第5話


 6


「いただきます」

 無意識にそう口にして、はっとした。どんなときでも「いただきます」は必ず言うこと。これはお父さんの言いつけだった。それが当たり前になっていたから、覚えてはいないものの、小塚家へ来て初めてケーキを食べたあのときもそうしたはずだ。

 思えば、お父さんにはそういうちぐはぐなところがあった。子どもに車上生活を強いて、盗みをさせ、小学校にも通わせずにいた一方で、行儀や言葉づかいに関していくつか独自のこだわりを発揮した。

 お父さんを「お父さん」と呼ぶのもそうだ。父さんでも父ちゃんでもなく。──いいか、「お」と「さん」が肝心なんだ。ちゃんとした子はそういうもんだ。ムッシューって言うんだよ、ムッシューって。

 言葉まではっきりと思い出した。当時はムッシューの意味もわからなかったし、お父さん自身もよくわかっていないようだった。誰かの受け売りだったのだろう。たぶんあの3Hも。本棚に不特定多数の人が本を突っ込んだみたいに、お父さんのがいには思いがけない知識が入っていることがあった。高校を中退してから仕事を転々としてきたというから、そのせいかもしれない。

 アサヒはナイフとフォークを手に取った。向かいの席では小塚の父がすでにロールキャベツにナイフを入れている。不思議なもので、なんでもない日に自宅でナイフとフォークを使って食事をし、ワインを飲んでナプキンで口を拭うこの父のことを、アサヒは「父さん」と呼ぶ。引き取られてすぐのころはこの家庭の習慣にならって「パパ」と呼んでいたが、成長するにつれ恥ずかしくなって変えた。父はそのことをむしろ、アサヒが小塚家になじんだあかしだととらえて喜んだ。

 そういえば、ユウヒも里親を「父さん」と呼んでいた。そんなことを考えながら、機械的にロールキャベツを口に運ぶ。

「彩、またそんなにかけて」

 七味で真っ赤になった娘の皿を見て、母が苦々しい声を出した。

「だってこのほうがおいしいんだもん。カプサイシンでダイエットになるし」

「そのソースおいしくない? ヨーグルトソースよ」

「おいしくなくはないけど、これじゃない感あるんだよね」

「あなたは瘦せる必要なんかないんだから、それより体の内側から健康的にきれいになるほうがいいわよ。ヨーグルトに含まれる乳酸菌には……」

「あー、その話はいいから」

 菌を用いた健康法にはまっている母と、休日には化粧をして出かけるようになった妹は、互いに遠慮なくものを言う。たぶん仲がいいのだろう。彩は見かけによらず成績優秀らしく、父にとっても自慢の娘だ。

「なに?」

 見ていたつもりはないのだが、彩に横目でにらまれた。慣れているので無視していると、「うざい」とののしられた。べつにどうということもない。小塚旭になって二年あまりの間、つまり初めて小学校に通って必死で普通の生き方を学んでいた間に、学校でぶつけられた言葉の数々に比べれば。血がつながらないとはいえ自分の兄が、野蛮人だの家畜だのと呼ばれてトイレの床をめさせられていたことを、彩は知っているのだろうか。だとしたら、アサヒのことが憎くてたまらなかったに違いない。

 母がやんわり彩に注意する。父のおどけたような目配せは、年ごろの女の子は難しいな、と言いたいらしい。実際、何度かそう言われた。その意味をアサヒは正しく理解しているつもりだ。すなわち、いちいち目くじらを立てるようなことじゃない。家庭内がうまくいっていないわけじゃない。

「ところで旭、ゴルフに興味ないか」

「突然どうして」

「おまえも次は三年生、あっという間に社会人だ。どういう会社に入るとしても、付き合いの上でゴルフは覚えといて損はないぞ。古い考えだと思うかもしれないけど、おまえが社会に出たとき力を持ってるのは古い世代なんだ」

「やってみようかな」

 考えずに答え、乳酸菌を体に取り込む。酵母菌も。こうじ菌も。

 アサヒは好き嫌いなく何でも食べる。砂糖以外なら。料理やお菓子に使われているのは平気だが、たとえばコーヒーに入れるなど、砂糖そのものを目にしてしまうと体が受けつけない。

 ──砂糖がだめになった理由、ばらしちゃってもいい?

 こちらを見つめるユウヒの目を思い出す。アパートを出たあとも、こうしている今も、ずっとあの視線を感じ続けている。

 時間をくれと告げたものの、その場しのぎにしかならないことはわかっていた。自分は脅迫に屈するだろう。ユウヒの言いなりになって狂言誘拐に荷担するだろう。あのことをばらされたら、今日まで積み重ねてきたものが台無しになる。十年かけて、少なくとも表面上は普通に生きられるようになったのに。言葉の定義を厳密にしなければ、多くはないが友達もいる。住む場所があって、大学生で、家庭教師のバイトをしている。ひとりの時間には、本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりする。卒業したら就職して、いずれは結婚だってするかもしれない。

「ところでココア、今日もごはん残したのよ。涼しくなれば元気になるかと思ってたけど、もう歳だし、やっぱり明日にでも病院に連れていったほうがいいんじゃないかしら」

「えっ、じゃあ、あたし行く」

「あなたは学校でしょ」

「ココアのほうが大事じゃん。ココアだってあたしと行くのがいちばん安心するよ」

「学校が終わってから連れていったらいいじゃないか」

 ユウヒがハレの存続を願うのはわかる。共感はできなくても理解はできる。でもなんでそこまで、と尋ねたアサヒに、ユウヒはきょとんとした顔で答えた。だって、それで問題解決じゃん。

「のんきなこと言ってて、ココアに何かあったらどうすんの。パパはあたしが重大な病気でも仕事を優先するの」

「そんなわけないだろう」

「同じじゃん」

「わかったわよ。明日の朝いちばんに、私と彩でココアを病院へ連れていく。終わったらちゃんと学校行くのよ」

 そうだった、ユウヒはそういうやつだった。十年前、車上生活に嫌気が差していたアサヒはふと漏らした。家が欲しい、普通の暮らしがしたい、と。するとユウヒはけろりと言ったのだ──車がなければいいんじゃない?

