第2話 男らしい趣味でも、可愛い①

 英雄カルヴァン・タイターは自他ともに認める愛妻家だ。まだ正式に妻になったわけではなく婚約者という立場だが、そんなことは些細な問題だろう。

 どんな婚約者も可愛いと思っているし、愛しいと思っている。造形も世界で最高の美女だと信じて疑っていない。

 だが、同棲を開始して約一か月というタイミングで――

「あ。おかえり。今日は早いな。――悪い、帰って来たの気づかなかった」

 帰宅したときに、部屋の中で砂袋を三つも背中に乗せて片手腕立て伏せをしている婚約者の姿と直面し、さすがに半眼になってしまったのは、きっと誰に責められるものでもないはずだろう。

「お前がリツィードだって改めて思い出した…」

「はは、今更?」

 いつもの鈴を転がすような美声で笑いながら、気にした様子もなく再び腕立て伏せを開始された日には、どういう反応を返すのが正しかったのか、本気で誰かに問いかけたい。

「ちょっと待って、あと十回」

「あと十回って…お前、そもそも全部で何回――いや、やっぱりいい。ドン引きしそうだから聞かない」

 おそらく、下手をしたらそこらの兵士ですらそんなストイックな鍛錬はしないぞ、というくらいのメニューと回数が返ってきそうで、蒼い顔で額を覆って呻く。

 リツィードの趣味が鍛錬と馬の世話だったことを思い出した。愛馬がいない今は、鍛錬だけが彼女の趣味なのだろう。

(趣味は、個人の自由だ。制限する権利はない。ないのは事実だが――)

 閉じた瞼の裏に、赤銅色の少年兵の姿が思い浮かぶ。今のイリッツァとそう大して変わらない造詣をした女顔の下についていた、男でもドン引き必至の肉体美。

「頼むから、ほどほどにしてくれ…」

「へ?」

「さすがに守備範囲が広いことを自負している俺でも、筋肉ゴリラを抱く趣味はない」

「なっ、し、知るか!いいだろ、筋肉!カッコいいじゃん!」

「やめてくれ…本気で」

 抱き寄せた時に柔らかいからこそ、女を抱く楽しみがあるのだ。何が悲しくて、男と大して変わらない筋張った固い身体を抱きしめなければならないのか。

「ふー、今日の鍛錬終わり!あー、汗かいた。風呂入ってきていい?」

「好きにしろ…」

 自分は婚約者を溺愛していると自負しているが、さすがに筋肉ダルマになったイリッツァまで今と変わらず愛せるかはわからない。限りなく『友人』に近いお付き合いになること必至だ。身体の関係をとにかく避けたいイリッツァにしてみればそれは願ってもないことなのかもしれないが、カルヴァンにしたらたまったものではない。

(今日『の』鍛錬終わり――ってことは、毎日やってるってことだよな…)

 額を覆ってげんなりと嘆息する。どうりで、同棲初日に無理矢理襲い掛かろうとして力比べになった時、あんなに手強かったわけだ。そういえば、いつぞや胸のあたりを全力で叩かれた時は、肋骨が折れたかと思うくらいの衝撃だった。

(結界は全国に張り終えたって言っていたし、大きな催事もしばらくはない。聖女としての仕事はしばらくないだろうから、教会で聖職者と同じ仕事を日々していると仮定して――)

 カルヴァンは、今まで全く考えたこともなかった、自分が仕事に行っている間のイリッツァの行動スケジュールを想い描く。お互い自立した大人ということもあるが、そもそもカルヴァン自身が他人に縛られることを嫌う性格上、相手の行動に干渉するという発想すらなかった。

(――…もしや、結構な時間を鍛錬に費やせてしまっているのでは…)

