第3話

 目をらさず、まばたきもせずに、ユウヒは言った。

 やっぱりだ。黄信号を無視したら、ろくなことにならない。

「か……」

 うまく声が出なかった。アサヒはつばを飲み、それから思い出してコーヒーを口に運んだ。舌を火傷やけどしそうになった。

「変わってないな、そういうとこ。おまえはよく真面目な顔でとんでもないこと言って、俺が慌てふためくのをおもしろがってたよな。得意げに『うっそー』ってばらすときの、あの憎たらしい態度といったら」

 笑えていないのが自分でもわかる。兄のいじましい悪あがきを、ユウヒは冷静な目で見つめている。アサヒは熱さにかまわずコーヒーをがぶがぶ飲んだ。

「心配しなくても、本当の誘拐じゃない。誘拐する相手も了承済み、仲間なんだよ。狂言誘拐ってやつ」

「冗談なんだろ」

「違うよ。狂言だけど冗談じゃない。遊びでもない。その子の親に身代金を要求して、千五百万円を手に入れる」

「千五百万? 五百万じゃないのか」

「俺に五百万、誘拐される仲間に五百万、兄ちゃんに五百万」

 ユウヒは落ち着いている。そして、決めている。

 マグカップを傾けたが、もう空だった。

「おかわり、いる?」

「犯罪じゃないか。犯罪だぞ、それ」

「だから兄ちゃんに頼んでるんだ。兄ちゃんにしか頼めないから。友達も、父さんや他の職員も、ハレで一緒に暮らしてた仲間も、誰もこのことは知らない」

「ばかなことはやめろよ。何か他の方法を考えるんだ」

「他の方法って?」

 即座に切り返されて言葉に詰まった。

「だけど……犯罪だぞ」

 また同じことを口にしてしまう。

「うまくいくわけない。捕まるに決まってる」

「やりようだよ」

「もし、もしうまくいったとして、金の出どころをどう説明するんだ」

「説明なんか必要ないよ。金は『なお』として寄付する」

 漫画『タイガーマスク』の主人公の名前で児童福祉関連施設などに寄付をおこなう、いわゆるタイガーマスク運動が、去年のクリスマスを皮切りに日本各地で報告されていることは、もちろんアサヒも知っている。

 ユウヒは空のマグカップを持ってキッチンへ行った。

「俺さ、小学校四年生から学校に通い始めたんだ」

「……俺は五年生からだった」

 それまでまともな教育を受けたことはなく、基本的な社会通念さえ教わらずに暮らしていた。いや、あれは暮らしと呼べるものではない。家もなく、けちな盗みを重ねて、かろうじて食いつなぐだけの日々。

 ずっとあとになって知ったことだが、住民票があるのに乳幼児健診を受けていなかったり学校に通っていなかったりする子どもは、行政による調査の対象となる。しかし住民票というものは、その自治体に居住実態がないと判断されたら削除される。住民票がなければ調査の対象にはならない。その子どもは所在も生活実態も不明となり、消えてしまうのだ。

「勉強ができなくて、給食は犬食いで、泳げなくて、はやりのゲームやテレビも知らなくて、そりゃいじめのかつこうの的になるよな」

 おまえもか、という言葉をみ込む。自分の経験を語りたくはない。

「こっちも慣れない環境にいらいらしてて、ちょっとしたことで椅子を振り回したり牛乳をぶっかけたりしたから、お互いさまってとこもあるけど。いじめられて泣くタイプじゃなかったし、何かやられたら、たいてい体でやり返してた。俺、昔からケンカの才能はあったみたいなんだよな。おかげでそのうち誰も手出ししてこなくなったけど、やっぱ学校は敵ばっかって気分が抜けなくてさ。だけどハレにいるときは、楽しかったし安心していられたんだ。仲間もいたし、父さんみたいに信頼できる大人もいた。あのころ、もしハレを追い出されてたら、俺はどうなってたかわかんない」

 ユウヒの声がしだいに熱を帯びていく。

「今、子どもらはよその施設に移ってるけど、そのまま追い出すようなことはしたくないんだ。ただでさえ親や社会からいろんなものを奪われてきた子たちから、これ以上、何も奪いたくないんだよ」

「よその施設でだって幸せに暮らせるかもしれないじゃないか」

「それならいいよ。でも、帰りたいのに帰る場所がないって状態にはしたくない」

 アサヒは自分のバッグを引き寄せた。

「できないよ」

 ユウヒが振り返ったようだったが、アサヒは下を向いていたので確認することはできなかった。

「兄ちゃん」

「協力はできない。話も聞かなかったことにする」

 立ち上がりかけたアサヒの前に、ユウヒは静かに二杯目のコーヒーを置いた。砂糖はなしで。

「砂糖がだめになった理由、ばらしちゃってもいい?」

 協力を拒まれることを最初から予想していたような落ち着きぶりだった。アサヒははっと顔を上げた。ユウヒと目が合ったとたん、胸に芽生えた疑念がたちまち根を張って確信になる。

