第7話
了解、とユウヒは肩をすくめて向かいに腰を下ろした。
「誘拐のターゲットは、
松葉修。知らない。娘は十五歳というと、妹の彩と同い年だ。
「中学生?」
「いや、高一。神倉にある
「その子はなんで狂言誘拐に協力するんだ。おまえの彼女なのか」
「違うよ。ミオ自身も金を欲しがってんの。家を出るために」
「家族と折り合いが悪いのか」
「ミオが学校サボってるの知ってても、親は何にも言わないんだってさ。自傷行為で病院に運ばれたときも、万引きで補導されたときもそうだったって。ただ黙ってもみ消して、なかったことにしたらしい」
アサヒに口を挟む隙を与えず、ユウヒは先手を打つように言葉を継いだ。
「ミオはいい子だよ。本が好きなおとなしい子。あ、写真見る?」
返事を待たずに携帯電話を操作して画像フォルダを開く。松葉美織の写真は何枚もあって、ユウヒとふたりで写っているものもあるようだったが、ユウヒが表示したのは美織がひとりでイチョウの木の下にたたずんでいるものだった。いかにもお嬢さま学校らしいブレザーの制服に身を包み、はにかんだようなほほえみを浮かべている。長い黒髪が風にそよぎ、色白のふっくらとした頰にかかっている。
「この子が……?」
「問題行動を起こしたり、狂言誘拐で実の親から金をふんだくろうとするようには見えない? 兄ちゃんだって犯罪を犯すようなやつには見えないけど」
ユウヒはその写真をアサヒの携帯電話に送ってきた。
「ターゲットの顔は知っときたいだろ。あ、ひょっとして好みだったりする?」
冗談をアサヒは無視した。
「それで?」
ユウヒは携帯電話を畳んで、ぽいと床に放り出す。そんなふうにするせいだろう、殺風景な部屋のあちこちに不規則に物が散らばっている。再会したときに背負っていたバックパック、公共料金の領収証や宅配ピザのメニュー、コミックやDVDや文庫本。
「古いデータだけど、身代金目的の誘拐事件の検挙率は九十五パーセント以上で、犯人が身代金を奪ったまま逃げ切った例は一件もないんだって。つまり、警察に捜査されればまず捕まると考えたほうがいい。捕まらないためには警察を介入させないことが重要ってわけ。ミオの問題行動をもみ消してることからもわかるとおり、松葉家は世間体を重んじる。しかも父親の松葉修は、次の
説明する準備はできていたという口ぶりだった。アサヒが引き受けることを確信していたのだと思うと腹立たしい。
「兄ちゃんにはその見極めをやってもらう。松葉の選挙事務所にボランティアのスタッフとして潜り込んで、警察の介入があるかどうかを探るんだ。兄ちゃんならすぐ信用を得られるよ。見るからに誠実そうだし、名門大の政経学部の学生だしさ」
「……なるほど、それで俺か」
水をくれとアサヒは要求した。手渡された水を一気に飲み干し、拒否するという選択肢はないのだと改めて自分に言い聞かせる。
「条件がふたつある。ひとつは、俺が協力者だとは誰にも明かさないこと。共犯者である美織にもだ」
条件を付けられる立場ではなかったが、ユウヒはそうは言わなかった。
「いいよ。ミオを安心させるために内部に協力者を確保したことだけは話すけど、それが兄ちゃんだとは言わない。ふたつ目は?」
「身代金の要求額を一千万円に減額すること。俺の取り分はいらない」
「見返りなしでやるっての?」
「俺はおまえに脅されたからやるんだ。自分の人生を守るために。金のためじゃない。要求額が少ないほうが成功率は高まるはずだし、そっちにとっても得だろ」
ユウヒはキッチンへ行き、マグカップとグラスを持って戻ってきた。マグカップは前に出されたハローキティで、グラスはキリンビールのロゴがプリントされたものだ。中身はコーラのようだった。
アサヒの前にグラスを置き、乾杯を求めるようにマグカップを掲げる。
「再会とチーム結成を祝して」
まるで心から笑っているような笑顔で。
アサヒはマグカップの縁を一秒見つめ、そこに自分のグラスを当てた。安物の厚いガラスと陶器がぶつかる音は、なぜかお父さんの拳を思い出させた。