 初めて想い描いたスケジュールは、思いのほか自由時間があるようだ。その一つに、自分の帰宅時間が遅くなりがちというのもあるだろう。

 もともと、ワーカホリック気味なカルヴァンだ。今でこそ、イリッツァが待っているから王都に用意された自分の屋敷に毎晩帰ってきているが、彼女がいなければ、今も兵舎で寝泊まりしてプライベートも仕事も境目のほとんどない毎日を過ごしていただろう。だが、イリッツァが屋敷に来たからと言って、騎士団長としての仕事が減るわけではない。聖女の結界が張られたことで遠征任務が減ったのは確かだが、先のいざこざで騎士団の人出に深刻な痛手が出ているのも事実だ。また、戦争で明らかになった兵士たちの育成に関する憂いもなくさなければならず、後進育成にも力を入れる必要がある。友好国から魔物討伐の依頼が入れば、長期遠征が組まれることもありうるだろう。

 つまり、いつだって仕事は山積みなわけで――どうしたってカルヴァンが帰ってくるのは夜遅い時間になる。休みだって、イリッツァを迎えた初日以来一度も取っていない。

 カルヴァンからすれば、夜の間だけとはいえイリッツァとの時間を設けられている上に、わざわざ屋敷に帰ってくるだけでもかなりプライベートと仕事を切り分けている認識であり、むしろ昔よりだいぶ働かなくなったと思っていたが、一般基準に定めれば十分おかしい労働環境であることは理解している。

 その間――妻は、こうして、どんどんと筋肉増強を進めていくわけだ。

(――今日、早く帰って来て本当によかった)

 リアムに『新婚なんだから、早く帰れる日は帰ってください!』とたたき出されたことを感謝する。まぁ、たたき出された本当の理由は、カルヴァンが無駄に兵舎にいると、自分基準で補佐官にもどんどん仕事を振ってくるので、リアム自身が死にそうになるためだろうが。

 確かに、急ぎの仕事は全部終わらせたし、たまには一緒に飯でも食うか――と夕方に帰ってきたら、衝撃的な光景を目の当たりにしたのだ。

「ふー、さっぱりした。――ん?どうした?」

「いや…ちょっと、考え事をな」

 妻の行動制限などしたくはないが、鍛錬以外の趣味を見出してほしい気持ちはある。主にカルヴァンが指折り数えて待っている二年後のイベントに向けての憂いを断つために。

「なんだよ、せっかく珍しく早く帰って来たのに。――仕事、忙しいのか?」

「いや――」

 どうやら仕事にまつわる考え事をしていると思われたらしい。否定しようと顔を上げると、目の前にイリッツァの細い繊手が掲げられていた。

 ぱちぱち、と目を瞬くと、パァッ――と淡い光が目の前に広がる。

「――ん。お前、いつもこれ、嫌がるけど。たまには休まないと、倒れるぞ」

「……あぁ…」

 一瞬で体が軽くなる気配に、苦い顔で呻く。疲労回復――光魔法というものは酷く便利だ。

「ありがたい聖女サマの魔法をこんなことに使ってると知られたら、国民の顰蹙を買うんじゃないか?」

「ははっ…じゃあ、ここだけの秘密だな」

 屈託なく笑うイリッツァは、いつも外で見かけるような聖女の顔ではない。カルヴァンの前でだけ見せる、素の、イリッツァ・オームの顔。

「――ツィー。こっちにこい」

「へ?」

 軽く腕をつかんで引き寄せ、胸の中に閉じ込める。ふわりと風呂上がりの石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。

「…よかった。まだ、抱き心地は柔らかいな」

「悪かったな…ホント、なんでか全然筋肉つかないんだよ…昔と同じようにトレーニングしてるのに…」

「おい待て、あの頃と同じはやばい。女の身であれはやり過ぎだ、即刻半分以下に減らせ。五分の一とか十分の一とかくらいに」

「は!?そんなん準備運動と変わらねーじゃねぇか!鍛錬じゃねぇ!」

「それくらいでも一般的な十五歳の女基準で行けば十分やりすぎだ!」

 外から見れば完全に恋人同士の距離で、恋人にしては気安すぎる会話を交わす。リアムには新婚と揶揄されたが、元親友故のこの甘すぎない距離感も気に入っていた。もちろん、カルヴァンにしてみれば濃密な甘い距離感も嫌いではないのだが、それはイリッツァが全力で拒否をするので二年間はお預けが決まっている。

