朝と夕の犯罪

降田天/小説 野性時代

第1話


第一部


大事なのは誰から生まれたかじゃなく、

誰といっしょに飯を食ったかだ

セルバンテス『ドン・キホーテ』



 1


 黄色は「進め」だ。

 それが〝お父さん〟から初めて教わったことだった。

 赤は止まれ。青は進め。黄色は全速力で突っ込め!


 2


 ビーッ。鋭いクラクションを響かせて、車が目の前すれすれを通過していった。風圧でネルシャツのすそがはためき、ドアをこすったのではないかと思ったほどだった。横断歩道の向こうに見える信号は赤だ。目に入った青年に気を取られ、注意がおろそかになっていた。一歩下がったアサヒの前を、色も形もさまざまな車がひっきりなしに流れていく。大学の最寄り駅のロータリーはいつも交通量が多い。

 普段は長すぎると感じる待ち時間が、今は長いのか短いのかわからなかった。車道の信号が黄色になって赤になり、車の列が停まる。横断歩道のしまが向こうの端まですっかりあらわになる。青になった信号の下に立っている青年の姿が、再び視界に現れた。ずたずたのジーンズとナイキのごついスニーカー。金に近い色の髪に、いくつものピアス。ワンショルダーのバックパックを背負っている。

 その青年をアサヒは知っていた。もう長い間、顔を見ていなかったが、ひと目でそうと気がついた。向こうもこちらに気づいているのかどうかはわからない。見覚えがあるような、というところだろうか。アサヒが彼を見つめているように、彼もアサヒを見つめているが、ほとんど無表情だ。

 駅へ向かう学生や会社員に交じって、青年が足を踏み出した。アサヒはわずかに遅れ、駅から吐き出された群れに包まれて歩き出す。アサヒと彼とは互いを見つめたまま近づいていき、双方あと三歩ですれ違うというところで、急に彼がニカッと笑顔になって言った。

「びっくりした」

 二重まぶたの明るいひとみに、やんちゃな少年の面影が表れる。いたずらが成功したとき、ユウヒはいつもこんな顔をした。

「なんだ、そっちも気づいてたのか」

「ひと目でわかったよ。兄ちゃん、変わってないな」

「おまえは……」

 秋晴れの空をバックに輝く金髪を見上げる。会わないうちに身長を抜かれてしまった。

「いや、おまえも変わってないか。だからわかったんだ」

「急いでる?」

 ユウヒが信号に目をやって尋ねた。そうでもないとアサヒは答えた。講義までにはまだ時間があるし、間に合わなくてもべつにかまわない。ユウヒが引き返す形で、ふたり連れ立って横断歩道を渡った。ロータリーの中心にはちょっとした広場があり、待ち合わせスポットになっている。

「なんで歩行者用の信号には黄色がないんだろうな」

 点滅する青信号を見てユウヒが言う。その横顔をアサヒはちらりと見たが、他意はないようだ。

「いくつになった」

「えー、たったひとりの弟の歳、忘れる?」

「正確には知らないから」

「冗談だって。十九。誕生日は結局わかんなくて、八月一日ってことになった。兄ちゃんは二十歳だよな。大学生?」

「政経学部の二年」

「かっけー。頭よかったし、真面目だったもんな」

「おまえは?」

「ラーメン屋のバイト店員。高校のときから続けてんだ」

 進学はしていないのか。高校は卒業したのか。突っ込んで尋ねるのははばかられた。

「今日もこれからバイトなんだ」

「このへんなのか?」

「いや、かみくら。今日は友達に会いに来てたんだ。美容専門学校行ってて、この近くに住んでんの。でもまさか兄ちゃんに会うなんてなあ。東京に住んでんの?」

「ああ、たがに」

「『ああ、世田谷に』」

 ユウヒはアサヒの口まねをして、頭のてっぺんから足のつまさきまでじろじろと眺めた。特徴のない黒い髪や、地味なTシャツとネルシャツや、無難なメッセンジャーバッグを。

「東京住みのわりにはあか抜けてなくない?」

「ほっとけ」

「そうだ、連絡先、交換しようよ」

 言いながら、ユウヒはもうパーカーのポケットから携帯電話を取り出している。アサヒもバッグから携帯電話を取り出した。

「あ、兄ちゃんもフツーのケータイなんだ。iPhone4Sとかスマホとか気になるけど値段がなあ」

 最新機器に興味はなかったが、「だな」と話を合わせた。経済事情については進路のことよりきにくい。

 考えてみれば十年ぶりの再会だった。横断歩道を挟んで偶然に互いを見つけ、それから五分たらずでこうしていつでも連絡を取り合えるようになったのだと思うと、とても奇妙な感じがした。