閉じたタウン誌が目に入る。リニューアルしたつるかめ湯。お父さんの死を知らされたときのあのユウヒの沈黙を、アサヒは今も忘れることができない。
アサヒが加入した時点で、ユウヒと美織が立てていた計画はおおざっぱなものだった。
美織を誘拐したことにして
それですべてだ。まるで具体性に欠ける。
「あ、でも身代金を運ばせるやつは決まってるんだ。ミオの兄貴、
「理由は」
「適任だってミオが」
性格的にということだろうか。即断はできないが、松葉夫妻や秘書を動かすよりはよさそうだ。警察に通報されないために市長選のタイミングを狙うのに、そこで彼らに妙な行動をさせては、かえって目立ちかねない。
アサヒは誘拐事件の記事や捜査員の手記などを手当たりしだいに読んだ。身代金の受け渡し方法と場所、そこへ至るまでのルート、相手への連絡手段、その他もろもろ、考えなければならないことはいくらでもある。必要な道具もそろえなくてはいけないし、下見だって必要だ。やるしかないのなら、必ず成功させなくてはならない。失敗したら、最悪の場合、身の破滅だ。
突然、部屋のドアが開かれ、アサヒはとっさにノートパソコンを閉じた。振り返ると、彩が廊下からこちらをにらんでいた。十一月だというのにショートパンツをはいている。むき出しの細い脚がドアの内側へ入ってくることはけっしてない。そもそも部屋に近づくことすらめったにない。
「ノック……」
「したよ」
アサヒの抗議を、彩はいまいましげに遮った。噓ではないだろうし、声もかけたのだろう。気づかないほど没頭していた自覚はある。
「ごはん」
とげとげしくひとことだけ告げて、彩はさっさと立ち去った。母に言われてしかたなく呼びに来たのだと全身で示していた。
アサヒは息を吐き、パソコンに載せていた手を下ろした。今この画面には、松葉修のホームページが表示されている。横浜市長選は十一月二十七日だが、選挙事務所はすでに稼働しており、ボランティアスタッフを募集していた。
立ち上がり、部屋の明かりを消して一階へ下りる。父が厄介な患者についておもしろおかしく話す声が聞こえてくる。食卓には
「このごろがんばってるみたいだけど、レポートか何か?」
アサヒの茶碗にごはんをよそって母が尋ねる。
「うん、ちょっと面倒なやつで」
「あんまり根を詰めすぎないようにしなさいよ」
「大丈夫だよ」
実際、睡眠時間をだいぶ削っているにもかかわらず、神経が
「これから帰りが遅くなる日が増えるかも。グループでやる課題だから集まらないといけなくて」
「そう。ごはんがいらないときは連絡してね」
むかつく、と彩が顔を背けて言った。視線の先には老犬が寝そべっている。ココアの体調がよくならないせいで、最近の彩は特に機嫌が悪い。病気ではないと診断されたのだから老衰だろうが、どうしようもないことがはがゆくて、どうしようもないからアサヒに当たる。
「ココアの具合が悪くても関係ないってわけ」
「課題だから」
「楽しそうじゃん」
アサヒは目をしばたたいた。楽しそう?
「彩、旭は遊んでるんじゃないんだから」
父がとりなすと、彩はむっつりと黙って食事を始めたが、その前にアサヒをひとにらみするのは忘れなかった。美しいがきつい顔立ち。同い年でも松葉美織とは印象が正反対だ。写真で見ただけだが、木漏れ日のなかでほほえむあの子と犯罪がどうしても結びつかない。
計画を練るため、アサヒはしばしばユウヒのアパートを訪れていた。東京から通うのは面倒ではあったが、会話の内容が内容だけに、他人の耳目を気にしなくていい場所があるのはありがたい。そしてそのうちの何度かは、ユウヒと会う前後の時間に麗鳴館学園や市立図書館へ足を運んだ。できれば松葉美織をじかに見てみたかったからだ。こちらの顔を知られたくないので、こっそり観察するつもりだった。しかし今のところ成功しておらず、美織と犯罪のギャップは大きくなるばかりだ。盗み見るという行為はなんとなく後ろめたくて、ユウヒには言っていない。
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