「お前、他に趣味とかないのか。女っぽい趣味とか」

「ないに決まってるだろ…俺、ここに来た初日に、イリッツァになってから最低限のことだけは出来るようになったけど、未だに裁縫だけは苦手だって言わなかったっけ?」

「聞いた。じゃあ、刺繍とかは無理か」

「いや、そもそもお前想像できる?俺が刺繍とかしてんの」

「――――――――――無理だな。脳が想像を拒否した」

「ははっ…俺もだ」

 すっぽりと腕の中に閉じ込めたまま、時折手触りの良い銀髪を指で弄ぶようにしながら、色気のない会話を交わす。昔はこの距離だけで真っ赤になっていたイリッツァも、すでに慣れてしまったのか、されるがまま文句も言わず、のんきに腕の中で笑いを漏らせるようになるのだから、人間の慣れとは恐ろしいものだ。

 イリッツァとは、相性がいいのか、色めいた雰囲気がなくても、こうして体を寄せているだけで何とも言えぬ安心感と心地よさがある。それはイリッツァも同じようで、カルヴァンの腕の中に納まったまま、緩んだ表情を見せてはくるくると表情を変えて会話を楽しむようになっていた。最初の、男に全く免疫のなかったころの彼女に見せてやりたい、と思いながら、銀髪を軽く弄び、カルヴァンは視線を巡らせる。

「友人とか作らないのか。女って、よく集まってお茶会だのなんだのしてるイメージがある」

「俺、昔、聖職者の心得について話さなかったっけ?――俺が『友人』になるのは、孤独で誰の手も取れないような人を孤独から救うためだけだ。本当の『友人』にはなれない」

 呆れたように半眼で言われてから、ふわり、とイリッツァが笑んだ。薄青の瞳が甘く緩み、カルヴァンを見上げる。

「俺が、聖職者としてとか関係なく、本当の友人になったのは、ヴィーだけだ」

 ぴたり、と戯れるように銀髪を弄んでいた指が止まる。ひた、と灰褐色の瞳が薄青の瞳を見下ろした。

「――――――あぁ。ダメだ。スイッチ入った」

「は…?――――って、ちょっ、待――!」

 気づいたときには、二人の間にあった気安い空気が、一瞬で特濃の甘ったるい雰囲気へと変わる。肉食獣を思わせる光をその灰褐色の瞳に湛えて、カルヴァンはイリッツァの顔を持ち上げ、噛みつくようにして無理矢理唇を塞いでいた。

「ツィー…!」

「っ――」

 何度か角度を変えて重ねられる口づけの合間に、熱い声で愛称を囁かれ、イリッツァの頭が沸騰しそうなほどに熱を持つ。

 同棲初日に全力で口喧嘩をしてから、決めたこと。

 ――キスは、二年の間も許容する。

 そのかわり、キスをするのは必ず屋内、絶対に人目がない二人きりの時だけ。屋外や、他者の目があるところでの行為は厳禁と約束させた。当然、キス以上の行為は絶対に許さない、という再度の念押しもした。

 結果、同棲が始まってこのひと月ほどの間で、何度かこういう事態に陥ったことがある。

 普段、カルヴァンとの間に色っぽい空気が流れることは少ない。そういう空気下では男の性で襲いたくなる、と言うカルヴァンの言葉を信じるならば、二度と光魔法での強制的な『待て』をさせられないようにと恐れて、不必要にそうした色めいた空気を作らないようにしているのかもしれない。イリッツァとしても、それは願ってもないことなので、ありがたいのだが――

 ごくまれに、カルヴァンの言うところの"スイッチが入る"ときがある。

(ほ、本当に、こいつの"スイッチ"ってよくわかんねぇ…!)

