こんな面倒な事態になったら、声も無く涙を残す女を残してさっさと部屋を退散していただろう。それで女が傷つこうが、酷いと罵られようが、そんなことは知ったことではない。遊ばれていたんだと周囲に吹聴されたところで、事実だから訂正しようとも思わない。そもそも、それを承知の上で相手も寝たはずだ。そのあたりは面倒事を避けるために、いつだって最初に了承を取るようにしていた。

 だが――イリッツァは、違う。

(――――面倒くさい…)

 心の中で呻いて、眉間にしわを寄せる。何もかもを投げ出したい気持ちになるが――ちらり、と視線をやった先で一生懸命声を殺しながら涙を堪える少女を見ると、何やら放っておけない気持ちになるから不思議だ。強力に掛けられた鎮静の魔法の影響下ですらこれなのだから、通常時であればきっと愛しくてたまらず口説き文句の一つや二つ囁いてからぎゅっと抱き寄せているだろう。

 カルヴァンが、イリッツァに対してここまで棘のあるあしらい方をしたのは、恐らく記憶にある中で初めてだ。本気の不機嫌で拒絶を表す彼の真意がわからず、今頃頭の中はぐるぐると様々なことが廻っているのだろう。

 下手なことを言えば嫌われる――と、その泣き顔に書いてあるようだった。それを恐れて、言葉を紡げないが、続く沈黙に何かを言わねばと焦り、困り切って涙の膜が張っているのだと予想される。

「――――お前は」

 仕方なく――本当に仕方なく、カルヴァンの方から口を開く。さすがに、相手の方を向いてやるほどの優しさは持てなかったが。

 こんな面倒なこと――絶対に、イリッツァ以外の女にはやらない。

「お前は、俺のものだろう」

「―――――――――へ――?」

「言っておいたはずだ。独占欲を刺激されると、そういう気分になりやすいって」

「い…いや、でも、いつもは――」

「俺だけが特別なんだとわかるポジティブな方向性で刺激されるなら、いくらでも構わない。お子様なお前に合わせて、キスの一つや二つで終わらせてやる。――でも、ネガティブな方向に刺激したのはお前の方だろう」

「ね――…ネガティブ、って…」

 恐る恐る尋ねるイリッツァに、不機嫌そうに顔をしかめる。全く心当たりがないようだ。

「男ってのは基本的に狩猟本能があるから、逃げられれば追いかける」

「え…ぇええ…?」

「自分の手の中にいるうちは可愛がってやれるが、逃げるって言うなら容赦しない。――俺のものじゃないかもしれないと思ったら、力ずくでも俺のものにしたくなる」

「――――…」

 イリッツァは困ったように眉を下げる。――カルヴァンから逃げたなんて、今日一日の行動をどれだけ遡っても、そんな記憶は微塵も存在していない。

 ぐるぐる回る脳内で一生懸命脳内審議を繰り返していると、カルヴァンは面倒くさそうに嘆息した後、ゆっくりと額に乗せていた手をイリッツァへと伸ばす。さらり、と彼がかつて、手触りが好きだと告げた銀髪にその指が触れた。

「頭のてっぺんから足の先、髪の毛一本まで、お前は全部俺のものだ。――他の男にくれてやる筋合いなんかあるか」

「く、くれてやる…って…別に、そんな――」

「なんで他の男は良くて、俺はダメなんだ。余計に意味が分からん」

「へ?」

「『減るもんじゃない』んだろう?――俺が服を脱がしたところで、抵抗される筋合いはない」

 ボッとイリッツァの頬に火が灯る。

 他の男には惜しげもなく肌をさらし、減るもんじゃないなどと言って相手に神罰がくだらないか、などとのんきな発言をしておきながら、カルヴァンに押し倒されてシャツのボタンを外されて全力で抵抗したことを不機嫌に思っているのだろう。カルヴァンよりも他の男の方を優遇したと捉えられたのかもしれない。

