第7話 思い通りにならなくても、可愛い③

「さて、腹ごなしも済んだし、そろそろ今日のメインイベントに移行するか」

「メインイベント?」

 食後の紅茶を飲み終えると、カルヴァンは隣に置いていた愛剣を手に取る。ひと月ほど前、鍛冶屋から納品された特注の剣だ。彼の癖に合わせて作られた柄と剣身は、今までのどの剣よりも手になじむ一品だった。

 立ち上がって腰に剣を差し、軽く体を伸ばして準備運動をしながら、イリッツァを振り返って口を開く。

「どうせお前――この十五年、『手合せ』の相手はいなかっただろう」

「――――!」

 ハッと薄青の瞳が見開き――カルヴァンの言葉の意図を理解した瞬間、パァッと嬉しそうに輝く。

「うん!」

 嬉々とした声でうなずき、イリッツァもまた隣に置いていた剣を手に取る。カルヴァンと同時期に納品されたその剣は、鍛冶屋の店主の生涯最高傑作と言っても差し支えないのでは、というほどの業物。家に持って帰って来た日はずっと剣を眺めたり振ったり抱きしめたりしながら、とにかく喜びを表現していたイリッツァは、子供のようでとても可愛かった。その日の晩、うんうんと唸り続けて、最終的に『リリィ』とその剣に名前を付けていたあたりに、リツィードの影を見てカルヴァンはふ、と頬を歪めていた。

「剣持っていけ、ってこういうことだったのか!」

「…まぁ、単純に、何かあった時のために、っていう意味も勿論あるけどな」

 出かけるときにカルヴァンに声を掛けられた背景を察してイリッツァはわくわくと目を輝かせる。イリッツァ自身が、自分の剣の癖にぴったりと合う最高の業物でもある愛剣を手にしていて、カルヴァンも帯剣して常に傍にいる状態であれば、正直、どんな危機が来たとしてもどうとでも乗り越えられる。二人分の馬もあるし、この状態ならば、仮に昔のようにランディアが攫いに来たとて、何とでも対抗手段があるだろう。

 二人は軽く準備運動を終えて、示し合わせたわけでもなく、戦いやすそうな湖畔の平地に自然と足を向けて向き合って構えを取る。同じ師に師事した兄弟弟子なだけあって、その構えはほとんど相違がない。

(隙が無さすぎるな――さすがだ)

 カルヴァンは心の中で舌を巻く。こうして剣を持って相対するのは、実に十五年ぶりだ。

 その十五年、多くのものと剣を持って相対してきた。それは、上官だったり、部下だったり、魔物だったり――帝国兵だったり。

 だが、構え一つで相手の実力を察し、肝が冷えそうになる緊張感をもたらすような相手は、一人もいなかった。――今日、この湖のほとりで、一人の少女と相対するまで、誰も。

「魔法の使用は禁止、それ以外はなんでもあり。――開始の合図はいつも通りでいいか」

「おう」

 薄青の瞳が爛々と輝いているのを認め、小さく苦笑する。これは、リツィードの時から変わらない。――彼が、戦闘モードに入っているときの表情。

 たった一人で、大陸最高の軍事国家の国民すべてを恐怖のどん底に叩き落とした<死神>の本質は、まさに『戦うために生まれてきた』といって差し支えのない戦闘狂だ。剣を持って誰かと相対しているときこそ、聖女の責務も聖職者の矜持もすべてから解放されて、その瞳を輝かせる。

 カルヴァンは、足元の手ごろな石を拾い上げ、ひゅっ――と天高くそれを放った。すぐに剣に手を戻し、緊張感をそのままに己も隙のない構えを取る。

 空中で放物線を描いた石が、地面に落下した、その瞬間――

「――――!」

 ドッと踏み込みというには激しすぎる音を足元で炸裂させて、イリッツァが一瞬で間合いを詰めた。

(っ、速――!)

 記憶の中にあるリツィードから、その速度など重々承知していたが、なにせそれは十五年前の記憶だ。実際に目の当たりにすると、記憶と相違ない踏み込みの苛烈さは、彼女が放つ覇気と相まって実際の速度以上に焦りを生ませる。

(落ち着け――!)

 ガキンッ ギンッ

 踏み込みの勢いをそのままに振り抜かれた剣を受け止め、切り結ぶ。

(どんなに訓練を積んでいたとしても、所詮女の筋力だ。リツィードと同じにはならない――!)

