第10話 女の自覚が足りなくても、可愛い①
ぐいぐいと遠慮なく引かれる手を眺めながら、自分より大きなコンパスで進む前方の男の速度に転ばないように注意して必死にイリッツァは足を動かす。目の前を行く婚約者の背中からは、立ち上る怒気が目に見えるようだった。
「…お前、過保護すぎないか?」
「ふざけんな、なんで嫁のサービスショットを不特定多数の男に見せつけなきゃならないんだ。俺だって殆ど見たことないのに」
「そこかよ…」
独占欲の塊らしい婚約者のイライラした発言に、呆れて嘆息した後、ちらりと己の胸元あたりに視線を落とす。
「…言うほど透けてもないだろ」
「甘い。甘すぎる。今にも鼻血出しそうな男が何人もいただろう」
「えぇぇぇ…それはそいつらが鍛錬中に煩悩がありすぎだろ…」
「お前は女に免疫がない連中の頭の中を舐めすぎだ…!」
横顔だけで振り返って吐き捨てる声音に、軽く肩をすくめる。
季節は夏。日差しが照り付ける練兵場。熱心な指導が繰り広げられていた時、ふと練兵場を一緒に眺めていたリアムが口を開いたのだ。
『団長。念のため聞きますが――あれは、止めなくていいんですか?』
『は?』
『俺、眼はいい方なんです。――何人か、集中してない不届き者がいるようですが』
言われて、目を凝らしてリアムが指示した方を見る。
色っぽいうなじを惜しみなくさらしている今日も最高に美しい婚約者は、剣術に触れられていることがうれしいのか、生き生きとした顔をしていた。夏の暑さにも負けず、熱心な指導によって流れるキラキラ輝く汗を軽く指先で握っては、パタパタと時折己の手で風を送るような仕草をしているのも可愛らしい。
何やらもじもじしている新兵がいるのも、その可愛らしさを前にすればまあ仕方がないだろう、と放っておいたのだが――言われて観察してみて、どうやら様子が違うことに気が付く。
リアムが指した先にいる挙動不審な新米騎士は、完全に鼻の下を伸ばした情けない顔で、その視線はイリッツァの胸元あたりに注がれ――
ぶちっ!
カルヴァンの頭の中で、何かが景気よく千切れる音がした瞬間――何も考えず、魔力を解放していた。
『ぅわっっ!!!!?』
にらみつけた先の新兵の目前、突如現れた火柱に、新兵は思わず剣を取り落として驚愕で飛びのく。前髪が焦げているあたり、カルヴァンは新兵が咄嗟に飛びのかなければ本気で火だるまにするつもりだったのではないだろうか。
『団長…気持ちはわかりますがやりすぎです…』
げんなりしたリアムの声が後ろから聞こえたが、無視して尻餅をついた新兵の許へと急ぐ。はぁ、とため息を吐いてからリアムがついてくる気配があった。
大股でずかずかと近寄れば、新兵がどうして不届き行為をしたのか、その理由はすぐにわかった。わかった瞬間、即座に額に太い青筋が数本浮かぶ。
きっと、気温に加えて、熱心な指導で運動したせいで、暑かったのだろう。訓練開始時よりもイリッツァは胸元のシャツの釦を一つ余分に開け放っていた。男を誘うような白さを誇るうなじからキラキラと流れる汗は、白いシャツの背中と胸元あたりをしっとりと濡らし、その肌にぴったりと吸い付くように体のラインを浮だたせていた。
『え…か、カルヴァン…?』
突如立ち上った火柱と、その後急に鬼気迫る顔でやって来た婚約者に、面食らった表情を見せるイリッツァは、自分が周囲の男にどんな風に見られているかなど全く気づいていないのだろう。
その危機感の無さに苛立ちながら舌打ちし、バッと己のシャツを脱ぎ放ち、その体を覆うように隠す。
『へ――?』
疑問符を上げるイリッツァを包むように抱き寄せながら、尻餅をついてやっと状況を冷静に理解したのだろうか、蒼い顔をしている新兵を鬼の形相で睨み付ける。
『お前。――今期の給与査定、覚えておけよ…!』
『団長。職権乱用が過ぎます』
リアムのツッコミもいつもより控えめだ。カルヴァンが本気で怒っていることを察しているからだろう。