 イリッツァはやっとカルヴァンの独占欲をネガティブな方向に刺激した、の意味を把握した。

「へっ――へへへへ、減る!!!!」

「あっそ。――――じゃあ、二度とやるな。俺にも、俺以外の男にも、全員等しく」

 ぎゅっとすでに釦を上まで閉められているはずのシャツの胸元を、再度その上からしっかり握りしめて慌てて叫んだイリッツァに、不機嫌そうに鼻を鳴らして触れていた髪から手を離す。

「俺だけを優遇できないなら、せめて、全員平等にしろ。俺だけ許されないとか、我慢できるか、阿呆」

 三十路にもなって独占欲を酷く拗らせた男は、その精神構造がやたらと複雑だ。

「あと、何度も言うが、これはもう二度とやるな。――性衝動も怒りも強制的に抑えられる代わりに、お前への情も一緒に全部抑えつけられる。そこらの女にするのと変わらない扱いをされたくないなら、二度とするな」

「っ――…」

 カルヴァンの瞳が、雪空の寒々しい光を湛え、イリッツァはぐっと息を詰めた。おそらく、彼の言葉に偽りはないだろう。抱いた後に興味を失くした女への扱いと、先ほどのイリッツァへの冷たい態度は、等しい。

 普段の振る舞いからは全く感じられないが、実は根底では、カルヴァンよりもよほどイリッツァの方が独占欲が強いことを、カルヴァンは知っている。――他の女と同じ扱い、などというのは、きっと、彼女には耐えられないだろう。優遇されないならせめて全員平等であれば譲歩する、というカルヴァンの方が、よっぽど聞き分けがいい。

「ったく、本当に気分悪いな、この魔法。感情の起伏が平坦すぎて、気持ち悪い」

「す…すぐ、なくなると思う…今日は、思わず、強力にかけたから――」

「だろうな。前かけられた時より数倍気分が悪い」

 魔法の威力と持続効果は、反比例するのが常識だ。威力に振り切ったのであれば、持続時間はイリッツァの言う通り短いのだろう。カルヴァンは体を起こして額を覆い、ため息を吐く。

「さっさと着替えろ。魔法の効果が続いてるうちなら、お前も安心だろ」

「あ――う、うん…」

 体を起こしたカルヴァンの脇をすり抜けるようにベッドから抜け出し、イリッツァは記憶の中にあるクローゼットだった扉を開けた。そこには、十五年前、リツィードが最期にこの部屋を出た時と変わらない並びで、衣服がきちんと収納されていた。

「絶対捨てられてると思ってた…」

「宗教色のある私物は全部押収されてるぞ。お前が後生大事にしてた聖印とか、聖典とか。――全部、王立博物館あたりに展示されてるんじゃないか?」

「ぅへぇ…なんだそれ…別に、何か特別なもんでもなかったと思うけど」

「知らん。ありがたがって職員どもが根こそぎ調べていきやがった。だが、あいつらは剣士のお前には興味がなかったらしい。――兵士としての私物は全部残ってる。服も、剣も、剣の手入れの道具も」

 言われてイリッツァは苦笑する。世の中に残っているのは、聖人リツィードだけだ。この国の中で剣士リツィード・ガエルを覚えているのは、目の前の男くらいなのではないだろうか。

 いくつか服をひっぱり出しては胸元の空き具合とサイズを確認してクローゼットへと戻す、を繰り返す。あれだけこっぴどく怒りを露わにされた後だ。さすがに空気を読んで、可能な限り体の線が出ず、肌を露出しない服を選ぶ必要があるだろう。

