第9話

「そろそろ切り上げて、たまには何か食べて帰らないか」

 由孝から個人的な誘いを受けるのは初めてだった。彼が夕飯に選んだのは、最近オープンして評判がいいというラーメン店だった。複数のメディアに取り上げられ、飯時や休日には大行列ができるのだという。早めに来られたので今は数人が待っている程度だが、店の壁には「近隣のご迷惑になりますので」と並び方を指示する張り紙があった。

「ラーメン……」

「苦手だった?」

「あ、いえ、俺の知り合いがラーメン店に勤めてて、食べに来いって言われてたなって」

「けんかでもした?」

「まあ、そんなとこです」

「ちなみに、ここはワンタンめんが売りらしいよ」

 なるほど、入り口脇の看板にもでかでかと書いてある。アサヒは海老ワンタン麵を、由孝は人気ナンバー2だという肉ワンタン麵を注文した。海鮮はあまり得意ではないようだ。

 まずスープをひとくち飲んだ由孝が、ふう、と息をついた。

「ああ、染み渡る。昨夜ゆうべは応援弁士との内交渉ってやつに同行したんだ。いい機会だから将来のために勉強しておけって言われたんだけど、やっぱりああいう場は肩が凝るよ」

「由孝さんもお父さんと同じ道に?」

「意義ある仕事だとは思ってるけど、はっきり決めてはいないよ。目指したからといって必ずなれるものでもないしね」

「由孝さんならなれますよ」

 お世辞ではなかった。選挙事務所での由孝は、客観的に見てとても感じがいい。昨夜のように専門的な案件に関わる一方で、ビラ配りなど体を使う仕事や掃除などの雑用も嫌な顔ひとつせずにこなす。事務所をふらりと訪ねてきた町内会の人にも、謙虚かつ気さくに接する。スタッフが由孝を悪く言うのを聞いたことがないばかりか、このたった数日の間にも、本人のいないところで褒めているのを何度も耳にした。

 印象的だったのは、年配のスタッフが口にした「やっぱり血筋だね」という言葉だ。「親の育て方がいいのね」というのも聞いた。

 事前にユウヒから得た情報によると、松葉家というのはこの地域に代々続く名家で、先代当主も県会議員だったそうだ。由孝と美織の母であるとうは、その先代のひとり娘だった。修は婿養子に入る形で、松葉の姓と義父の地盤を継いだのだ。

 松葉夫妻に対する地域の信望は厚い。大きな目に活力があり弁舌さわやかな修と、上品な美人で常に腰の低い塔子。アサヒ自身が修と言葉をかわしたのは、働き始めた初日の一度きりだが、修はアサヒの目をまっすぐに見て「よろしく頼むよ」と言った。塔子の接し方はさらに丁寧できめが細かく、折に触れてねぎらいや感謝の言葉をかけてくれる。見ていると、誰に対してもそうらしい。単に有権者や支援者の心をつかむためのテクニックなのかもしれないが、娘の不祥事をもみ消すというので漠然と描いていた、ごうまんあくらつな人物とは印象が違った。

 理想の夫婦だと人は言う。そこに由孝を加えれば、理想の一家となる。

 だが、その一家に長女は含まれていない。松葉家について語られるときに美織の名が出ることはほとんどなく、たまに出たとしても、小さいころはかわいかったとか神倉の名門女子校に通っているというくらいで、現在の彼女のことは誰もよく知らないようだ。

「まあ、ゆっくり考えるよ。息子だからって安直に跡を継ぐべきじゃない」

「そういえば妹さんもいるんですよね」

「ああ、誰かから聞いた? 美織っていって高一なんだけど、彼女はそっちの道には進まないと思うよ。政治にはまったく興味がないみたいで、選挙の手伝いをするどころか、父が当選しようが落選しようが関係ないって顔してる。本人の自由だから、それでいいんだけどね」

 由孝の口調はごく自然で、美織に関する話題を避けたがっているそぶりはない。しかし、それ以上語ることもなかった。もう少し詳しく訊いてみたかったが、しつこくつついて、のちのち不審に思われても困る。

