第2話
4
あのケーキを食べていたとき、母がどんな顔で自分を見ていたか、今ならありありと想像することができる。かつてお父さんの妻だった彼女は、生まれたばかりのアサヒを置いて出ていったと聞いていた。とっくに縁を切ったはずが、十年もたって戻ってきた息子。二十二歳の自分から送りつけられた荷物。アサヒにウェットティッシュを差し出しながら、母は思ったかもしれない。私が育てていればこんなことにはならなかったのに、と。
「きれいに食うなあ」
ちゃぶ台を挟んで畳にあぐらをかいたユウヒが、
神倉市内にあるユウヒのアパートだ。高校を卒業してからひとり暮らしをしているとのことで、気兼ねなく話せるからと誘われ、ユウヒのバイト先の定休日に訪ねてきた。アサヒのほうは夕方まで大学だったので、それから神倉まで足を運ぶのは
神倉に来たのは人生で二度目だ。小京都と呼ばれる古い町は観光地としても人気だが、にぎやかなのは駅前の通りや有名な寺社など一部の場所だけで、ユウヒの住まいは生活のにおいがするありふれた住宅地のなかにあった。黄葉を待つイチョウが
アパートは木造らしく、さびだらけの階段がむき出しになった二階建てで、各戸のドアの横に洗濯機が並んでいた。ユウヒの部屋は一階の端で、六畳の和室にキッチンとユニットバスが付いている。片付いてはいなかったが、物が少ないせいで汚いというより殺風景だ。冷蔵庫や組み立て式のパイプベッドなど最低限のものしかなく、それらの色やスタイルには統一感がない。しょぼい部屋だけど風通しだけはいいんだとユウヒが言うとおり、あせた畳はさらりとしていた。
「食べ方はだいぶ直されたから」
言いながら、ユウヒが焼いてくれた
正直、ここへ来るまでは、すさんだ暮らしをしているんじゃないかと不安に思っていた。外見も派手だし、悪い仲間とつながって悪いことをしているかもしれないと。しかし、そんな雰囲気は感じられない。
「直されたって、今の親に?」
「そう」
食卓につく姿勢、
「へえ、ちゃんとしてる」
それはまさに母がアサヒに望んだことだった。この子をちゃんとした子にする。ケーキを食べさせたとき、もしくは十年ぶりに会ってがたがたの黄ばんだ歯を見たときから、決意していたに違いない。
「うまいな、この餃子」
「だろ。うちの自慢なんだ。ラーメンもうまいから、今度食べにきてよ」
「高校のときからそこで働いてるって言ってたな」
「高二から。学校はときどきサボったけど、そっちは無遅刻無欠勤。性に合ってんだろうな。卒業して就職っていうのもぴんと来なかったし、うちみたいなバカ校出て就ける仕事なんてたかが知れてるし、だったら続けようと思って」
ユウヒは発泡酒の缶を手に取り、あ、という顔になった。もう空になったらしい。未成年のはずだが、缶から直接ごくごくと
「兄ちゃんも二本目いくだろ」
「いや、俺はいいよ」
「酒弱い?」
「どうかな。あんまり飲む習慣がない」
「大学生って飲み会ざんまいじゃねえの?」
「人によるよ」
アサヒはそういう場が好きではないし、誘われることもほとんどない。
ユウヒは立ち上がってキッチンへ行き、二本目の発泡酒を飲みながら戻ってきた。ぷはっと息を吐き、手の甲で口元を
「で、何だっけ。ああ、就職の話か。それに就職したら時間がなくなるって聞くからさ。俺、児童養護施設の手伝いしてて、そっちに時間を割けなくなるのは嫌なんだよ」
「児童養護施設?」
「同じ市内にある〈ハレ〉ってとこ。俺も入ってたとこだよ。うちの父さんはそこの職員で、俺が高校に上がるタイミングで里親になったんだ。早くにヨメ亡くして独身なのに、子ども引き取るなんてよくやるよな。おまけに俺は厄介なガキで、職員時代からそこらじゅう頭下げて回らなきゃならなかったのに。いちばんやばかったのは、中学で先輩殴って鼻の骨折ったとき。ほんと物好きだよ」
自分とユウヒとのやりとりは、まるで波のようだと思う。アサヒの言葉はそろそろと引いていく波で、ユウヒの言葉ははじけるように打ち寄せる波。勢いもテンポも色も異なる。昔からそうだったが、これほどに違いが顕著だっただろうか。
「今さらだけど、何ていうんだ、おまえの名前」
「ああ、そうだよな。いろいろ調査したけど本当の名前はわかんないままで、結局、新しく戸籍を作ったんだ。今の俺は、マサチカユウヒ」
思わず手が止まった。
「……
「そう、下はユウヒのまま。
正近雄飛。声に出さずに復唱してみる。
「兄ちゃんは?」
「コヅカアサヒ。小さいに貝塚の塚、
「カイヅカ?」
「土へんに家みたいな」
「ああ、
知り合いかと思ったら漫画のキャラだった。
「兄ちゃんもアサヒのままなんだな」
「俺は戸籍がそうだから」
「アサヒとユウヒのまんまだ」
うれしそうなユウヒに、そうだなとほほえみ返す代わりに、アサヒは餃子を口に運んだ。小塚家の食卓に出されるものに比べて味が濃い。母の考えでは、こういう味つけは素材本来のよさや料理におけるちょっとしたひと手間を台無しにしてしまう。
ふいに自分の境遇も話さなければという気持ちに駆られ、口を開いた。
「うちは父が歯科医で母は専業主婦、あと妹がいる」
「へえ、妹いくつ」
「十五、中三。それと犬を一匹飼ってる」
