第8話


 十一月の二週目に入ったその日、図書館へ行ったのも、見られたらラッキーというくらいの気持ちだった。建物は古くちっぽけで、色づき始めたイチョウに埋もれている。日が傾き冷たくなってきた風が、冬の先触れのように葉を鳴らす。

 自動ドアを通り抜け、独特のにおいのする空気を吸い込んだ。図書館は好きだ、たぶん。アサヒは何事に対しても強い関心を持てない。本を読み音楽を聴き映画を観るけれど、好きでそうしているのか、それが普通だからそうしているのか、自分でも判然としない。普通の生活になじもうとして、注意深く人のまねばかりしているうちに、いつの間にかわからなくなっていた。それでも図書館は好きなのだろうと思うのは、このにおいを嗅ぐと落ち着くからだ。

 いつもどおり利用者がまばらな閲覧室に、その姿はあった。何度も写真を見ていたから、ひと目で松葉美織だとわかった。制服姿で長い黒髪を片方だけ耳にかけ、帰り支度をしているようだ。

 ついに会えた。体温が上昇する。アサヒはロビーに引き返して待機し、やがて出てきた美織のあとを追った。

 美織は図書館に隣接する小さな公園へ行き、自動販売機で何か湯気の立つ飲み物を買って、ベンチに腰を下ろした。スクールバッグから文庫本を取り出して読み始める。伏せたまつがそよぐように長く、優しい曲線を描く横顔は写真で見たときよりきれいに見えた。

 唇にほのかな笑みをたたえて、何を読んでいるのだろう。タイトルが見えなくて、アサヒは少し距離を詰めた。しまったと思ったときには遅く、美織が気づいて顔を上げる。しっかり目が合ってしまった。

「何を読んでるんですか」

 不審に思われないよう、とっさに平静を装って話しかける。美織は警戒するふうもなく、おっとりとほほえんで表紙をこちらへ向けた。『ドン・キホーテ』──タイトルは知っているが読んだことはない。

「狂った男が風車を巨人と思い込んで立ち向かう話ですよね」

「そのエピソードばっかり有名だけど、それはほんの一部なんです。全体はかなり長くて、いろんな冒険があるんですよ」

 答える声はやわらかく、どこかあどけない。

「好きなんですか」

「はい、とっても。本は持ってるんですけど、今は人に貸してて。読みたくなって図書館に来たら、ちょっとのつもりがやめられなくて借りちゃいました」

「そんなに」

「ドン・キホーテと従者サンチョのやりとりがすごく楽しいんです。ずっと聞いてたくなる」

「聞いて……」

「あ、読んで、ですね」

 美織は本を胸に抱き、とても幸せな夢を思い出すように語る。その様子をアサヒはしげしげと眺めた。じかに会って話しても、やはり目の前の少女と犯罪が結びつかない。それどころか違和感はいっそう強くなった。この白い綿毛のような女の子が、自分の親をだまして金を奪おうとしているなんて。このきれいな手で万引きをして、制服のそでの下に自傷のあとを隠しているなんて。

「だからラストは悲しいんですけど」

 どんなラストなのかと訊こうとしたとき、公園の外灯が灯り、アサヒは腕時計に目をやった。そろそろユウヒのアパートに向かわなければならない。

 あまり暗くならないうちに帰ったほうがいいと言いかけたが、余計なお世話だろうと思い直した。適当にあいさつをかわしてその場を離れる。

 しばらく歩いて振り返ると、美織はまだベンチで本を読んでいた。さっきよりも冷たくなった風に、長い髪がふわりと揺れる。美織はどこもかしこもやわらかそうだった。


 9


「おまえもそういう歳か」

 運転席に乗り込んできたお父さんは、にやにやして言った。子どもたちが眠っている間に煙草を買ってきたらしく、白い煙を窓の外に吐き出す。夏の明け方のことで、ユウヒは額に玉の汗を浮かべて夢のなかにいた。

 違うよ、とアサヒは慌てて否定した。慌てたせいで舌がもつれる。

「目が覚めたらひとりで、そこに新聞があったから」

 助手席は荷物置き場と化していて、いちいちトランクにしまうのは面倒な雑多なものが積み重なっている。お父さんがどこかで拾ってきたそのスポーツ新聞は、中の面を開いた状態でいちばん上に放り出されていて、そこには半裸の女の人の写真が掲載されていた。胸からあふれて落ちそうな乳房だった。

