第20話

 捜査会議の場がどよめいた。エンタメはもっぱら演劇か動画配信サービスで、地上波の番組はめったに見ない烏丸でも、松葉修は知っている。六年前の殺人事件で被疑者が自殺した際、人権尊重の立場から警察批判のきゆうせんぽうに立ったひとりだった。

 烏丸は新たに配布された資料の写真を見つめた。制服に身を包んだ松葉美織は、言われてみれば確かに吉岡みずきに似ている。だが美織はもっとふっくらとして、純真なお嬢さんという雰囲気だった。真珠のような、いや、もっとやわらかい、綿毛のような女の子。

 翌朝いちばんに、父親の松葉修が面通しにやって来た。烏丸もその場に立ち会ったが、女性に人気があるというのもうなずける話で、はげてもいなければ腹も出ておらず、品のいいスーツの上に端整な顔が載っている。母親のほうは体調が優れず来られないとのことだった。

 修はマジックミラー越しに長いこと被疑者を注視したあと、目を閉じて絞り出すように「娘だと思います」と言った。それを聞いた瞬間、胸にどっと空気が流れ込んできた。吉岡の取り調べに着手して以来、初めて息を吸ったような気がする。いや、もう吉岡みずきではない。松葉美織。ついに突きとめた。

 松葉修はそのまま任意の事情聴取に応じるという。捜査一課の古株であるはらが担当を買って出た。昇任試験の勉強をしてる暇があったらひとつでもヤマを解決したほうがいい、が口癖だが、そのぶん目先の手柄にはこだわる。烏丸も口出しはしないという条件で同席させてもらうことにした。

 修は現在、六十四歳。地方の農家の三男として生まれ、奨学金を得て東大に進学。卒業後は総合商社勤務を経て、県会議員の秘書になった。そのひとり娘である松葉塔子と結婚して婿養子に入り、長男の由孝と長女の美織をもうける。のちに義父の地盤を引き継ぐ形で県会議員に当選。三期目の途中で退任し、横浜市長選に出馬するも落選している。以後はコメンテーターに転身した。

「ちゃんと人権は尊重しますから安心してくださいよ、先生」

 まず六年前の警察批判の意趣返しをしてから、原田は吉岡みずきとして報道された写真を机に置いた。

「この写真をご覧になったことは当然ありますよね。先生がレギュラー出演されてる番組でも何度も使われてましたから。いろいろ意見をおっしゃってたようですが、娘さんだとはお気づきになりませんでしたか」

「似ているような気はしました。しかし、ずいぶん瘦せて顔も雰囲気も変わっていたし、名前も違っていたものですから。それに子どものことは家内に任せきりだったので、記憶に自信がありませんでした」

「わかりますよ。私も娘の顔なんぞ目鼻口の数しかわかりません。これが被疑者の顔となると、鼻毛の数まで覚えてるんですがね」

 修はいやみにも冗談にも取り合わない。原田はさげすむようにあぐら鼻をうごめかせた。

「娘さんが失踪したときのことを話してください」

 仕立てのよさそうなスーツの胸が、かすかに膨らんでしぼんだ。修は上着の内ポケットから一通の茶封筒を取り出し、先ほど原田が置いた写真の横に置いた。サイズは長3で、横浜の住所と「松葉修様」という宛名が印字されている。

「これは?」

「娘が失踪する二日前に送られてきたものです。中をご覧ください」

 手袋をはめた原田が封筒から取り出したのは、三つ折りにされた白い紙だった。開いたとたん、原田のけんに深いしわが刻まれた。

「……松葉美織を誘拐した。二十三日の朝までに一千万円を用意しろ。警察には知らせるな」

 烏丸は思わず口を開きかけ、原田にじろりとにらまれた。そのままの目つきで原田は修へと視線を戻す。

「娘さんは家出したのではなく誘拐されたんですか?」

「順を追ってお話しします」

 修の説明はよく整理されていた。脅迫状を持参したことからしても、面通しの要請を受けたときから覚悟はできていて、もとよりこの話をするつもりで来たのだろう。

「つまり、美織さんは保護されたあとで自分から姿を消したんですね。誘拐されて戻らなかったわけじゃなく」

「ええ。病院の防犯カメラにもみずから抜け出す姿が映っていました。その後の足どりはわかりませんでしたが」

「あなたは行方不明者届を出した際にも、誘拐事件のことは伏せたわけだ」

 原田の鼻息で松葉美織の写真が飛んだ。修は警察に通報しなかった理由を、美織の安全を優先したのと、選挙運動中だったので素行に問題のある娘に世間の注目が集まるのを避けたかったからだと語った。

「ご立派な方は大変ですな。すると、ご家族と秘書以外で誘拐事件のことを知っているのは、息子さんに代わって身代金の運搬役を務めた、えー……」

「小塚旭」

「その小塚だけですか」

「はい。彼にも口止めをしました」

 修は痛みをこらえるように目を細めた。

「実は私は、あの誘拐は狂言だったんじゃないかと思っているんです」

「狂言? 美織さんの自作自演だったと?」

「状況からして共犯者はいたんでしょうが」

「心当たりが?」

「いいえ。私ども家族は皆、美織の交友関係はさっぱりで。退学手続きをする際に、学校で親しくしていた友達がいないかとさりげなく担任に訊いてみたんですが、あの子はいつもひとりだったようです」

