第16話 好きって何なのか、いい加減教えてください。

「少し、事件がありまして…」

「ケガ?」

「あ、いえ、あの…」

 ここで消しゴムのことを言えば、先ほど目が合った田中君に動揺していたことがバレてしまうような気がしました。実際私の行動から、多少の動揺はバレていたように思われます。しかし、私が動揺しているように見えた、という田中君が持っている認識は、私が動揺したと言わない限り、彼の独りよがりな、ちっぽけな妄想に過ぎないのです。ですから田中君と目が合ってドキドキして動揺しました、ということを絶対に知られてはいけません。

「さっき?」

 大変です。私がここで安易に口を開けば、田中君のペースに巻き込まれてしまうような気がしました。私が亀のスローペースで日常を送っているとしたら、田中君はランニングマシンで走るように日常を駆け抜ける人間です。ランニングマシンに亀を乗せたらどうなるでしょうか。転げ落ちてしまうに決まっています。

 咄嗟に口を出た言葉は、

「ブラックホールが…」

 でした。

 廊下からはモヤモヤとした暑い空気が漂っています。扉を開けているため、教室の涼しい空気と廊下の熱い空気とが私と田中君の間で混じり合います。私は恥ずかしさで足裏からドッと熱くなっていましたから、よく分からない温度の空気と羞恥の熱とやらで、自分の額から汗が止まりませんでした。

 私はきっと小野君を一生恨むでしょう。恥ずかしくなって、そのまま教室を勢いよく出ると、廊下を走りました。夏休み明けに買ってもらったおろしたてのシューズが、キュッキュッと気持ちの良い音を立てます。授業が終わった喧騒と、自分の羞恥心とが目の前で交錯しています。

もしかしたら、私は田中君が好きなのではないかと思いました。恋愛なんてしたことがありません。でも彼氏は欲しい。好きって何でしょう。この動揺した気持ちを悟られたくない、という感情は好きとは違うのでしょうか。

私は後ろなど振り向かず、ただがむしゃらに、階段とは反対側の、廊下の一番端にある赤色の女の子が描かれたトイレマークを目指しました。


アディオス、ジェントルマン田中君!私の頬はすでに涙で濡れていました。

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