「でもさすがに、部屋替えとかなかったのか?騎士になるときとか――っていうか第一、騎士団長は特別仮眠室割り当てられるだろ」

 衣服の選別をしながら、かつての父を思い出して尋ねる。騎士団長に就任した者は、たいていその就任を祝って補助金が出るので、王都内に屋敷を建てる。大貴族同等の地位を持つにふさわしい生活を、ということなのだろう。それまでは兵舎に住み込んでいたとしても、就任と同時に兵舎の部屋を出る。とはいえ、多忙を極める騎士団長業務で、泊まり込みの日も必ず生じるため、そういうときのために、執務室に併設された騎士団長専用の特別仮眠室があったはずだ。おかげでバルドも、同棲開始直後のカルヴァンに負けず劣らず、殆ど屋敷に帰ってくることがなかった男だった。

「まぁ…そこは色々、全力で表も裏も手を回した。――この国で、剣士だったお前の記憶を思い出せるのは、この部屋しかなかったからな」

「――――――――」

 左耳を掻きながら、魔法の効果の名残か平坦な声で当たり前のように告げられた言葉に、一瞬声を失う。

 イリッツァがやってくるまで、カルヴァンは今の屋敷にほとんど寄り付かなかったと聞いている。

(――この部屋で、暮らしてたのか。十五年――ずっと)

 イリッツァ自身が見ても、当時のままだと感じる部屋だ。目にするだけで様々な思い出が、強制的に思い起こされるこの部屋で――この親友は、十五年、何を思いながら、毎日ここで寝起きしたのだろう。

「――…お前って、本当、意外と愛が重いよな」

「知ってるなら無駄に嫉妬を煽るような行動は慎んでもらいたいものだな。独占欲は加速するって伝えてあっただろう」

 十五年間の親友の心情を思ってぐっと熱いものがこみ上げそうになるのを堪えて、イリッツァは軽口を叩く。その言葉を、先ほどの行為に対しての皮肉と受け取ったのか、嘆息して返ってくる言葉は少し平坦になった、いつもの声音。

 イリッツァは相手にわからないように微かに微笑んだ後、目当てのシャツを取り出した。

「着替えるから向こう向いてろ」

「――大丈夫だ。今なら目の前で着替えられても下半身はピクリともしない」

「そういう問題じゃねーだろ」

 ひくり、と頬を引きつらせると、カルヴァンは軽く肩をすくめて、大人しくベッドの下段に横になってイリッツァへと背を向けた。しっかりとそれを見届けてから、念には念を入れて、イリッツァもカルヴァンに背を向けて、胸を隠すようにしてシャツの釦を外していく。

(――――すごいな。本当に、下半身が一切反応しない)

 シュルシュルと色っぽい衣擦れの音が静かな室内に響いていくのを、確かに鼓膜が拾っているはずなのに、全く反応する気配のない下半身に絶望に近い感情を抱く。普通ここは、期待感で股間を熱くしながら後ろを振り返りたくなるどころか、振り返って抱きしめて脱がすのを手伝いたくなるくらいの感情を抱くべきところなのでは。

「――そういえば、さっきの話だけど」

 己の分身の存在感のなさにカルヴァンが静かに男としての機能に不安を覚えて絶望を抱いていると、服を脱ぎながらイリッツァが声を上げる。振り返るわけにもいかないので、耳だけを静かに傾けた。

「お前だけ許されないとかなんとか言ってたやつ」

「あぁ――…」

 終わった話を蒸し返されて、軽く左耳を掻く。パサッ…と響いた軽やかな音は、着ていたシャツを床に落とした音だろうか。

「あれ、逆だろ」

「?」

 一瞬振り返りそうになったのをギリギリでとどめる。今振り返ったら、それはそれは激怒されるだろう。

「お前だけが、特別なんだ。――他の男は、どうでもいいから、何されても、俺、気にしない」

「――――…は…?」

 ぽかん、とカルヴァンが呆けた声を出すと、シュルっと再び衣擦れの音が響いた。

「知ってると思うけど――俺の性格の基本は、男だ。精神年齢だけならお前と同じ三十路のオッサンだ。だから、俺の今の外見見て鼻の下伸ばしてるやつら見ると、哀れだなぁって思うし、そんな性欲に振り回されてると神罰下るからほどほどにしとけよ、って思う」