鬼の形相のまま、ぐるりと周囲に視線をやると、サッと蒼い顔で数名が目を逸らす。ギリッと不機嫌の極みを表すように音が鳴るほど奥歯を噛みしめ、眼を逸らした人間全員の顔を頭の中に叩き込んだ。
『リアム。――あとは任せる。イチから根性を叩き直せ』
『了解です。しっかり教育しておきます』
はぁ、とため息を吐いてから、リアムが己の剣を抜き放つ。
『さて。――入団試験の時に問われなかったか?俺たちは、神の戦力だ。そして、今貴様らが不埒な視線をやっていた相手は――聖女様だ。忘れていたわけでは、ないよなぁ?』
ビクッと新兵たちの方が跳ねあがるのを見ながら、リアムは冷ややかな目で周囲を見回す。
『訓練中に不埒なことを考えることも言語道断だが――神の化身に、騎士たるお前らが、どんな振る舞いをすべきか…新兵のお前たちに、俺がイチから叩き込んでやろう』
『ヒィッ――…』
周囲からおびえた声が上がるのを背後で聞きながら、イリッツァは怒気を隠しもしないカルヴァンに手を引かれるがまま練兵場を後にしたのだった。
「っていうか、リアムに任せておいて、大丈夫だったのか?」
「大丈夫だ。ああ見えてあいつは、普段が普段だから、怒るとシャレにならないくらい怖い。敬虔な信徒代表といっても過言ではない男だし、聖女への無礼な振る舞いに、涼しい顔して今頃腸煮えくりかえってるだろうから、明日からきっと全員リアムを見る目が変わる」
「へぇ。意外。…人は見た目によらないな」
「そうか?ファムの血縁だぞ?――怒った時の苛烈さは兄貴譲りだ」
「あぁ――…そっか、忘れてた」
はは、といつものように吐息を漏らすように笑うイリッツァは、自分の行いの迂闊さなど忘れているのだろう。カルヴァンは思い通りにならない婚約者に心の中で舌打ちをする。
「お前、ちゃんと反省しろ…!女に飢えた狼たちのど真ん中で、シャツの胸元をギリギリまで開けるってどういうことだ、ふざけんな」
「えぇぇ…暑かったし…」
「昔とは違うんだ。男の方が身長も高いんだから、覗き込むのなんか簡単なんだぞ」
「ぅ…いや、でも、鍛錬中に――」
「お前は男の時代から性欲とは無縁の生活をしていたからピンと来ないかもしれないが、血気盛んな若い男なんざ、全員寝ても覚めてもそんなことしか考えてないんだぞ…!!!」
「マジか…過ぎた性欲は身を亡ぼすって聖典にも書いてあるのに――あいつらに神罰がくだらないか心配だ」
「お前っ…本当に反省してるのか!!!?」
ビキッと今日何度目かわからない青筋を浮かべて怒号を飛ばす。ビクッとイリッツァは小さく肩をすくませた。
「そ…そんな怒るなよ」
「怒りたくもなるだろう!」
「ぅ…いやでも、減るもんじゃないし――」
「減る!!!!!」
きっぱりと言い切ってカルヴァンは再び舌打ちをする。
イリッツァは困った顔で眉を下げた。長い付き合いだが、幼馴染がここまで怒るのを見るのは、滅多にない。本気でぶち切れているのだろう。
「…で?お前、どこに向かってるんだ?」
「俺の部屋。そんなスケスケのエロいシャツ、他の男の目に触れる前にすぐ脱がせる。即刻着替えさせる」
「えぇぇ?お前の服じゃ、さすがにサイズが合わな――」
「昔のお前のシャツなら、多少オーバーサイズでも、シャツの釦を全部上まで閉めれば着られるだろう」
「ぇ――――――」
イライラと、当然のように言われた言葉に、イリッツァは声を失う。ぱちぱち、と目を瞬いてから初めて気が付く。
十五年前まで、毎日過ごした兵舎の中――今向かっているこの廊下には、酷く見覚えがあった。
そして、カルヴァンは目当ての部屋の前まで来ると、もどかし気にポケットの中から小さなカギを取り出して、木製の簡易なその扉のカギ穴に差し込む。
「――――…」
ギィ――と扉が開くときに小さく響くその音すら、懐かしい。
そこは、十五年前――『奇跡の部屋』などというふざけた名前で呼ばれていた、一室だった。