 一瞬でも気を抜いた瞬間、己の首が胴体と永遠の別れを告げる未来が見える。『手合せ』のはずなのに、この爛々と輝く薄青の炎の前では、ひり付くほど身近な『死』の気配に普段の冷静な思考力が吹っ飛んでいきそうになるから恐ろしい。

「はっ!」

 鋭く放たれる呼気と共に、一刀一刀が濃密な死の気配を纏って振り下ろされる。

 ガッ ガッ ガキィン!

「く――」

 流れるような連続した斬撃を受け切って、なんとか鍔迫り合いへと持ち込む。ぐぐぐっと体格差と筋力差を生かして抑え込むように体重をかけてその剣を封じると、薄青の瞳がかすかに眇められる。――記憶の中のリツィードの感覚との違いに、一瞬惑ったのだろう。

(今だ――!)

 この剣豪が、隙を見せることなど、通常であればありえない。だから、わずかに惑いを見せたその瞬間は、またとないチャンスだった。

 全身の筋力を総動員して、力任せに相手の剣を振り払う。

「――――!」

 下段へと振り払われた瞬間、一瞬イリッツァの瞳が驚愕に見開かれたが、ザッと足を踏ん張ってすぐに体勢を立て直すのはさすがとしか言いようがない。反撃に出ようとしたその瞬間――

「ぅお!?」

 ぐん!と全く予期せぬ方向から力がかかり、イリッツァが驚愕の声と共に大きく体勢を崩す。

 剣を払った後すぐに――カルヴァンは、そのイリッツァの長い銀髪の端を捕まえ、力任せに引っ張ったのだ。

「もらった――!」

 勝利を確信して、ひゅぉ――とカルヴァンは己の長剣を上段から振り下ろし――

「――――っ!」

(っ、何――!?)

 ギンッと薄青の視線がその斬撃よりも鋭くなった。

 その視線には、見覚えがある。――手合せ中にこの視線に直面するときは、たいてい――

「はぁああっ!」

 気合一閃。

 喉から迸せた低い声と共に、イリッツァはその死神の剣を容赦なく一閃し――

 ザシュッ――

「う、そだろ――…」

(あの体勢から、そんな斬撃繰り出すのは、さすがに反則だ――)

 苦虫を嚙み潰したような心持で、胸中でつぶやきながら――カルヴァンは、迸ったリリィと名付けられた剣が赤い血潮を纏いながら視界の端に逃げていくのを呆然と見送った。



「ば、馬鹿やろっ…馬鹿野郎!お、おま、あれは卑怯だ!あんなことされたら、一瞬、我を忘れるだろ!この馬鹿」

「…はいはい…」

 泣きそうな顔で罵声を浴びせかけてくる婚約者に、横になったまま渋面を作って適当に返事をする。罵声を浴びせながらもかざされた彼女の白い手から放たれた淡い光が、ぱぁぁああ…と体中を包んでいた。

 剣を振り払った下方から、綺麗に逆袈裟斬りを決められて、カルヴァンはその体から鮮血を噴き出していた。双方真剣での手合せは、寸止めで勝敗を決するのが暗黙の了解のはずだが、『我を忘れた』らしいこの婚約者は、迷うことなくその手にした業物を振り抜いたのだ。目の前で鮮血をほとばしらせたカルヴァンを見たところでやっと我に返ったのか、一瞬で青ざめて慌てて光魔法を展開し始めたときには、その戦闘狂っぷりに呆れすぎていっそ笑いたい気持ちにすらなった。彼女が光魔法の使い手で良かった、とカルヴァンはのんきに頭の隅で考える。

「ヴィ、ヴィーが、目の前で血噴き出して、本当に焦った――!」

「こっちのセリフだ。まさか、本当に斬られると思わなかった」

「だっ、だって!!!!だって、お前が――!」

「はいはい、俺が卑怯なのはお前が一番よく知ってるだろ」

 瞬く間にふさがっていく傷に、光魔法は便利だなとぼんやり考えながら憎まれ口を叩くと、ぐっとイリッツァは押し黙った。確かに、カルヴァンと『なんでもあり』の条件で手合せをすれば、彼はお上品な剣術だけで歯向かってなど来なかったことを思い出す。足を踏んだり目くらましをしたり、それはそれは多様な思いもよらないことをされるので、いつだって気が抜けなかった。