「いろいろ話したいけど、バイトだから行くわ。改めて会おうよ」

「ああ」

「なるべく早くな。メールする」

 じゃあなと別れて歩き出したとたん、背中から「兄ちゃん」と呼びかけられた。振り返ると、ユウヒは後ろ歩きで横断歩道を渡りながら、いっ、と口を横に広げて歯を見せた。

「いいじゃん」

 アサヒは行儀よく並んだ自分の歯列を舌でなぞった。


 3


「その歯、きれいにしましょうね」

 アサヒを引き取って家に連れ帰る車の中で、母は言った。助手席に座った彼女は、乗り込んでからずっと前方か窓の外に顔を向けていたので、後部座席のアサヒには、白い耳たぶの下で揺れるピアスしか見えなかった。透明な宝石はダイヤモンドだろうと思ったが、そもそもアサヒは他に宝石の種類を知らない。揺れるダイヤモンドのピアスが、記憶にある最初の母親の姿になった。その前に児童相談所で対面したはずなのだが、何も覚えていない。

「それなら任せてくれ。パパは歯医者さんだから。矯正は早いほうがいい」

 ハンドルを握る男がルームミラー越しにアサヒを見た。パパという言葉に対する反応をうかがったのだと、そのときにはわからなかった。アサヒが黙っているのをどう受け取ったのか、新しい父親はぴかぴかの眼鏡の奥で目を細め、「僕のことは好きなように呼んでね」と優しく言った。アサヒははっとして、急いで「はい」と答えた。

「そんなにかしこまらなくていいんだよ」

「かしこまる、なんてわからないわよ」

「あ、そうか」

 言葉の意味はなんとなく知っていたが、黙っておいた。〝お父さん〟がよくラジオを聴いていたから知っている、とは言うべきでない気がした。

 これから暮らす家は、東京の世田谷という地域にあり、〈こづか歯科〉と看板のかかったれん色の建物の後ろに建っていた。医院よりもずっと新しそうな二階建ての白い家で、広いバルコニーと芝生の庭と二台分のガレージがある。ガレージを寝床にしているのはBMWとフォルクスワーゲン、お父さん流に言えば「金持ちの乗るガイシャ」だ。「金持ちの家」に「金持ちの庭」に「金持ちのワン公」。

 づか家ではオスのトイプードルを飼っていた。焦茶色だからココアと名づけられたそいつは、新参者の人間の子どもが家のなかで何番目の地位にあるのかを見極めようとしていた。

 いちばん偉いのは五歳のあやだ。それまで小塚夫妻のひとり娘だった彩は、突然登場した兄に反発した。だからココアも歯をむいてうなっていた。けれど三十分もしないうちに彩は敏感に察知した。この子にパパとママをとられる心配はないと。

 兄を受け入れたとまでは言わないまでも、彩がアサヒにあからさまな敵意を示すのをやめたことで、両親はほっとしたようだ。家族が増えたお祝いだと言って、父はホールケーキを買ってきて、とっておきだというワインを開けた。ココアのためのケーキもあった。アサヒはケーキをむさぼるように食べ、口や手やテーブルや床までをもクリームでべたべたにした。

「飲みすぎよ、パパ。明日あしたも仕事でしょ。しっかり働いてもらわないと」

「はーい。彩ぁ、ママに叱られちゃったよ」

 父は七歳下の母に頭が上がらないように見える。でも、ひと切れのケーキと一杯のワインをおなかに収める間に、母は「ありがとう」と「おいしい」を数えきれないほど連呼した。食器を片付けたあとにも、またありがとうと告げた。

「なんだよ、大げさだなあ。そうだ、日曜日は家族みんなでどこかに出かけよう。ディズニーシーなんてどうだ。オープンしたら行きたいって言ってたろ。ママとアサヒと彩とで相談しといて。それから歯の矯正の話だけど、なるべく早いほうがいいから、知り合いの矯正医に話してみるよ」

「そうよね、お願い」

 車の中で自分をパパと呼んだときと同じく、新しい息子を呼び捨てにしたときにも、父はアサヒの反応をうかがっていた。アサヒはケーキの残りがしまわれた冷蔵庫を未練がましく見ていたが、彼の視線と、それに母の緊張した視線も、はっきりと感じた。

 その夜、生まれて初めて与えられた自分の部屋に向かって階段を上る前に、アサヒは両親に告げた。

「おやすみなさい……パパ、ママ」

 慣れない呼称は、口に入れたものの大きすぎたあめのようだった。

 足元をぎまわっていたココアが、すいと離れていった。

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