 いつ地雷を踏み抜くか、イリッツァには全く分からないため、急に始まるこの濃密な時間が過ぎ去るのを、ただこの色気の塊となった男に翻弄されるがまま大人しく待つしかない。

 カルヴァンに、一度どんな時にそういう気分になるのかと聞いたが、左耳を掻いてしばらく考えた後、『――さぁ?気分だからな』とあっさり回答を放棄されてしまった。

 それでも何か傾向とか、と必死に食い下がって得られた回答は『……独占欲を刺激された時は、そういう気分になりやすい気がする』と眉間に皺を寄せながら言われた言葉だったが、やっぱり未だによくわからない。

 基本的に、愛情表現と下半身事情が密接に結びついているカルヴァンだ。むせ返るほどの濃密なすべからく女を誑かす色気を纏うその姿は、十五年前、流し目一つで女を誑し込んでいたころの姿と相違ないだろう。隠すつもりもない"雄"を感じさせる直球なその空気をぶつけられて、色事に免疫のないイリッツァは、ただただ勝手に上昇していく体温に戸惑いながら目を閉じて嵐をやり過ごすしかなかった。

「ちょ――きょ、今日、多く、ね…?」

 幾度となく降ってくる唇に参って、合間に少し体を離して小さく抗議の声を出す。しかしカルヴァンはまったく意に介した様子もなくイリッツァの顔を掴んで引き寄せた。

「昔、言っただろう。キスは、『何回でも。気が済むまで』」

「っ――…あ…っそ…」

 一度、許容すると言ってしまった以上、制限することはできない。その時の取り決めに、回数の上限は設けなかったのだ。耳朶まで真っ赤に染めあげて、イリッツァは目を伏せて呻くことしかできなかったが、すぐにその唇も奪われ、憎まれ口も封じ込められる。

「――あー。これ以上すると我慢出来なくなりそうだから、この辺でやめておくか」

「っ…長い…阿呆…」

「久しぶりだったんだ。別にイイだろう」

「勝手にしろ…」

 翻弄されて整わない息を必死になだめるイリッツァとは対照的に、カルヴァンはどこまでも涼しい顔で余裕の素振りだ。こういう時、経験値の違いを実感して、この分野では決してこの男相手に優位に立てないことを痛感する。

 ゴシ、と長すぎるキスの余韻で艶めく唇を手の甲でぬぐう姿に色っぽさがない自覚はあるが、正式に婚約関係になって、まだ一か月だ。しかも、普段はどこまでも友人関係の延長でしかないのだから、いつまでたってもこうした雰囲気に慣れない。女らしく恥じらうように指先で勿体付けるように拭ってやればカルヴァンも喜ぶのかもしれないが、そんな高度な技はイリッツァには羞恥の限界を突破してしまうため不可能だった。

