第5話 思い通りにならなくても、可愛い①

 それは、いつもの日常。

 温かくなってきたので布団を減らしたのがひと月前。もう少しすれば、夏用布団一枚で用を足せるだろう。

 広めの寝台に横になり、手の中のぬくもりを軽く確かめるように抱きながら、いつまでも触れていたい手触りの良い絹のような髪を弄ぶ。夜目に慣れてきた視界の中で、月光をも反射しそうな美しい白銀が揺れた。

「…眠れないのか?」

 いつもは横になってしばらくすると眠りの世界に入っていく婚約者がまだ起きている気配に、腕の中で丸まるイリッツァに声をかける。イリッツァは呆れたようにして胸のあたりからカルヴァンの顔を見上げた。

「いや…お前こそ。いつも寝付き悪いよな」

「昔からだ」

 くぁ、と軽くあくびを漏らしながら答える。寝付きも寝起きも悪く、眠ったとしても睡眠は浅い。寝不足、などという言葉は慢性的すぎて、どこを基準にしたらよいかわからなくなって久しい。一般的な水準よりも圧倒的に睡眠は足りていない自覚はあるが、カルヴァンにとっては、昼寝をしないと頭が働かなくなったら寝不足、という程度にしかとらえていないため、改善しようという気持ちはあまりない。そもそも自分の生き死ににも興味がなかった彼は、自分の健康状態にも気を配るという感覚が、人よりだいぶ欠如している。

「毎晩安眠の魔法かけてやろうか」

「やめてくれ…」

 光魔法嫌いのカルヴァンらしく、渋面を作って呻く姿は、本当に嫌がっているのだろう。

「お前、また、全然休んでないだろ…」

「そうか?前よりは早く帰ってくるようになっただろう」

「いや、帰宅時間がどうのこうのより、一日まるっと休める日がない以上、それは休んだとは言わない…」

「そういわれてもな…」

 左耳を軽く掻いて、ふぁ、ともう一度生あくびを漏らす。眠気がないわけではない。寝付けないだけで。

「春の祭典で忙しかったからな。お前もそうだろう」

「そうだけど…」

 つい先日終わったばかりの祭典は、季節ごとに行われる大きな催事の一つ。聖女による儀式も執り行われたため、イリッツァもこのひと月くらいは帰りが遅くなるなど、忙しそうにしていた。カルヴァンとしては、彼女の鍛錬の時間が目に見えて減ったことを喜ぶくらいだったのだが。

「そういえば、祭典のときのあの格好は、誰が準備したんだ?珍しい恰好をしていた」

「へ?…あぁ、王都にいる、有名なデザイナーだよ。王族や大貴族の御用達の有名な人。聖女の正装の基本は、まぁいうなれば伝統装束だから昔から変わらないけど、その代の聖女に合わせてサイズはもちろん、糸の色とかちょっとしたディティールとかは、そのときの信頼できる職人に任される。髪飾りとかも、その時の季節や儀式の内容に合わせて、毎度毎度発注される。――俺としては、そんな無駄遣いやめてほしいんだけど」

「なるほど。春の祭典だから、花飾りが多かったのか」

 カルヴァンはぼんやりと祭典の様子を思い出す。清貧を美徳とする聖女が、珍しく着飾るのは国を挙げての大きな催事の時だけだ。今回は、春の祭典だったからか、美しく結い上げられた銀髪に映える色とりどりの花々が施された髪飾りを身に着け、その美貌に薄く施された化粧も、春の色どりを想起させる淡い色使いが多かった。

 もともとの造形が美しいのは重々承知しているが、催事で着飾るイリッツァはまた格別だった。騎士は聖女と王族が座す王城全体の警備にあたるため、施設内の持ち場を巡回するのが通例だが、聖女のすぐそばで護衛をするのは基本的に近衛兵の仕事だ。あの日は、イリッツァの傍にいる近衛兵に金でも握らせてその場所を変わってもらおうかと一瞬本気で思うくらいに、その美しさは見事だった。遠目でしか見られなかったことが心から悔やまれる。