「――…」

「そりゃ、イリッツァになってからずっと、女の聖職者として肌を露出しないようにって生きてきたから、男の頃より抵抗があるのは事実だけど。でも、昔この兵舎で男に塗れて生きていた記憶もあるから、女の肌見て興奮する男が多いのも、知識としてはちゃんとわかってる。――とはいえ、いざ自分がその対象になったからって、ちょっと肌を見られた程度じゃ、危機感とか、羞恥とかはあまり沸かないな。あまり露骨だと嫌悪感は抱くけど。だけどそれは、女としてじゃなくて――元男の記憶があるから、同じ男に迫られてると思うと、自然とそう思うというか。恥ずかしいとか危ないとか、あまり思わない。いざとなったら、物理でも魔法でも、対抗策なんて無数にあるしな」

「……ふぅん…それで?」

「――俺が、肌を見られたくらいで危機感とか羞恥とかを感じるのは、お前だけだよ、ヴィー」

 ぱちぱち、とカルヴァンの灰褐色の瞳が数度瞬く。背後からはまだ、衣擦れの音が響いていた。

「昔、ディーが言ってた。俺が、"女"の顔するのはカルヴァンの前だけだ、って。当時は何だそれ、って思ってたけど、まぁ、そういうことなんじゃないか?」

 可愛くない物言いの声ににじむのは、わずかな羞恥の色。

「――ツィー」

「…なんだよ」

「まだ着替え終わらないのか。――今すぐ抱きしめたい。どんな顔してるのか、すごく興味がある」

「ふざけんな。絶対こっち見んな」

 きっと、耳まで真っ赤に染まっているのだろう。カルヴァンはふ、と吐息で笑みを漏らす。

 ――魔法による鎮静効果が持続しているだろうに、相手を抱きしめたい衝動が芽生えるとは、通常時ではその衝動はどれほどだったのか。

「いいだろ。振り返るぞ」

「わ、馬鹿――」

 衣擦れの音が止まってだいぶ経つ。カルヴァンは相手の制止を聞かずにあっさりと体を起こして振り返った。

「――――あぁ。本当に、この魔法は厄介だな。そんなに脱がせやすそうな据え膳を前にして、下半身が反応しないなんて、本当にありえない」

「っ…!」

 ぴったりと喉元まで釦を占めたとはいえ、やはり男性用のシャツを小柄なイリッツァが身に着ければ、どうしても大きすぎるサイズ感なのは仕方ない。長すぎる裾も袖も、何とか折り曲げるなどで工夫しようとした痕跡が見られるが、ゆるっとしたシルエットは逆に彼女の華奢さを強調してしまっている。全く合っていない肩幅も、緩い首回りも、正常時であれば悪戯したくてたまらない衝動にかられただろう。

 下半身は相変わらずうんともすんとも言わないが、ニヤリと歪む頬は止められない。これは、魔法の効果が薄くなってきたのか、魔法の効果すら上回って上機嫌になっているのか、どちらかもはや判別がつかなかった。

 ほんのりと上機嫌になった心地のまま、イリッツァに近づいて本能に従いその体を軽く抱き寄せると、赤い顔のまま軽く抵抗を示される。

「い、今、汗臭いから、やめろ…」

「そんなことを気にするのも、相手が俺だから、か?」

「っ…言わせんな、阿呆…っ…!」

 揶揄するように尋ねると、真っ赤な顔が返って来た。くく、と喉の奥で笑いが漏れる。独占欲が最大限に満たされて、どうにも気分がいい。

「へ、変なことしたら、また魔法かけるからなっ…!」

「それは本当にやめろ」

 憎まれ口に渋面を作って、男物のシャツに包まれた華奢な体を抱き寄せる。親愛の情を示すように、軽く銀色の頭部に唇を寄せると、イリッツァは恥ずかしそうにしたまま俯いて黙ったのだった。

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