 しかし、そんなイリッツァの様子すら、くく、と喉の奥で嗤うようにして顔を歪めて余裕の表情で眺められるのだから、たまったものではない。

「っ…そ、そういえば!」

 嵐が去ったというのに、その灰褐色の瞳にほんのりと熱がこもっているような錯覚に、無理矢理話を切り替える。

「お前、次の休みっていつなんだ」

「休み?」

「そのうち来るだろうって思ってたのに、お前、俺がここに来てから、まだ一回も休んでないだろ!」

「あぁ――」

 無理矢理な話題転換はどうやら成功したらしい。カルヴァンの瞳から怪しい光は掻き消え、何かを思い描くように瞳が宙をさまよう。

「まぁ…取ろうと思えば、取れなくはない。別に、取る必要もないと思っているから取っていないだけだ」

「お前…いつか、本当に、体壊すぞ…」

 ひく、とイリッツァの頬が引きつる。

 ここへイリッツァが来てから二週間ぶっ続けで休みがなかった時点で一度、見かねて疲労回復の魔法をかけてやったが、光魔法を嫌うカルヴァンは「余計なお世話だ」と言って不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。光魔法による疲労回復は、当然だが万能ではない。魔法行使者の魔力をもとに一時的に自由に動ける力を分け与えてやるだけだ。本人がもともと持っている元気の量が増えるわけではない。魔力で一時的に水増ししてごまかすだけのその行為中、根底にある本人が持っている元気も当然目減りし続ける。結局はどこかで必ず、睡眠や休息によって本人がもっているもともとの元気の量を回復させない限り――根本的な疲労回復を行わない限り、いつかプツリと何の前触れもなく電源が切れるようにして倒れてしまう。いくらイリッツァの持つ魔力が規格外とはいえ、光魔法の原理そのものが異なるわけではない。他の聖職者が行使するよりも圧倒的に元気になるのは事実だが、本人の休息が必要だという原理原則は変わらないのだ。

「ぶっ倒れたら看病してくれるのか?」

 にやり、と笑いながら聞いてくるその顔は、完全に揶揄いモードに入った悪童だった。イリッツァは半眼で切り返す。

「あぁ。光魔法で一瞬でな」

「面白みのない奴だな」

 可愛い恋人に枕元で甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうイベントは、もうカルヴァンの人生に訪れることはなさそうだ。くっと喉の奥で笑いを漏らすカルヴァンと呆れかえった表情のイリッツァの二人の間柄は、すでに長年の気安い雰囲気に戻っている。

「お前が取れというなら取る。明日すぐにってのはさすがに無理だが――まぁ、一週間以内に調整はしよう。何かあるのか?」

「いや…単純に体力回復させろよ、っていうのはもちろんあるんだけど――…」

 イリッツァは少しだけ瞳を逸らす。よく見ると、ほんのりと耳が赤い。

「?」

「ん…いや、その」

「なんだ、はっきり言え」

 頬を染めるイリッツァは女らしくてかわいいのは事実だが、あまり女みたいな反応をされ続けると、せっかく切ったはずのスイッチがまた入りかねない。カルヴァンは、努めてそっけなく先を促した。

 どうにも我欲を制御することに慣れきっている婚約者から、こうして本音を聞きだすのは一か月たった今も難しい。

 しばし何やらもじもじと言葉を選んでいたイリッツァだったが、数瞬の逡巡ののち、意を決したように口を開いた。

「その――い、一緒に行きたい、場所が、あって」

「――――…」

「ヴィーが、休みになるの…ずっと、待ってた」

「――――――ほう」

 それはいわゆる、デートのお誘いと思ってよいのだろうか。

 桜色に頬を染めあげて、羞恥でこちらをまっすぐ見れないままに告げられた可愛らしいお願いに、思わず口の端が吊り上がるのを止められない。 

 まさか、イリッツァの方からそんな申し出をしてくれるとは。今日ばかりは神とやらの気まぐれに感謝してやってもいいかもしれない。

「あっ、でも、今週ってなると――ご、ごめん、俺、まだお金周りのもろもろの手続き済んでなくて…当日は立て替えてもらうことになるかもだけど、でも来月にはちゃんと――」

「阿呆か。俺を、嫁を養うことも出来ない甲斐性無しにしてくれるな」

 なんだか男らしい発言をし始めたイリッツァを遮り、さらりとその滑らかな銀髪に指を差し込む。

「そういうことなら、音速で休みをもぎ取ってくる。抱えてる仕事全部リアムに押し付けてでも取る」

「いやそれはリアムが可哀想だからちゃんと調整してやってくれ…」

 差し込んだ手を、同情しきった表情で呻くイリッツァの後頭部へと回し、ゆっくりと引き寄せる。

「へ?――…何?」

「スイッチ入れるお前が悪い」

「はい!?ちょ、さっきしたばっか――」

「うるさい黙れ」

 イリッツァからの可愛らしいおねだりに、カルヴァンは珍しく一日の間に二回目のスイッチを入れて、その桜色の唇を再び長く堪能したのだった。


 ◆◆◆


 その日は、抜けるような快晴の、これ以上ないデート日和。

「――まぁ…薄々、こんなことだろうなとは、想像していた…」

 リアムを涙目にさせながら、最短でもぎ取った休日。

 婚約者に可愛くおねだりされたデートに出掛け、到着した目的地――イリッツァが『一緒に行きたい場所』と表現した所――を前に、カルヴァンは遠い目をしながら軽く上を見上げた。