「お前は本当に母親似だな。――既視感がすごかった」

「褒めてる?けなしてる?」

「褒めてる褒めてる。絶世の美女だったぞ」

「…なんっかお前に言われると、あんまり嬉しくないんだよな…」

 む、と軽く口をとがらすイリッツァに苦笑して、さらりと飾る物が何もない風呂上がりの美しい髪を指で梳く。

「お前こそ、ちゃんと休んでるのか?多忙だったんだろう」

 カルヴァンは、自分が休まないことに加え、基本的にイリッツァの日中の行動にあまり興味がない。イリッツァが休んでいるのか働いているのか、今日どこで何をしていたのか、尋ねることはほとんどないため、把握する術がなかった。

「俺?まぁ、適度に。割と自由に休み取れるぞ。――あまりぶっ続けで働いてると、周りが蒼い顔し始めるからな…」

「まぁ、そりゃそうか…」

 何せ、国の宝だ。本来、催事をはじめとする公務以外は、神殿の奥に引きこもっているべき人間が、一般の聖職者にまぎれて教会の仕事をしているのだから、周囲は気が気でないだろう。むしろ働かないで一生屋敷に籠っていてほしいと思っているはずだ。万が一イリッツァが疲労で倒れたりなどすれば、おそらくその日その場にいた責任者の首は、物理的に飛ばされる。

「いや、お前が過保護なのは知ってるけど、俺よりお前だって。国内で遠征が必要になるような魔物はしばらく出ないだろうけど、国外から遠征要請されたら従わなきゃいけない時もあるし、帝国だって、ヴィクターが頑張ってるみたいだけど、今の皇帝が帝位を手放さない限りどう出てくるかわからないわけだし――」

「お前…ベッドの中で他の男の名前を出すな」

 それも、特別嫌いな男の名前を。

 不機嫌そうに眉間にしわを寄せるカルヴァンは、どこまでも本気だ。ワーカホリックのカルヴァンにとって、毎晩愛しい婚約者を腕に抱いてまどろむこの時間は、貴重な癒しの時間だ。何が悲しくて、他の男――それも暫定世界で一番嫌いな男――の存在に邪魔をされなければならないのか。

「そういう話じゃないだろ。いつ有事が来るかわからないのにそんな働き方するなって話だ。神様だって、休息はちゃんと取れって言って――」

「俺はエルム教徒じゃないからな」

 くぁ、ともう一度あくびを漏らして、適当にあしらうと、イリッツァがむっとした表情を返してきた。そんな顔も可愛いと思ってしまうから、なかなかに末期症状かもしれない。

 しかし、付き合いの長さから察するに――どうやら割と本気で怒っているらしい。その気配を察知して、カルヴァンはやれやれと小さく嘆息した。

「わかったわかった、じゃあお前のこの先一か月くらいの休みの日程を教えろ」

「?」

「屋敷に独りでいても暇だろう。お前に合わせて休みを取る方が有意義だ。日付が明確な方が仕事の調整もしやすいしな」

 カルヴァンの言葉に、薄青の瞳がぱっと輝く。不機嫌だった表情は一転、安堵の様相へと変わった。

 慈愛に満ちた聖女の表情ではなく、心から友を案ずるその顔に、心の奥がほんのりと温かくなるのを感じながら、ふと思い出して口を開く。

「…そういえば、なんだかんだでデートの約束が果たされてないな」

「デ――!?」

 カルヴァンの口から洩れた単語に、イリッツァが絶句する。にやり、と笑って見下ろすと、その人を食ったような表情に揶揄の気配を敏感に察知したのだろう。ごほん、とわざとらしく咳ばらいをしてイリッツァは努めて冷静を装って言い直す。

「遠乗り、だな。確かに約束してた」

「デート」

「それなら、馬を貸してもらえる日にしないとな。遠乗り、だし」

「デート」

「遠乗り、だから、乗馬用の服買わないと――」

「デート」

「遠乗――」

「デート」

「~~~~~っ…」

 何度も言い直され、羞恥が込みあがってくる。提案したのは確かにイリッツァからだったが、その時はデートを提案した認識など微塵もなかった。ただ、昔のように、休日に二人で遠乗りをしたら楽しそうだと、純粋にそんな気持ちで提案しただけだったのに、どうやらこの幼馴染兼婚約者は、どうしてもこれをデートとして楽しみたいらしい。