「『金持ちのワン公』?」
ユウヒがいたずらっぽい目つきになった。つられるようにアサヒもにやりとしたが、すぐに笑みを引っ込めた。お父さんの思い出を持ち出す弟の真意が読めない。何のわだかまりもなく、ただ素直に懐かしんでいるだけなのか。自分もそうしていいのか、笑っていいのか、わからない。
「俺はひとりっ子だよ。犬もいない。まあハレでチビたちに囲まれてると、父さんとふたり家族って感じしないけど。兄ちゃん、何学部って言ってたっけ」
「……政経」
ユウヒに大学の話をするのは、後ろめたいような気がした。ましてアサヒが通う大学は、難関校に分類される私立だ。
「政経って何すんの。理系?」
「政治と経済。文系だよ」
こづか歯科は彩が継げばいい。そう意思表示するための進路だった。父も母も反対しなかった。
「そっか。なんか兄ちゃんの人生がうまくいってるみたいで安心したよ」
うまくいってる。そのとおりだろう。
「恵まれてると思うよ。……おまえは?」
「まあ、普通じゃない? 中学のときに一回ハレを脱走したことがあるけど、戻ってよかったと思うし。……ただ」
コン、と音を立ててユウヒが缶を置いた。
「今は問題がある」
こちらを見つめるその顔は、アサヒの知らないものだった。屈託のない子どもの面影は消え、厳しい目をした青年がそこにいた。
頭のなかに黄信号が灯った。小塚旭になってから何度も見た光。自分が岐路に立っていることを知らず、進むべきでない道に足を踏み入れようとしている場合に灯る光だ。黄色は止まれ。無視してしまったときは、いつも悪い結果が待っていた。たとえば両親の機嫌がひどく悪くなったり、教室で冷や汗をかく羽目になったり。
話を聞かずに立ち去るべきだ。だが、アサヒはそうしなかった。ユウヒのまなざしがそれを許さなかったし、アサヒ自身がそうしたくなかったからだ。
弟を見返して言葉を待つ兄に、ユウヒはいくぶん表情をやわらげて「食後にコーヒーでも飲む?」と尋ねた。短い話ではないのだろう。もらうよとアサヒは答えた。ユウヒはキッチンに立ち、電気ケトルで湯を沸かし始める。インスタントらしい。
「コーヒー飲んだりするんだな」
「煙草やめてから、たまに」
「やめたのか」
吸っていたことは意外ではなかった。
「ハレのチビにくさいって言われちゃってさ。あそこじゃ一回も吸わなかったんだけど」
こちらに背を向けて手を動かしながら、ユウヒはちょっと言葉を切った。アサヒの頭のなかには依然として黄信号が灯っている。
「震災のとき、兄ちゃんの周りは大丈夫だった?」
「震災? ああ、知り合いに死者が出たり、家が倒壊するようなことはなかったよ」
今年の三月十一日に発生した東日本大震災。急に話題が飛んだと思ったが、そうではなかった。
「よかったな。こっちはハレの建物がやられちゃってさ」
「えっ」
「倒壊まではいかなかったけど、壁の
「中止したらどうなるんだ」
「とりあえず子どもらには県内の他の施設に分散して移ってもらった。でもどこも満杯だし、やっとなじんだばっかって子もいたのに。泣いて嫌がるのとか柱にしがみついて動こうとしないのとか見ると、こっちもつらくてさ。ったく、雨漏りなんか今に始まったことじゃねえっての」
「戻ってこられないのか」
「
「え、ああ、どっちもいらない……いや、やっぱりミルクだけくれ」
ブラックで飲むことが多いが、たまにミルクが欲しくなる。疲れているときや、緊張しているときに。
「やっぱ砂糖はだめ? うちにあるのはスティックシュガーじゃなくて、料理用の砂糖だけど」
アサヒは黙って弟の背中を見つめた。声音はごく普通だが、どんな顔でそれを言っているのか。
「じゃあ、今は移転先を探してるのか」
「なかなか難しいよ。普通の家を見つけるみたいにはいかないからさ。元の建物を建て直すか大々的にリフォームできればいちばんなんだけど、それにはやっぱ金がかかるじゃん。児童養護施設って国と自治体からの措置費ってやつで運営されてんだけど、かつかつで修繕費まではとても手が回らない。補助金には条件が合わないし、寄付金集めもうまくいってない。融資も検討したけど、理事長はもう歳で、病気してるのもあって、借金してまで経営を続けたいとは思ってないんだ」
「大変なんだな」
「でも、俺はハレを存続させたい。父さんもそうだし、何よりも子どもたちがそれを望んでるんだから。問題は金なんだ。あと五百万あれば、理事長を説得できるかもしれない。いや、してみせる」
何と言ったらいいのかわからなかった。私立大の文系学部で四年間にかかる学費が、たしか四百万くらいだったはずだ。父が去年買い換えたばかりのBMWは六百万ちょっとだったか。
電気ケトルがぐつぐつ鳴って湯が沸いた。運ばれてきたマグカップはひとつだけで、金髪ピアスの男には似つかわしくないハローキティのイラスト付きだ。
顔を上げると、ユウヒの真剣な顔が目の前にあった。
「協力してよ」
コーヒーの香りが
「……協力?」
「五百万を手に入れる」
「どうやって」
「俺の知り合いに金持ちの娘がいるんだ。その子を誘拐する」
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