第4話

 けれど何も起こらず、三人は境内に到着した。お社がひとつと手水舎ちようずやがあるだけの小さな神社だ。おっ、とうれしそうな声を出したお父さんが、急に足を速めてお社に近づき、誰かが供えたカップ酒を手に取った。すぐには開けず、ジャケットのポケットに突っ込んで、お社の正面に立つ。

「ほら、ユウヒもこっち」

 呼ばれたユウヒは、境内にある大きな切り株のそばにしゃがんでいる。切られたのか倒れたのかは知らないが、もとは立派な木だったのだろう。そういう場所にはよく小銭が供えられていて、ユウヒはそれをせっせと集めているのだ。

「俺、もうやったよ。ふたりとも遅いんだもん」

「お、そうか」

 アサヒはお父さんの隣に並んで立った。二拝二拍手一拝。ただし拍手の音は控えめに。ふたりの動作のタイミングはかんぺきにそろう。

 寺社では参拝しなくてはならないとお父さんは考えていて、息子にもそうさせる。そして小さな声で「3H、3H」と唱える。健康(health)、幸せ(happiness)、愛情(heart)、だそうだ。3はHの数ではなくて、家族三人の3だ。家族三人、健康に幸せに仲良く生きていけますように。それから賽銭箱に手を伸ばす。

 参拝客の多い寺社を狙うほうが、当然、収獲は大きいはずだ。でもそういうところは、夜は境内に入れないようにしてあったり、防犯カメラをしかけてあったり、小まめに賽銭を回収していたりする。

「なんだよ、しけてんなあ」

 手際よく賽銭箱を開けたお父さんが舌打ちをした。お父さんがポケットから出した軍手をはめ、ズボンの腰のところに挟んでいたバールを使って賽銭箱の引き出しをこじ開けるまで、二十秒もかからない。その間、アサヒは懐中電灯でお父さんの手元を照らしている。丸い光のなかに現れたのは、百円玉と十円玉と五円玉がそれぞれ数枚ずつだった。小さい神社とはいえ少なすぎる。廃れてしまった神社なのか、たまたま回収されたばかりだったのか、何にせよついてない。

「こっちもこんだけ」

 ユウヒが切り株のそばで不満げに片手を突き出してみせる。暗くて見えないが、小さな手のひらに収まる量ということだ。

「マック、無理?」

 ここへ来る前に行った寺でも稼ぎは少なかった。頭のなかで足し算をして、引き算をする。バーガー単品と、お父さんの煙草代。ガソリンはまだ大丈夫だけど、明日か明後日あさつてには銭湯に行きたい。

「今日は無理だな」

「これ足しても?」

 アサヒは弟に近づいていって、手のひらの小銭を見てやった。

「もうちょっと」

「兄ちゃん、それ貸して」

 懐中電灯を渡してやると、ユウヒは腰をかがめて切り株の周りを探し始めた。

 アサヒは口内に湧いてきた唾を飲み込んだ。マックのことを考えたせいだ。ポテトはごみ箱をあされば高確率で食べ残しが手に入るから……。

「帰るぞ」

 お父さんが煙草を吹かしながら歩いてきた。

「もうひと仕事しないの?」

「ひと仕事って」とお父さんは苦笑したが、何がおかしいのか、何が苦しいのか、アサヒにはわからなかった。

「今日はだめだ、ツキがない。いいか、こういうときに意地になってばんかいしようとすると、ろくなことにならないんだ」

 ラジオでよく流れる、明日があるさ、という歌を、お父さんは陽気に歌う。

「でも……」

 そりゃお父さんはお酒が手に入ったからいいんだろうけど、という言葉が喉まで出かかった。煙草もあるし、食べ物というだけなら、昨日コンビニでかっぱらったパンとスナックがある。

「十歳の子どもがそんな顔するな。よーし、今日は特別に二本だ」

 兄弟はぱっと顔を見合わせた。薄暗いなかでも、ユウヒの大きな目が輝いているのがわかった。自分も同じだろう。

 二本というのは、スティックシュガーの本数だ。フードコートや、ごくたまに飲食店に行くと、セルフサービスで置いてあるそれをごっそりつかみ取ってくる。水道水に混ぜて飲むのもいいが、粉薬みたいにじかに口に流し込むほうがアサヒもユウヒも断然好きだ。問題はそのあと、舌の上でじっくり溶かして味わうか、かんで歯触りを楽しむか。前にユウヒに「兄ちゃんって溶かす派? かむ派?」と訊かれ、悩んだ末に「どっちかっていうと溶かす派」と答えたものの、毎回迷う。だけど一日一本という決まりがなければ、どちらもあきらめなくていい。