 しっかりと傷がふさがったのを確認してから、カルヴァンはむくりと体を起こす。身体に付いた土を軽く払った後、血まみれになったシャツを無造作に脱いで上裸になると、そのまま湖へと向かって軽くシャツを水に濡らして、タオル代わりにして体に付いた血も適当にぬぐう。広範囲にわたった血液の染みはもちろん、ざっくりと斜めに切り裂かれたこれは、もはやシャツではなくただの布切れだ。

 惜しげもなく体を拭いていると、ふと視線を感じてイリッツァを振り返る。じぃっと熱心な瞳がこちらを向いていた。にやり、と雄の色香を含んだ笑みで振り返って、口を開く。

「なんだ?――男の裸に興奮したか?」

「阿呆か」

 薄青の瞳が一瞬で半眼になる。前世の時の記憶を思えば、何百回見てきたかわからないその体に、何の興奮を覚えろというのか。つい十五年前までは、己もそんな体をしていたというのに。

 婚約者のつれない反応に、くっくっと喉の奥でカルヴァンは笑いを漏らす。どうにも、一般的な女とは異なる反応を示すので、毎日新鮮で面白くてたまらない。

「じゃあなんだ?もの言いたげだっただろう」

「いや――筋肉、いいなぁって思って」

 どこかうっとりとした様子でイリッツァがつぶやく。じぃっとその薄青の熱を含んだ視線はカルヴァンの逞しい身体に注がれた。見せかけではなく、本当に必要な筋肉だけがバランスよく配置された、無駄な脂肪など一切ない、戦うためだけの雄々しい身体。

「俺も、そういう体になりたい……」

「やめてくれ。頼むから」

 げんなりと呻く。リツィードだった時代から、やたらと筋肉を手に入れようとするのは何故なのか。何が彼を、彼女を、そこまで駆り立てるのか。カルヴァンにはその理由はわからないが、婚約者となった今、筋肉ゴリゴリの可愛げのない身体になられるのは困る。せっかく最近、祭典の準備で筋力トレーニングが出来ないと嘆いているのを聞いて、一安心していたところだったのに。

 男の裸をあんなにも熱っぽい視線で見ておいて、その理由を『自分もそうなりたい』と答える女など、世の中広しといえど、イリッツァくらいだろう。色事に発展する気配が皆無なのに、困ったことに全く飽きる気配がないのは、自分が相当物好きだということだろうか。

 自分で自分の考えに苦笑を漏らしながら、ボッと手にした一刻前までは確かにシャツだったはずの襤褸切れを無言で燃やす。高温の炎によって塵すら残さず燃え尽きたそれをみて、イリッツァが驚いた声を上げた。

「え、お前、裸で帰るの?」

「阿呆。着替えくらい持って来ているに決まってるだろう」

 手合せで汗を搔くかもと思って持ってきたものだったが、助かった。愛馬へと向かって、荷の中からシャツを一枚取り出して羽織った後、再びイリッツァの許へと帰る。

「さて。――感想戦、と行くか」

 二人の師、バルド・ガエルの指導方針。手合せの後は、互いにその内容を振り返って、それぞれの良し悪しについて議論するのが通例だった。

「まぁ――俺から言えるのは一つだ。…リツィードの戦い方じゃなくて、ちゃんと、今のお前の、イリッツァ・オームの戦い方を身につけろ」

「ぅ…」

 小さく呻いたイリッツァは、瞼を伏せてその美しい面を俯かせる。きっと、今日、カルヴァンが手合せを申し出てくれたのは、これを伝えるためなのだろう、ということは理解していた。痛いところを突かれて、ぐうの音も出ず押し黙る。

 イリッツァとしての人生では、ずっと独りで剣を振り続けるだけの鍛錬を繰り返していた。相手がある状態で剣を振るったのは、ナイードでの魔物との戦いと、帝国に攫われた時の軍事拠点内を走っていた時だけだ。

 知識としては、イリッツァとリツィードの違いを理解している。筋力が足りないことも、頭の片隅では理解している。ほとんどの相手であれば、リツィードの技の冴えだけで圧倒できるから、幸い今までは何の不都合もなかったが――