「じゃあ、子どもの父親についてもやっぱり心当たりはありませんかね。お気づきだと思いますが、美織さんが失踪したのが二〇一一年十一月二十三日ということは、その時点で長男を妊娠していたわけだ。今回の事件で保護された男の子です」

「……わかりません」

 修の喉仏が大きく上下した。存在さえ知らなかったとはいえ、彼にとっては孫だ。

「今にして思えば、あのときの選択が大きな分かれ道だったのかもしれません。最初から警察に通報していれば、美織はおそらく逮捕されていたでしょう。金を手に入れることも、失踪することもできなかった。ひそかに子どもを産んで、虐待の末に命を奪うことも。私の間違った選択が娘に人生を誤らせたのかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみきれません」

 その言葉に噓はないように見えた。だが、もしその時点で美織を止められていたら、修は娘に子どもを産むことを許しただろうか。

「ちょっと休憩してから、今度は美織さんの成育歴について聞かせてもらえませんかね。あと、この脅迫状、お預かりしてかまいませんか」

 修に向ける原田のまなざしに同情はない。

 どちらも了承してから、修は伏せていた目を上げた。

「刑事さん、ひとつ教えてください。保護された男の子の名前は何というんですか。亡くなった女の子のほうは報道されていたが、そちらは伏せられていたから」

「夕夜です。夕方に夜と書いて。と言っても、子ども自身がそう言ってるだけで確認は取れてませんがね」

「夕夜」

 かみしめるように名前を口にする彼は、急に歳を取ったように見える。

「……亡くなった女の子の写真を見ました。小さいころの美織にそっくりでした」


「松葉美織さん」

 烏丸の呼びかけに、昨日まで吉岡みずきだった女の顔がこわばった。

「一九九六年三月十八日生まれ。父・松葉修、母・塔子、兄・由孝との四人家族。生家は横浜で、神倉の私立麗鳴館学園に通うも、高校一年のとき十五歳で退学。二〇一一年十一月二十三日に失踪。戸籍を見せてもらったけど、結婚歴はなしで、子どももいない。これってどういうこと」

 身を硬くした美織の襟ぐりから、つかんで取り外せそうな鎖骨がのぞいている。警戒しながら威嚇する野良猫のような両目が、こちらがどこまで知っているのか探ろうとしている。顔そのものは同じであるにもかかわらず、やはり高校時代とは別人だ。

 ただし、松葉夫妻が我が子だとわからなかったという話には、捜査員の多くがあきれるか腹を立てるかだった。本当はわかっていたのに知らんぷりをしていたんじゃないかと疑う者もいた。事実はどうであれ、松葉家が極端に体面を重視してきたのは事実のようだ。娘が娘なら親も親──そんな言葉をあちこちで聞いた。

「あなたのお父さんから話を聞いたよ。あなたが家出したのは、家族とうまくいってなかったせい?」

 美織は探る目つきのまま答えない。吹出物がくっついた額に、うっすらと汗がにじんでいる。

「失踪してから神倉に移り住むまでの八年間、どこでどうしてたの。夕夜くんも真昼ちゃんもその間に生まれたわけだけど、ふたりの父親は? どんな暮らしをしてた。収入は? 育児は?」

 その期間の足どりについて、さっそく捜査が始まっている。松葉美織という人間を知るために身上と生活史の調査は欠かせないし、育児放棄が今回だけのことなのか、他の虐待も含めて恒常的におこなわれていたことなのかも把握する必要がある。

「失踪する前に、あなたは誘拐事件に巻き込まれたよね」

 そのときの美織の反応は、今までになく顕著だった。まぶたのくぼんだ目がぎょろりと動き、低い声が閉じっぱなしだった唇を割って出てきた。

「……何それ」

 心臓の拍動を感じ、烏丸ははやるなと自分を戒める。

「その件も併せて捜査することになったよ」

 たとえ狂言誘拐だったとしても、外形的事実としては身代金目的の誘拐事件だ。別件に手を広げることで本来の捜査に支障が出るという懸念もあったが、検察との協議の結果、誘拐事件についても捜査をおこなうという方針に決まった。担当検事は虐待を厳罰化すべしという意見の持ち主で、松葉美織を丸裸にし、できるだけ量刑を重くする心づもりらしい。

 美織が動揺しているのは明らかだ。初めてこちらが優位に立った瞬間だった。

「最初の質問に戻るよ。夕夜くんと真昼ちゃんの戸籍はどうなってるの」

「……ないよ」

 しばしの沈黙のあと、烏丸をにらみながら美織は答えた。烏丸は内心のこうようを押し隠し、瞳の奥にあるものを見つけ出そうと目を凝らす。

「ない?」

「あの子たちは、いない子だから。生まれてない子だから」

 思わず眉間に力が入った。その可能性も考えてはいたけれど。

「出生届、出してないの?」

 出生届を出していないのなら、戸籍はない。行政上、子どもたちは生まれておらず、存在していない。しかも美織は子どもがいることを誰にも知られないようにしていた。

 いない子。

 それきり美織はまた口を閉ざした。

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朝と夕の犯罪 降田天/小説 野性時代 @yasei-jidai

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