 王都の複数ある大通りのうちの一つ。イリッツァがこっちこっちと嬉しそうに先導して連れて行った先は、カルヴァンも酷く馴染みのある場所だった。

 見上げた視線の先にある店の看板には――<鍛冶屋>の文字。

 王都にある一番有名な職人がいる店で、量産型の武器や防具も取り扱っている。馴染みがあって当たり前だ。騎士団も兵団もここを贔屓にしているため、何度も来たことがある。ナイード遠征でカルアと名付けられたかつてのリツィードの愛剣を手放すまでは、毎回ここに持ち込んで、店主でもある職人の親父に不満を言われながらメンテナンスをしてもらっていた。

「俺一人だと、何の用だって言われて剣売ってくれないんだ…」

「まぁ……そりゃそうだろうな…」

 それはそれは哀しそうな表情で白銀の長い睫を伏せるイリッツァに、半眼で同意する。常に護衛に囲まれている国家の宝であり、戦いとは無縁の聖女がどうして自ら剣を買い求めるかなど、恐らくこの敬虔な信者しかいない王都民は想像すらできまい。

 イリッツァは、全世界の男を魅了しかねない愁いを帯びた表情のまま、艶めく桜色の唇から悩まし気な熱っぽいため息を一つ漏らす。

「さすがにそろそろ、剣振らないと、体がなまる…」

「――――…お前、表情と台詞が一致してないぞ…」

 この横顔だけで、おそらくそこら辺の男を一瞬で道ならぬ恋の沼に突き落としそうな勢いだが、口から洩れて来る言葉はどこまでも物騒だ。

「はぁ…つまり、あれか。家で鍛錬するための剣が欲しい、と」

「うん」

 迷いなく素直にうなずく美少女に、眉間を抑える。

 思い出した。リツィードの趣味は、確かに鍛錬――トレーニングだった。

 筋力トレーニングと――剣術トレーニング。休日には、わざわざ午前と午後に分けてそれぞれの鍛錬をしていたものだった。

(なんで俺は、自分の貴重な休日を使って、婚約者を更なる筋肉ダルマに作り上げる手伝いをしているんだ…?)

 不毛な問いかけに応えてくれる第三者はいない。この間、一瞬でも神の気まぐれに感謝してもいいなんてらしくない考えをしたのがいけなかったのか。いや、これはもはや、やっぱり神など存在しないという証明に他ならないだろう。

「カルヴァンと一緒なら、オヤジも売ってくれるかな、って」

「はぁ……なるほど?」

 この鍛冶屋は、十五年以上前からずっとここで店をつづけている。店主は当時から変わっておらず、今も昔も「オヤジ」と客に親しく呼ばれていた。リツィードも当然知っていただろう。

 外では人目を気にして、丁寧な言葉遣いを心掛け、カルヴァンのことも愛称で呼ばない婚約者が、前者についてはついうっかり忘れてしまうほど浮足立っているらしい。薄青の瞳が、爛々と期待に輝いている。

「なぁ、頼む。なんとかならねぇ?」

「まぁ…わかった。適当に話合わせろ」

 息をするように我欲を抑え込むことを染みつかせたイリッツァが、自分から明確に『お願い』をしてきた初めての案件だ。命の危険に陥ったときすら助けを求められなかったというのに、まさか、人生で初めて明確に助けを求められるのがこんな局面だとは思わなかった。

 それくらい、彼女にとって、剣術というのは、彼女を構成する大事な要素なのだろう。

(確かに、あの芸術の剣をさび付かせるのはもったいないしな)

 婚約者としてはやや複雑な想いがあるのは事実だが、イリッツァにここまで明確に頼られると悪い気がしないのが始末に負えない。

 カルヴァンは心の中で諦めのため息を吐きながら、店の扉をくぐった。

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