 ――カルヴァン程の使い手を相手にすれば、そこの誤認はやはり致命的だ。

 いつも通りに、剣を跳ね返せない。振り回される。長く伸ばした髪を利用される。

 女になったことで、リツィードと異なることはたくさんあった。カルヴァンは、有事の際を思って、それに気づかせておきたかったのだろう。

「――…筋トレ、倍に増やす…」

「違う」

「あと、やっぱり、髪、切る」

「違う。違う、そうじゃない」

 憂いを帯びた美しい顔で真剣に改善策を口にするイリッツァに、頬を引きつらせて、カルヴァンは必死に制止する。どうにも、思い通りにならない女だ。

「努力の方向性が違う。そっちに振るな」

 なぜか額を覆って絶望的な声を出されて、イリッツァは不満げにカルヴァンを振り返った。

 『戦うために生まれてきた』と評されるだけあって、彼女の中で、戦いというものの優先度は人生の中でかなり高い。誰にも負けない最強の剣士であり続けることは、彼女にとってのアイデンティティでもあるのだろう。

「筋力は、どうしても性別差がある以上、限界がある。どちらかというと、少ない筋力でも強くなるにはどうしたらいいか、を考えろ」

「例えば?」

「――…そうだな…例えば、お前が友人だと言って憚らないあの暗殺者に体の使い方を聞くとか」

「!…なるほど!」

 ぱっとイリッツァの顔が輝く。どうやら、筋トレを増やしたり髪をバッサリ切ったりといった方向ではない解決策に導けたことを察し、ほっとカルヴァンは安堵の息を吐いた。

 やれやれ、と心の中でつぶやきながら、ほくほくとしているイリッツァに水を向ける。

「お前は?」

「ん?」

「俺に向けて、何かないのか」

「あぁ…うーん…」

 イリッツァは少し考えるように視線を宙へとさまよわせる。一連の戦いを思い返しているのだろう。

「お前って、だいたい最初は、受け身で始まるよな。お前の方から仕掛けられること少ない気がする。昔も」

「…なるほど?意識したことはなかったが、確かに」

 半年ほど前のウィリアムとの決闘でも、最初はウィリアムから斬りかかられたことを思い出す。

「まずは相手の力量はかって、自分の考えてる罠にかけて、途中で優位に立って――っていうお前の性格の悪さが前面に出てるお前らしい戦い方なんだけど」

「色々突っ込みたいが一応続きを聞こう。それで?」

「光魔法使い相手だと、すごく危ないぞ。――途中で能力向上の魔法かけられたらアウトだ」

「――――――あぁ。なるほど」

 イリッツァの言葉ひとつで、彼女が言いたいことの十を理解し、頷く。

 カルヴァンの戦闘スタイルは、本質的には策略家だ。相手の力量を推し量り、確実に勝つための策を練る。最初に斬り結んだときに大体の力量を図ってそれをもとに策を練るのだが、光魔法使いは途中でその力量を大きく凌駕させることが出来る。カルヴァンが最初の想定をもとに張る罠は不発に終わる可能性が高くなるのだ。

「魔法ありきの戦いなら、たぶん、俺、今の戦いでも、鍔迫り合いになった瞬間に光魔法かけてる。そしたら、もうちょっと違う結果になった気がする」

「まぁ、確かに、そうだな。――光魔法使いと戦うなんてことがあり得るかはわからないが、一応覚えておこう」

 王国の中にいる限り、光魔法を使う人間のほとんどは聖職者であり、軍属になることはない。最も武力衝突の起きうるイラグエナム帝国は、光魔法使いを差別し排除しているため、同じく軍属になどなるはずもない。だから、今まで光魔法使いと戦うことなど想定したことなどなかったが――他の国と事を構えることがあるとすれば、別だ。何より――イリッツァと今後、魔法ありの手合せをするとなれば、その対策は考えなければならないだろう。