 ユウヒはたちまち機嫌を直し、石段を下りる足どりは弾むようだった。今度はアサヒもユウヒのすぐ後ろについていった。懐中電灯をお父さんに渡してしまったので足元は真っ暗だが、目が慣れてしまえばだいたいの感覚でいける。

 でも、ちょっと油断しすぎた。ユウヒも、アサヒも。あと二段で地上というところで、ユウヒが足を滑らせてしりもちをついた。アサヒはあっと声をあげただけで、手を伸ばすこともできなかった。慌てて駆け寄って屈み込む。

「大丈夫?」

「う……」

「ユウヒ!」

「うっそー」

 ユウヒはしてやったりとばかりに伏せていた顔を上げた。腹が立つよりもほっとして、アサヒは額の汗を拭った。転んだときとっさに手をついたのか、ユウヒは自分の手のひらに目を凝らす。

 急ぎ足で下りてきたお父さんが、懐中電灯をユウヒの手のひらに向けた。小指側の膨らんだ部分をけっこう派手にすりむいたようだ。

「他に痛いとこないか」

「ないよ」

「頭とか打ってないな?」

「ない」

「本当に?」

「俺、運動神経いいもん」

 証明するように、ユウヒはぴょんと跳ねて立ち上がった。お父さんがアサヒを見る。アサヒがうなずく。それでお父さんはひとまず安心する。

 お父さんはユウヒの手を取り、傷にふうふうと息を吹きかけた。子どもたちがけがをすると、お父さんはいつもそうする。お父さんのおばあちゃんのまねだとかで、理由は知らないがそうするものなのだという。

「洗わないとな」

 転んだのが階段の上なら手水舎があったが、あいにく階段の下だ。平気だと繰り返すユウヒをアサヒと一緒にカローラの後部座席に押し込むと、お父さんは猛スピードで今夜の〝ホテル〟へ向かった。

 道の駅のことを一家ではそう呼ぶ。駐車場に停めた車の中で寝るなら宿泊料はただ、トイレもあるし、その手洗い場では水を飲むことも体を洗うこともできる。おまけに何ロールものトイレットペーパーや、ときには誰かの忘れ物のお土産つき。店が開いている時間なら、ちょっと危険を冒せば、ごみ箱に手を突っ込むよりはるかにいい食べ物が手に入る。こういう場所では従業員も客も気が緩んでいるから、置き引きだって車上荒らしだって簡単だ。いや、簡単は言いすぎか。でも難しくはない。

 お父さんはユウヒをかしてトイレに直行すると、手をつかんで蛇口からほとばしる水のなかに突っ込んだ。「いたっ」とユウヒが声をあげたのは、傷にみたというより、水の勢いか手首をつかむ力が強すぎたせいだろう。どうにか自分の手を取り返したユウヒは、れたその手を振ってから、チャックの壊れたジャンパーにこすりつけた。なるべく早くコインランドリーに行かないと、とアサヒは頭にメモする。乾燥機の底で取り出されるのを待っている清潔なタオルかハンカチを、こっそり「失敬する」ために。

 トイレを出たとき、お父さんは別人になっていた。その変化はいつも唐突で、きっかけがどこにあるのかもわからない。まるでスイッチが切り替わったみたいに、普段とはほとんど正反対の、陰気で無口で不機嫌な男になる。子どもたちはたちどころにそれを察して、そっちのお父さんにはできるかぎり話しかけない。

 嫌な予感はこれだったのだとアサヒは悟った。思ったより稼ぎが少なかったことでも、ユウヒが転んだことでもなく。

 お父さんは無言で先に立って車に戻り、運転席に体を沈めた。お気に入りのマフラーにあごの先をうずめ、足を小刻みに揺すりながら、せわしなく煙草に火をつける。

 ユウヒがアサヒをつつき、挑戦的な笑みを浮かべてじゃんけんのポーズをとった。アサヒはなるべく向かい合わせになるよう尻の位置をずらした。目を合わせ、声は出さずに、せーので手を動かす。たたいて、かぶって、じゃんけんぽん! アサヒは両手で頭を覆い、弟の一撃を防いだ。叩いて、かぶって、じゃんけんぽん! また防ぐ。叩いて、かぶって、じゃんけんぽん! 今度は攻撃だったのに、間違えてガードしてしまった。笑い声を抑えようとユウヒが口をもごもごさせる。攻撃するときも音が出ないように、叩くふりをするだけだ。