「見てたわけじゃないよ」

「こういうのに興味が出てくるのは当たり前のことだ。アサヒはどんな女の子がタイプなんだ。ん?」

「だから違うって。知らないよ」

「考えてみりゃ、おまえは実際の女の裸は見たことないんだな。赤ちゃんのときに見たお母さんのおっぱいなんて覚えてないだろ」

 アサヒはシートにどすんと背中をつけ、両手で耳をふさいだ。この話を続けるのは嫌だと露骨にアピールしているのに、お父さんはこちらを見ていない。窓から手を出して煙草の灰を落としながら、首をひねって助手席の半裸の女を見ている。

「いいか、同じ男としてアドバイスだ。女はちょっとぽちゃっとしてるくらいの、やわらかいのがいい。ガリガリやムキムキはだめだ。毛布だってパンだってやわらかいほうがいいだろ?」

 窓枠から剝がれて垂れているゴムを、アサヒはサンドバッグのように殴った。でも、この拳はまだ男の拳ではないから、猫がひもにじゃれているみたいでかっこ悪い。アサヒは不機嫌な顔で無視を決め込んでいたが、「同じ男として」というフレーズだけはうれしかった。

「しかし、そうか。アサヒがそういう歳になあ。やだねえ」

 お父さんはひとりで陽気にしゃべり続ける。毛布の季節なら頭からすっぽりかぶりたいところだったが、しかたがないのでTシャツの襟を引っ張って頭のてっぺんまで持ち上げた。息がこもって顔が熱いし、汗くさいし、最悪だ。

 お父さんはしばらくしゃべっていたが、しだいにその声が弱々しくなり、うつろな感じになって、ぷつりと消えた。それから長い沈黙のあと、別人の声でつぶやいた。

「いつまでもガキのままじゃないんだよな……」


 10


 美織と会ったあと、アサヒは帰りの電車のなかで『ドン・キホーテ』のあらすじを調べた。騎士道物語の読みすぎで狂気に陥った男の冒険たん。美織が悲しいと言ったラストは、彼が正気に戻って死ぬというものだった。

 アサヒは小説を購入して読み始めた。文庫本で六冊もあったが、美織があれほど好きだという物語に興味を引かれた。

 ドン・キホーテという男は、なんとなくお父さんを思い出させる。明らかにまともではない行動をとりながら、いかにももっともらしい理屈を並べ立てるところが。ならばその理屈に丸め込まれ、彼を慕ってともに旅をする従者サンチョは、かつての自分とユウヒだろうか。最後に死んでしまうところまで、ドン・キホーテとお父さんは同じだ。ただし、お父さんは正気に戻らないままだったけれど。

 小説はまだ出だしで、ドン・キホーテはサンチョと出会ってさえいない。一方、誘拐計画のほうはまずまず自信の持てる形に仕上がってきた。やっぱり頭を使うことは兄ちゃんだ、兄ちゃんを仲間に入れたのは正解だった、とユウヒは感心しきりだった。

 アサヒは松葉修の選挙事務所にボランティアスタッフとして採用された。投票日まで二週間。右も左もわからなかったが、わからなくても特に困ることはなさそうだった。やれと言われた作業をやるだけだ。

「お疲れさま」

 ポスターの裏にテープを貼っていると、松葉由孝が隣の椅子に腰を下ろした。松葉修の長男で、美織の兄。順調にいけば身代金の運搬役を務めることになる男だ。アサヒよりふたつ年上だが、東大に入るために三浪しているので学年はひとつ下だという。由孝は初対面のときに自分からあっさりとそう明かした。

「テープ貼りなんてつまらないだろう」

「いえ、単純作業は嫌いじゃないので」

「実を言うと僕もだ」

 こちらに向ける笑顔は、涼しげで端整だ。

 事務所内には老若男女が入れ替わり立ち替わりして、それぞれの作業をこなしつつ雑談を交わしている。アサヒも話しかけられれば応じるし、周囲から浮かないように振る舞っているつもりだが、それは小塚家に引き取られて以来の習い性のようなもので、社交はおしなべて苦手だし下手だ。「そうですね」「そうなんですか」「なるほど」──ひどいときはこの三つのローテーションのみで乗り切っていることを、誰にも気づかれていなければいいのだが。敬語を使うかどうかの違いだけで、学校でも似たようなものだった。

 そんなアサヒには珍しく、由孝との会話は苦にならない。まったくとは言わないが、ほとんど身構えずに話せる。こちらのことを根掘り葉掘りかないからだろう。

 由孝の所属する社会階層を考えれば、ストレートで東大に入って当然で、三浪というのはけっして褒められた話ではないはずだった。彼が他人に対して必要以上に踏み込まないのは、苦労人ゆえなのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る