「さて。どうする。二戦目、やるか?」

「…いや、いい」

「?」

 戦闘狂のイリッツァが拒否したことが予想外で、カルヴァンは片眉を上げて婚約者を見た。イリッツァは、ぎゅっと己の服を握ってうつむいた。

「他の相手ならともかく――お前相手だと、絶対、手加減できない」

「?…手加減なんか、された方がキレるぞ。昔からそう言ってるだろう」

「っ……また――…寸止め、出来ないかも」

「あぁ。…まぁ、別に。死ぬわけでもないだろう」

 再び服が血まみれになる可能性はあるが、次は最初から上裸で戦えばいいだけだ。どうせ、傷はイリッツァがすぐに治す。

 しかしイリッツァはふるふる、とその言葉に頭を振った。

「も、もし、本当に追い詰められて――俺、お前の首刎ねたら、ど、どうしよう――!」

「お前――…それはさすがに理性を保て」

 どこまでも本気で青ざめながら言われた言葉に、ぞっとしながら半分呆れて呻く。

「そ、それだけは、やだ…お前を、自分の手で――とか、絶対、嫌だ…トラウマ、に、なる…」

「いやそれはさすがに俺も防――ぐ、とは言い切れないか。いつぞや、こめかみ思い切りぶん殴られたことあったな」

 あの時は木剣だったから打撲で済んだが、あれが真剣だったら、と考えると恐ろしい。間違いなく頭部が体と永別の時を迎える。

 イリッツァは蒼い顔でプルプルと震えながら頭を覆った。

「お、お前との手合せは、木剣でやる…スイッチ入ったら、俺、絶対、相手がヴィーだってこと忘れて殺そうとすると思う…」

「婚約者を殺すな…」

 イリッツァの言葉に冗談の響きはない。頭を覆ったままふるふるとその小さな頭を振る仕草は可愛らしいのに、口から洩れて来る言葉はどこまでも物騒だ。

「ヴィーが、死ぬのは、嫌だ…どうなっても絶対全力で治すけど、さすがに首を刎ねられた状態からは治す自信ない――!」

「お前な…」

 震える少女を前に呻く。そういえば、リツィードは戦場で、やたらとよく敵の首を刎ねていた。それはある種、彼の癖なのかもしれない。一息で相手を屠る、死神の剣。

 夢中になって、その"癖"が出ないかが心配なのだろう。カルヴァンは嘆息してイリッツァに近寄った。安心させるように、震える身体を引き寄せて、胸の中にすっぽりと収める。

「わかったわかった。次は木剣用意してくる。だから、そんなに震えるな」

 一度彼を失った夜が、よほど強烈なトラウマになっているのだろう。可哀想になるほど震える肩を、落ち着かせるようにしっかりと抱き寄せる。今は確かに生きて傍にいるということを、きちんとイリッツァに伝えるように。

「っ…ずっと、傍にいるって、約束しろ…」

「はいはい。お前が首を刎ねない限り、ずっとそばにいる」

「ぅぅ…」

 ぎゅ、とイリッツァはカルヴァンのシャツを握りしめた。――我欲を出すことが苦手なイリッツァが、個人的な主張や我が儘を言うときの癖だ。

 カルヴァンにずっと傍にいてほしいと、口に出して伝えることは、彼女にとっては我が儘という認識なのだろう。よしよし、と手触りの良い銀髪を楽しむように撫でながら、イリッツァが落ち着くまで静かに待つ。

「――ヴィー」

「ん?…何だ」

「やっぱり――…お前、もっと、ちゃんと、休め。一週間に、どんなに少なくても一回は休日を取れ。出来れば二回」

 ぎゅぅっと着替えたばかりのシャツを握りしめるようにして、イリッツァが胸の中で小さくつぶやく。

(我が儘――なの、か?)

 彼女の発した言葉と癖がつながらず、ぼんやりと思考をめぐらす。イリッツァは、滅多なことでは我が儘を口にしない。前世で施された洗脳まがいの教育がそうさせるのだろうが、そんな彼女が一生懸命に何かを主張したいときにだけ、必死にこうして人の服を握りしめる。

 だが、彼女が発した今の言葉が、彼女の矜持を曲げてまで伝えたい我が儘とは思えず、カルヴァンはしばし思考する。

「ちゃんと――傍に、いてほしい」

「………ほう。意外だな。お前、そんなにベタベタしたいタイプだったのか?」

「ち、ちがっ――違う!」

 バッと赤く染まった顔を上げて慌てて否定する様子からは、愛しい恋人との日々の時間を増やしたいというおねだりではなかったようだ。カルヴァンは疑問符をあげて腕の中の少女を見下ろす。

「じゃあなんだ」

「っ…ふ、普通に考えたらっ…お前の方が、早く、死ぬ…だろ…」

「?――あぁ。歳の差の話をしてるのか」

 イリッツァの言葉にやっと彼女の言わんとするところを理解して納得する。

 カルヴァンとイリッツァは、十五も年が離れている。平均寿命までお互い生きるとしても、確実にカルヴァンの方が早く死ぬだろう。光魔法は、だいたいの怪我も病も治すことが出来るが、当然万能ではない。老いを止めることは出来ないし――老衰を避けることなど、出来ない。