 静かにしていろとお父さんが言うわけではない。でも、お父さんもラジオも沈黙しているときは、なんとなく兄弟間でも話しづらくなって、息を潜めていなければいけない気になる。すると車内を満たす音は、お父さんがひっきりなしに煙草を吹かす音と舌打ちだけになる。アサヒもユウヒもその時間は窮屈で嫌いだ。弟がいてよかったとアサヒはいつも思う。

「メシ食え」

 お父さんが振り向かずに短く言った。アサヒはドアポケットから、盗んだパンとスナックを取り出した。

「お父さんは?」

 いちおう尋ねてみたものの、返事がないのはわかっていた。この状態のお父さんは、アルコールとニコチンしか受けつけない。アサヒとユウヒはパンをひとつずつ選んだ。食べ物を見たら急に強くなった空腹感をこらえ、袋を開ける前に大急ぎで「いただきます」と言う。必ずそうしろという、お父さんの言いつけだ。

 吞むようにジャムパンを食べてしまったユウヒが、そこで残念な発見をした。

「あれ、スティックシュガー、三本しかないよ」

 スティックシュガーはいつも後部座席のドアポケットに、他の雑多なものと一緒に入れてある。ユウヒはそこに手を入れてかき回し、それから助手席のヘッドレストに針金でくくりつけてあるふたつの空き缶をのぞき込んだ。もともとコーンの缶詰だったほうには割り箸やプラスチックのスプーンが、ミカンの缶詰だったほうにはあまり使われない歯ブラシが突っ込まれている。そこにスティックシュガーがないのは一目りようぜんだ。

 普段のお父さんなら、ここでただちに車を発進させ、二十四時間営業のファストフード店かファミレスに飛んでいく。アサヒたちがいいよと遠慮しても、父親が息子と約束したんだからと言って、なにがなんでもスティックシュガーを手に入れる。

 でも今のお父さんは、黙って煙草を吸いながら貧乏揺すりをしているだけだ。

「ユウヒ、二本いいよ」

「え、兄ちゃんは?」

「ガムシロはまだあったろ。シロップ水にする」

 突然、お父さんが運転席のドアを開けたかと思うと、何かをアスファルトに叩きつけた。さっき神社から持ってきたカップ酒だ。容器が割れる音と漂ってきたにおいでわかった。

 アサヒとユウヒはぴたりと口を閉ざし、動きも呼吸も止めて待つ。お父さんがドアを閉め、煙草の煙を吐き出し、再び貧乏揺すりを始めるのを。

 お父さんはシートに座ったまま車外に身を乗り出し、カップの破片を拾ったようだった。それに口をつけ、唇を突き出してわずかにまった酒をすする音がした。やがてドアが閉まり、沈黙が訪れる。いや、お父さんは口の中でつぶやいている。俺はくずだ、俺は屑だ、俺は屑だ……。

 結局、アサヒもユウヒもスティックシュガーは口にしなかった。無言のままごみを車の外へ投げ捨て、それぞれの尻の下からくしゃくしゃになった毛布を引っぱり出す。ジャンパーの上から体に巻きつけ、目をつぶる。

 次に目を開けたときには、どこか別の場所にいるだろう。あまり長い時間、同じ場所に車を停めているのはまずいから。そうやって少しずつ、九州から関東まで流れてきた。旅の始まりはアサヒもユウヒも覚えていない。生まれたときからずっと三人で車の中にいる気がする。何ヶ月後かには、ゴムが垂れ下がったこの窓から北の海を眺めているだろう。お父さんは「いつか三人で北海道に行くぞ。でっかいどうだ!」と言っていた。

 北海道に行くより、自分たちの駐車場があればいいのにとアサヒは思う。スティックシュガーを常備しておく台所があればいいのに。向かい合って食事のできるテーブルが。体を伸ばして寝られるベッドが。毎日入れるおが。清潔なタオルが。お父さんとユウヒと自分と、家族三人、いつまでもいていい場所があればいいのに。

 そんな場所を何というか、アサヒは知っていた。

 お父さんがいつも願う「3H」──健康、幸せ、愛情に加えるべき、もう一つのH。

 家(home)だ。

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