「一緒に暮らし始めてもう何か月も経つのに、お前とデートするのは初めてだな。楽しみだ」

「っ………!」

 片頬を歪めて笑いながら嬉しそうに言われてしまえば、イリッツァは赤く染まる頬を隠すようにうつむいて押し黙るしかない。羞恥が極まると、どうしても声が出なくなる。

「そうだな。俄然休みを取りたくなってきた。早々に調整しよう。――おやすみ、ツィー」

「っ…ぉ…や、すみ…ヴィー」

 やることさえ決まれば、頭脳の回転と一緒で彼の行動は速い。

 カルヴァンは、ぽんぽん、と軽くイリッツァの頭をあやすように撫でてから、しっかりと瞼を閉じたのだった。



 カポカポと街道を行くのどかな馬の足音が響く。天気にも恵まれて、今日こそは絶好のデート日和と言って差し支えないだろう。

「お前、後で始末書とか書かされないか…?」

 イリッツァは、呆れたような半眼で隣を行く男を見やる。騎士団から支給された愛馬を慣れた手つきで操る雄々しい姿は、ここが王都内であったなら女性の黄色い声を一斉に浴びただろう。

「さぁ?せいぜい、リアムが小言を言うくらいじゃないか?」

「…お前、本当に、もう少しリアムをいたわってやれ…」

 げんなりとして口の中で呻く。きっと、関係各所から舞い込むカルヴァンへの苦情や苦言は、リアムに集中しているのだろう。そしてそれを、胃を痛くしながら上手にさばく手腕こそが、彼が長年自由闊達な騎士団長の補佐官を務めあげられている所以なのだが、本人からしてみればたまったものではあるまい。

「厩の主人も門番も、お前のそんな珍しい恰好を見られたんだ。感謝されこそすれ、苦言を呈されるいわれはない」

「…意味が分からない…」

 飄々とした様子のカルヴァンに、イリッツァは、はぁ、とこれ見よがしにため息を吐いた。彼女の大切な王国民を、この男は何と心得ているのか。

 カルヴァンはともかく、イリッツァは専用の馬など飼っていないので、厩に借りに行く必要があった。高貴な身分の女性は、基本的に乗馬をする時はドレスを着て横乗りするのが慣例だ。しかし、元男であったイリッツァがそんな乗り方を好むはずもない。まして、聖女が王都を出るともなれば、本来どこへ行くにも複数人の護衛が付いて当たり前の存在なのだ。イリッツァが普通に馬にまたがってカルヴァンと二人だけで王都を出ようとすれば、それはそれは衆目を驚かせただろう。

 結果――イリッツァは、帽子の中にその目立つ銀髪を全てしまい込んで、少年のようにも見えるような装いで衆目をごまかして厩に向かった。

 おかげで、道中は全くイリッツァに興味を示す人間はいなかったのだが、さすがに間近でまじまじと見られれば、彼女がイリッツァであることはわかる。厩の主人と門番の目だけはごまかせなかった。

『せっ――せせせ、聖女様!!!?』

『…あぁ。ボーイッシュな格好をしていても、うちの嫁は最高に可愛いだろう?』

 驚く彼らに、悪びれた風もなく飄々と惚気て煙に巻く辺り、カルヴァンの心臓には毛が生えているとしか思えない。

 恐縮しきって、護衛もなしに――しかも、イリッツァ本人が、馬にまたがりそれを御するなどとんでもない、と真っ青な顔で要求を突っぱねようとする主人や門番を、カルヴァンは口八丁手八丁でうまく丸め込んで無理矢理イリッツァを連れ出したのだ。

『ご、護衛もつれずに遠乗りなど――もし何かあったら――!』

『おいおい、俺では護衛の役目が果たせないとでも?失礼な奴だな。この国で、俺以上にこいつの安全を約束できる奴がいるなら、ぜひともお目にかかりたいものだ』

 王国最強と名高いカルヴァンにそのように言われてしまえば、主人も門番もぐっと黙らざるを得ない。英雄としての彼の逸話は、この国で育った者なら誰もが一度は耳にしたことがあるはずだった。