「最後は、お…置いてく、癖に…っ…十五年も、俺を独りにさせるくせにっ…――十五年以上、長く独りきりにさせるような、無茶苦茶な生活、絶対するなっ…」

「――――――あぁ。なるほど」

 左耳を掻いて、イリッツァの言葉を受け止める。若い時から無理をして不必要に寿命を縮めるな、と言いたいのだろう。

 同じ年齢まで生きるとして、先にカルヴァンが死んでから、イリッツァも寿命を迎えるまでの年数は、単純計算で十五年。その十五年を独りで生きる覚悟はあるが、それが十五年以上になるのは耐えられない、と訴えているらしい。

「ほ、本当は…じゅ、十五年も、嫌なんだぞっ…う、嘘つき…嘘つき、嘘つき、嘘つき!お、置いてかないって、約束したくせに!」

「そう言われてもな…寿命ばっかりは、どうしようもないだろう」

「お、俺は、エルム教徒だから――絶対に、自分で自分の命を絶つことはできない。もし、そんなことしたら、ヴィーと同じところに、行けない……だから、頑張って耐える…けど…っ……ぃ、嫌だ…お願いだ、置いて行かないで――…どうしても先に行くなら――一緒に、連れていって……」

 ぎゅ、と再びシャツを握って、カルヴァンの胸に顔をうずめる。

 我欲を消すことを至上の命題としているイリッツァが、唯一、何を置いても譲れない、個としての主張。

(愛の言葉なんかを囁かれるより、ずっと愛されてる実感が沸くな)

「お前は、一体どこでそんな口説き文句を覚えて来るんだ」

 くっとイリッツァに気づかれないように喉の奥で笑いをかみ殺して、さらりと癖のない銀髪を撫でる。

「まさか、俺にお前を殺せと?そんなこと、出来るわけ無いって、知ってるだろう」

「っ…!」

「まぁいい。――お前なりの『愛してる』の表現だと思って受け取っておく」

 耳まで真っ赤になったイリッツァは、再びカルヴァンのシャツを握りしめたまま、胸に顔をうずめた。羞恥に極まって言葉が出なくなっても――カルヴァンの言葉を否定しないあたり、それは肯定だと捉えてよいのだろうか。

 酷く上機嫌になりながら、カルヴァンは愛しい婚約者を抱きしめて、その真っ赤な耳元にささやく。

「わかった。ちゃんと、休むようにする。――長生き出来るようせいぜい頑張るから、許せ」

「っ…や、約束、しろっ…」

「あぁ。――ただ、お前も覚悟しろよ?」

 にやり、と片頬を歪めて笑う。人を食った、悪童のような笑み。

「俺が普通に休みを取るってことは、それだけお前との時間が増えるってことだ」

「?」

 きょとん、とイリッツァはカルヴァンを見上げる。ふわり、と湖面を騒がす風が吹き抜け、銀髪を軽く揺らした。

「俺の独占欲はますます加速するぞ。――お前に自由なんて無くなる」

「っ――」

 カルヴァンの愛の大きさは、そのまま独占欲の強さに直結している。

 イリッツァは一瞬羞恥に頬を桜色に染め――

「っ…そ、れで…お前が、ちゃんと…長生きしようって、思ってくれる、なら……いい…」

 長い睫を伏せて、もごもごと告げられた言葉に、カルヴァンはにやりと笑ってその桜色の唇を盗んだ。

 ちゅ、と軽いリップ音が周囲に響く。

「なら、さっそく、日ごろの疲れを取るべく休ませてもらおうか」

「へ?」

「膝枕くらい、してくれるんだろう?」

「――――――!!!????」

 声にならない声を上げて目を白黒させるイリッツァを前に、さっさとカルヴァンは有無を言わさずその膝に頭を乗せる。

「――あぁ、いいな。極楽だ。最高の気分だ。毎週休みの度にこれをしてくれるなら、俺はどんなにリアムに睨まれようが泣き付かれようが、どんな手段を使っても休みをもぎ取ってくる」

「~~~~~~っ…」

 飄々と嘯いて瞳を閉じる幸せそうなカルヴァンの頭を、無理矢理膝から落とすわけにもいかず――

 イリッツァは、時折頬を撫でていく風に己の顔の熱を思い出されながら、ひたすら羞恥に耐えて息をのむのだった。

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