「はーい。大丈夫だからね、ココア」

 父と母と妹が同じ方向を見て会話をしていることに、ようやく気づいた。リビングの隅にうずくまった、焦茶色で尻尾しつぽのある家族。

 アサヒがそちらに顔を向けたときには、すでにその話題は終わっていた。両親は歯科医院に新しく雇った受付の女性の話を始め、彩は真っ赤なロールキャベツをつつきながら携帯電話をいじっている。食事中はやめなさい、と母が彩に注意した。


 7


 北海道へ行こうと言っていたお父さんが、突然、九州を目指そうと言い出したのは、神奈川と東京の境目あたりをうろうろしていたときだった。三人の放浪生活は九州から始まったと聞いていたのに、日本列島のまんなかを越えてなぜ引き返すのかと、アサヒは困惑して理由を尋ねた。

「だって十二月だぞ。これからどんどん寒くなるんだから、南へ行ったほうがあったかくていいじゃないか。鹿児島なんて火山が噴火してて、砂まであったかいから砂風呂ってのがあってな……」

 途中からはまともに聞いていなかった。北海道だろうと鹿児島だろうと、もううんざりだ。暑くても寒くてもいいから、決まった場所に住みたい。家が欲しい。

「……どこにも行きたくなんかないよ」

 後部座席でぽつりと漏らしたアサヒのつぶやきは、運転しながらしゃべり続けるお父さんの耳には届かなかったようだ。しかし隣にいたユウヒには聞こえていた。

「さっきのってどういう意味」

 お父さんが煙草を買うために車を離れたときに訊かれ、アサヒは口ごもった。裏切り者になったような気がした。じっとこちらを見つめて待つユウヒから目を逸らし、ぶっきらぼうに答える。

「もうこんな生活は嫌なんだよ。家が欲しい。普通の暮らしがしたい」

 兄がそんなことを考えているなんて思ってもみなかったのだろう。意味を理解するのに時間が必要だったのか、ユウヒはしばらく黙っていた。それから言った。

「だったら、車がなければいいんじゃない?」

 アサヒは目をみはって弟を見た。寒いなら毛布かぶればいいんじゃない、とでも言うみたいに、ユウヒは平然としている。

「そしたらどこにも行けなくなるじゃん」

「それって……」

 お父さんが車に戻ってきたので、そこで話は途切れた。口を閉じてシートに背中を押しつけ、アサヒは自分の心臓の音を聞いていた。

 車がなければ。ユウヒの言葉が頭のなかをぐるぐる回る。車がなければどこにも行けなくなる。家を見つけるしかなくなる。そうだ、車が壊れてしまえば──。

 それから数日後の深夜、アサヒはおんぼろカローラの外にひっそりと立った。今日は酒が思いがけずたくさん手に入ったおかげで、お父さんは運転席で高いびきをかいている。ユウヒは車の中から窓に額を押し当てて、こちらの様子を見守っている。数秒おきに振り向いてお父さんの様子をうかがう。

 アサヒはぎゅっと右手を握りしめた。汗ばんだ手のなかには、スティックシュガーが三本。ガソリンタンクに砂糖を入れたらエンジンが壊れると、前にどこかで読んだ漫画に描いてあった。給油口の開け方は、お父さんがやっているのを見て知っていた。ガソリンのにおいが鼻を刺す。真っ白な息がせわしなく漏れる。心臓を吐き出してしまいそうだ。どんな盗みをやったときも、こんなに緊張したことはない。

 作業を終えてそっと車に戻ってからも、体の震えが止まらなかった。「やったね」とささやくユウヒの声に、うなずくのがやっとだった。闇のなかに体を横たえて眠れずにいると、後悔と不安が忍び寄ってくる。あんなことをしてよかったのか。お父さんにばれやしないか。この車はもう動かないんだ、捨てられるんだと思うと、自分でやったくせに胸が締めつけられてシートに顔をこすりつけた。

 それでもいつの間にか眠りに落ちていたようだ。車の振動でアサヒははっと目を覚ました。動いている? 慌てて体を起こすと、運転席からお父さんののんびりした声が届いた。

「お、起きたか。今日はふたりとも寝坊だな」

 見ればユウヒはまだ眠っている。

 窓の外に顔を向けると、景色が横に流れていた。コンクリートで固められた斜面の上に木が繁り、葉っぱがきらきら光っている。白いガードレールがずっと続いている。緩い下り坂を、おんぼろ車は軽快に走っていた。

「車、なんともなかったんだ……」

 深い吐息がこぼれた。がっかりしているのに、どこかほっとしたような、奇妙な気分だ。車は壊れなかった。作戦は失敗した。

「なんだ、夢でも見たのか」

 アサヒのつぶやきを聞きつけてお父さんは笑った。

「いつも言ってるだろ、こいつはまだまだ走れるって。今は神倉ってとこに向かってるんだ。寺や神社がたくさんある町だから稼げるぞ。九州へ出発する前に、軍資金をがっぽり手に入れないとな」

 ラジオのボリュームを上げ、ハンドルを指で叩いてリズムをとる。

 ユウヒがむくりと体を起こしてアサヒを見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る