「あいつらが不憫だというなら、聖女の格好のまま、いつぞやみたいに、俺の馬に一緒に乗っても良かったんだぞ」

「絶対嫌だ。恥ずかしくて死ぬ」

 イリッツァは渋面を作って呻く。

 半年ほど前、帝国にその身柄を捕らえられたとき、イリッツァは王国までの帰路をカルヴァンと相乗りで帰ることになった。捕らえられていたのは軍事拠点だったため、聖女を乗せるにふさわしい馬車など用意があるわけもなく――その馬車の到着を待つことなど、国民はもちろんカルヴァンにも絶対に出来なかったため、総大将でもあり王国最強の名をほしいままにするカルヴァンとの相乗りで帰ることとなったのだ。

 男だったころであれば、何も考えず彼の背に跨っただろう。また、着せられていたのが貴婦人が着るような裾の長いドレスだったとしても、跨ったはずだ。

 だが、当時着せられていたのは、スカートの丈がひざ下くらいの黒いワンピースだった。それも、スカートの下は、まばゆいばかりの生足。

 馬になど跨れば、必然的にその白い肌を不必要に露出する羽目になってしまうため、死にたくなるほどの羞恥を堪えながら、カルヴァンの腕に包まれるような体制で、貴婦人よろしく横座りでの相乗りをせざるを得なかったのだ。元男としてのプライドが崩れた屈辱的な体勢だったと、恨みがましく言われたのを思い出す。

(あれはあれで、役得だったんだけどな)

 羞恥に染まる顔を隠したいのだろうが、必死に衆目を避けるように、極まる羞恥に震えながらカルヴァンの胸に顔を伏せているその格好は、まるで恋人が甘えるような距離感にしか見えず、周囲が呆然としていたのを覚えている。捕らわれた恐怖で震えているのだろう、と無理矢理納得している様子の兵たちが多かったため、突っ込まれることがなかったのが幸いだ。彼女が本当は、震えて助けを待つどころか、帝国軍人から奪った剣を片手に拠点内を闊歩していたことをしる人間はカルヴァン以外にいない。

「せっかくなら、お前と競走とかしてみたかったんだけど――馬の性能の違いがありすぎてダメだな。悔しい」

「どこまでも勇ましいな、お前は」

 遠乗りデート中の女性からの申し出とは思えない発言に、カルヴァンは苦笑する。軍用のカルヴァンの愛馬と、市井で借りた移動用の馬とでは、イリッツァが言うように性能に違いがありすぎる。お互いが専用の軍馬を持っていた十五年前は休日に遠乗りに出掛ければよく腕を競うように競走したものだったが、今は試すだけ無駄だろう。

「俺、ラムダ湖に行くの本当に十五年ぶりだけど、変わりないのか?」

 イリッツァが、思い出したように隣を行くカルヴァンを振り返る。今日の目的地は、王都に隣接しているレーム領の端にある<ラムダ湖>だ。人里からは馬無しで向かうには遠すぎるが、旅というには近すぎるその距離は、日帰りで気分転換に訪れるにはちょうど良い。特に何か見るべきものがあるわけでもないその湖は、観光資源がたくさんあるレーム領内において、わざわざ訪れるようなもの好きはほとんどおらず、十五年前から、いつ訪れてもあまり人気がない知る人ぞ知るスポットだった。

「変わらないぞ。今は春だし、多少は花も咲いてるかもな」

「へぇ。楽しみだ」

 銀髪を隠した帽子の下でも笑顔になっていることがわかるくらい、イリッツァは嬉しそうな声を上げる。久しぶりの乗馬に、どうやら随分浮かれているらしい。リツィードの時から、馬の世話をするのも乗るのも、どちらも休日の度に欠かさず行うほど、彼が馬が好きだったことは良く知っている。

 屋外でイリッツァを見るときは、たいていが聖女の仮面をかぶっている。こうして日の下でも隠すことなく喜怒哀楽を素直に表現しているイリッツァを見るのは、酷く珍しい。

 カルヴァンは、その様子に満足げに目を眇めて、遠くに見えてきたきらめく湖面の方角へと馬の頭を向けた。

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