扉を開けて、両側に設置された二段ベッド。まっすぐ向かった先には、一つだけの窓。最低限のことしかできそうにない中央の共有スペースも、シャワーしかついていない風呂場も、本来四人が共同で生活することなど想定していないのではと思うくらい狭い洗面所も少なすぎる収納も――何もかもが、記憶にあるまま、何一つ変わっていなかった。
「うっわ、懐かしい――!え、嘘、全く変わってなくね!?」
ぱぁっとイリッツァの顔が輝く。
十五年も経ったというのに、その部屋は本当に何も変わっていなかった。カルヴァンが生活していたスペースはもちろん――リツィードが過ごしていたスペースまで、何一つ。
リツィードが寝ていたのは二段ベッドの上段だった。その下は、少なすぎる収納スペースを補うかのように、荷物置き場として使っていた。当時使っていた剣の手入れに使う道具などが、掃除が苦手だった当時の自分らしく、今も変わらず無造作に転がっている。
カルヴァンが寝ていたのは、向かいのベッドの下段だ。意外と家事万能な彼らしく、いつも通りしっかりとベッドメイクされた状態で、いつでもすぐに寝られる状態にされている。女の下から夜中や明け方、リツィードが完全に寝ている時間帯に帰ってくることも多かったカルヴァンは、少しでも物音を立てないようにとすぐに横になれる下段を寝床にしていた。上段には、きっと、彼の私物が今も当時と変わらず綺麗に整頓されて並んでいるのだろう。
「すご…本当に懐かし――」
思わず目の前のカルヴァンを追い越すようにして部屋の中へと足を踏み入れ――
ぐいっ
「!?」
急に腕を引っ張られ、驚く間もなくベッド――いつでも寝られるように綺麗に設えられたカルヴァンのベッドに体ごと投げ出される。
「はっ!?ちょっ、何――んぅ!?」
驚いて疑問符を上げるよりも先に、無理矢理体を抑え込まれながら唇を乱暴に奪われる。
「んんんんん!!!!?」
全力の抗議を上げるも、ふさがれた口では意味のある言葉など紡げない。上から抑え付けられた両手首は、がっちりと彼の大きな手に掴まれていて、ピクリとも動かなかった。
(えっ、ちょっ、待っ――いいいいいいいいや、ちょっ、シャレにならん!!!)
押し倒されるときに見えた彼の灰褐色の瞳は、今まで見た中で一番獰猛な光を宿していた。怒りと欲情の滲んだその瞳は、貪るように繰り返される口づけの激しさを鑑みても、勘違いではなかっただろう。
首を振って逃れようとするも、巧みに先回りされて逃がしてもらえない。
一緒に暮らし始めて、もう半年以上たつが――彼が"スイッチ"が入ったと言ってキスをしてくるときは、いつもどこか余裕のある素振りだった。こちらの反応すら楽しんでいるかのように、大人の色香を漂わせながら、翻弄するような口づけをしてきた。
こんな風に、乱暴で、余裕なくすべてを奪いつくすような口づけをされた記憶は一度もない。
豹変した肉食獣のような婚約者の姿に、混乱しきってしまって対応策が分からなくなる。ただただ「何とかしないと」という言葉だけがぐるぐると頭の中をめぐるが、具体的に何をしたらいいか、本気でわからない。
ふっ――と一瞬、左手から拘束の気配が消える。
ハッと目を見開いた途端――拘束を外した相手の右手が、唇を離しもしないで器用に一瞬でシャツの釦を上から順番にプチプチと外していくのを悟った。
「んーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
ドンドンドンと思い切り自由になった左手で抗議の拳を相手の肩に叩き込むが、カルヴァンは全く気にした様子もなく――
「っ――――――!!!!」
結局イリッツァは、『絶対にするな』と言われていた最終手段の切り札を出すしか、なかった――…
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