「最初から、脅して協力させるつもりだったのか」

「兄ちゃんが自分から協力するって言ってくれたら、そんな必要なかったんだけど」

「ロータリーで再会したのも偶然じゃなかったんだな。俺のことをすっかり調べた上で接触したんだ」

 小塚旭という名前。世田谷の住まい。通っている大学と通学経路。おそらく素行や性格も。そして、この男は使えると判断した。

「犬を飼ってるのは知らなかったよ」

 中途半端な中腰のままで、アサヒはユウヒをにらみつけた。血のつながりはない、けれど血よりも濃いものでつながっていたはずの〝弟〟を。


 5


「あの鳥居が見えるか」

 お父さんの問いかけに、十歳と九歳の兄弟は同時に「見える」と答えた。

「どんなふうに見える。くっきりと? 色は?」

 ユウヒがすぐに「黒っぽい」と答える傍らで、アサヒは闇に目を凝らす。さっきエンジンを切る前、車のデジタル時計は午前二時三十六分を示していた。辺りには人っ子ひとりおらず、物音ひとつしない。石段を上った先にある境内は、木がこんもりと繁っているせいでいっそう闇が濃い。昼間は赤い鳥居も、今はユウヒの言うとおり黒っぽく、夜に沈んでいるように見える。

「石の鳥居も木の鳥居も同じだ。夜はあんなふうに見えにくくなる。あれは神社の営業時間が終わって、神様も寝てるからなんだ。どんな店だって閉めるときにはライトを消すだろ。だから神様はこっちの姿を見てないし、罰だって当てられないってわけだ」

「じゃあ、張り紙に書いてあったのは噓なの」

 ユウヒが早くも安心した声で言う。会話の発端は、少し前に見たさいせん泥棒に対する警告文だった。朱色の荒々しい筆で「賽銭泥棒よ、罰を恐れよ」と書かれていた。同じ主旨の張り紙は何度も目にしていたから、兄弟は「賽銭」も「泥棒」も「罰」も読むことができた。それまではべつに気にしていなかったユウヒだが、これほど強い言い回しは初めてだったせいか、急に怖くなったらしい。

「そうとも、あれは人間が勝手に書いてるんだ。そもそも神様は人を救ってくれるもんなんだから、俺たちみたいな貧乏人には金を恵んでくれるのが本当のはずだろ。さあ持っていきなさいってなもんだ」

「そっか、だまされるとこだった。張り紙書いたやつ、きったねえの」

「わかったら、さあ行くぞ」

 年齢はひとつしか違わないが、アサヒは弟ほど単純ではなかった。でもお父さんの言葉に反論はせず、言われるままに車の後部ドアを開けた。

 アサヒが物心つく前、お父さんが建設現場で働いていたときに中古で買ったという白のカローラ。最近、中古車販売店の前を通ったときに同じと思われる車を見かけたが、三十九万円の値札がフロントに掲げられていた。こいつはまだまだ走れるとお父さんは言うものの、走行距離は二十万キロを超えていて、ブレーキランプが片方つかない。全身傷だらけで、左のサイドミラーが特に重傷だ。窓枠のゴムががれて垂れ下がっているので、ドアを閉めるときには挟まないよう注意しなければならない。

 ツィーと音を立ててお父さんが息を吸い込む。寒いときの癖だ。十二月の深夜はさすがに冷える。

 アサヒは体に合わないジャンパーの襟元を片手でつかみ、隙間から冷気が入り込まないようガードした。大人用しか手に入れられなかったからしかたない。ユウヒのジャンパーは逆に少し窮屈らしく、この寒さでも前を開けている。お父さんに髪を切ってもらったばかりなので、余計に寒々しく見えた。若いころは理容師になりたかったこともあるというお父さんだが、いつもぎりぎりまで短くする上、毛先はがたがただ。

「ユウヒ」

 チャックを閉めるようぐさで伝えると、ユウヒは両手をポケットに突っ込んで裾をぱたぱたさせてみせた。

「壊れた」

 布をかんでいるだけじゃないかと思ったが、アサヒが試してもやはりチャックはびくともしない。「な?」となぜだかユウヒは得意げだ。

 お父さんが自分のマフラーを外してユウヒの首にかけた。

「巻いとけ」

 何年か前にパチンコ店で知らない人から「失敬してきた」というもので、暗い青と黒のストライプがしゃれているとお父さんは気に入っている。冬はいつもそれを巻いているので、スウェットの伸びた首まわりや、そこからのぞく下着が隠れて、他の季節よりもいくらかはまともな大人に見える。マフラーは手に入れたときから煙草臭く、今はさらに臭くなった。お父さんが一日一箱吸うマイルドセブンのにおいだ。

 ユウヒはすぐにマフラーを取って返した。

「寒くないよ」

 お父さんの手に押しつけるなり、路上駐車した車から離れて石段を駆け上っていく。あの勢いで動けば、確かに寒くはないだろう。こけるなよと声をかけながら、マフラーを巻き直したお父さんが歩いてあとに続く。そのあとにアサヒも続く。

 古い石段は一段の高さも幅もまちまちだった。傾いていたり欠けていたり、踏んでみると思いがけずぐらつくところも少なくない。アサヒはお父さんが足を置いたとおりに足を置き、あるいはその場所を避け、慎重に上っていった。絶対にお父さんより前には行かない。子どもがふたりとも前にいたら、もしも両方が転げ落ちたとき、お父さんの手が足りなくなるからだ。ユウヒだけならお父さんは間違いなく受け止めてくれるだろうし、自分も手助けできるかもしれない。

 二段上を行くお父さんの背中はけっして大きくない。肩幅が狭くせていて、もともと猫背気味なのに寒くて肩をすぼめているから、なおさら小さく見えるのだろう。他の人がそばに立っていると、意外に背が高いことにちょっと驚く。

「兄ちゃん、早く」

 鳥居の下でこちらを向いてユウヒが呼んだ。白い息がくっきり見えた。呼んだものの兄が追いつくのを待てず、またひとりでぐんぐん上っていく。

「気をつけて」

 この日はなんとなく嫌な予感がしていた。ジャンパーのチャックが壊れたときから。いや、その前にユウヒが珍しく賽銭泥棒への警告文を気にしたときから。

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