「そう言う君は?」

「え?」

「政経学部だし、多少なりとも政治に興味があるからうちに来たんだろう。実家が歯科医院なのに違う道を選んだんなら、それなりの考えがあるのかと思ってさ」

 由孝がそんなことを気にとめていたとは意外だった。

 アサヒは海老ワンタンを口に入れた。うまいはうまいが、しょっちゅう食べるものでもないので、よそと比べてどうなのかはわからない。

「政経学部に入ったの自体ちょっと興味があっただけで、将来的にどうとか考えてるわけじゃないです」

 彼を欺くために言葉を濁したわけではなく、本当のことだ。

「僕だって似たようなものだよ。将来なんて……」

 由孝はそこで言葉を切り、あとはふたりとも無言でラーメンを平らげた。狭いカウンター席で肩を並べて麵をすする時間は、妙に落ち着くものだった。

 食べながら、アサヒはふいに松葉塔子と母がよく似た種類の女であることに気づいた。塔子に対してなぜか苦手意識があったのだが、それでかと納得する。母親似の上品な容姿に似合わず由孝は早食いで、彼がはしを置いたとき、アサヒの丼にはまだ麵が三分の一ほども残っていた。

 それぞれ自分の食事代を支払って店を出る。途中まで一緒に帰る道すがら、互いの大学の話をした。レポートのために読まなければならない本があるのだが手に入らなくて困っているとアサヒが言うと、由孝は書名を尋ねた。マニアックな研究書ですでに絶版になっているものだ。言ってもわからないだろうと思ったが、由孝の反応は予想外のものだった。

「それなら持ってるよ。興味があって、ちょっと前に古書店で探して買ったんだ。よかったら貸そうか。なんならこれからうちに寄ってくれたら、すぐ渡せるけど」

 一瞬、返事に詰まった。由孝の家ということは、美織の家でもある。もし美織と鉢合わせしたら、図書館に続いて二度目の遭遇だ。自分が誘拐計画の一員であることは極力隠しておきたいのに、感づかれてしまうかもしれない。

「突然行ったりしたら、ご家族にご迷惑じゃ」

「両親はそろって会食、妹はたぶんいないよ」

「……それなら」

 松葉邸は、横浜はやまの高級住宅街にあり、ひとことで言うと豪邸だった。驚くほど広い敷地を背の高い塀が囲んでいる。警備会社のステッカーが貼られた門を抜けると、手入れの行き届いた和洋折衷の庭の向こうに、こうそうでしゃれた洋風の家屋が姿を現した。お父さんの言うところの「金持ちの家」。初めて小塚邸を見たときにもそう思ったものだが、その比ではない。この家ならば一千万円の身代金など安いものだろう。

 身代金の対象となる少女が在宅しているのかどうかはわからなかった。家の中はしんとしている。花がけられた玄関はきれいに片付いていて、靴は一足も出ていない。

 由孝はアサヒを二階の端にある自分の部屋へ案内した。途中さりげなく注意していたが、美織の部屋がどこにあるのかは見当もつかなかった。やはりいないのだろうか。この間のようにどこかで本を読んでいるか、街をふらふらしているのかもしれない。それとも、ひょっとしてユウヒと一緒なのか。

 そんなことを考えていて、由孝の言葉への反応が少し遅れた。

「すぐ出すから、ちょっと待ってくれ」

「……すごい量ですね」

 由孝の部屋には巨大な本棚が三つもあり、そのすべてにぎっしりと本が詰まっていた。ざっと背表紙に目を走らせる。『パサージュ論』『真理と方法』『自殺論』『親族の基本構造』『ヒンド・スワラージ』──有名なものも知らないものもあるが、哲学や思想に関する本が多いようだ。小説や漫画などエンターテインメント作品は見当たらない。

「父や祖父から譲られたものもあるから。気になる本があったら、どれでも持ってっていいよ」

 由孝は詰め込み具合がいちばんましな本棚の奥から、目当ての本を取り出した。手つきが慎重なのは、ページがばらけてしまう恐れがあるからだろう。

「状態が悪くて申し訳ない」

「いえ、ありがとうございます」

 より慎重に受け取った本からは、図書館のにおいがした。

 由孝がじっとこちらを見ていた。ほほえんでいたが、その目にはわずかな緊張があった。

「母以外でこの部屋に入ったのは君で二人目だ。一人目は小学校一年生のときに一週間だけ来た家庭教師」

 言われてみれば、アサヒのほうも友達の部屋に招かれた経験はなかった。普通の人のまねごとができるようになるまで友達は皆無だったし、のちにできた友達ともそういう付き合いはしてこなかった。

 アサヒが漠然と感じたこうようを、由孝も感じているらしい。

 だがそれが言葉として表された瞬間、アサヒの熱は冷めていった。彼との間に引かれた見えない線を意識する。

「他に何かいる?」

「とりあえずこれだけで。ありがとうございます」

 アサヒはそそくさと松葉邸をあとにした。

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