朝と夕の犯罪
降田天/小説 野性時代
第1話
第一部
大事なのは誰から生まれたかじゃなく、
誰といっしょに飯を食ったかだ
セルバンテス『ドン・キホーテ』
1
黄色は「進め」だ。
それが〝お父さん〟から初めて教わったことだった。
赤は止まれ。青は進め。黄色は全速力で突っ込め!
2
ビーッ。鋭いクラクションを響かせて、車が目の前すれすれを通過していった。風圧でネルシャツの
普段は長すぎると感じる待ち時間が、今は長いのか短いのかわからなかった。車道の信号が黄色になって赤になり、車の列が停まる。横断歩道の
その青年をアサヒは知っていた。もう長い間、顔を見ていなかったが、ひと目でそうと気がついた。向こうもこちらに気づいているのかどうかはわからない。見覚えがあるような、というところだろうか。アサヒが彼を見つめているように、彼もアサヒを見つめているが、ほとんど無表情だ。
駅へ向かう学生や会社員に交じって、青年が足を踏み出した。アサヒはわずかに遅れ、駅から吐き出された群れに包まれて歩き出す。アサヒと彼とは互いを見つめたまま近づいていき、双方あと三歩ですれ違うというところで、急に彼がニカッと笑顔になって言った。
「びっくりした」
二重まぶたの明るい
「なんだ、そっちも気づいてたのか」
「ひと目でわかったよ。兄ちゃん、変わってないな」
「おまえは……」
秋晴れの空をバックに輝く金髪を見上げる。会わないうちに身長を抜かれてしまった。
「いや、おまえも変わってないか。だからわかったんだ」
「急いでる?」
ユウヒが信号に目をやって尋ねた。そうでもないとアサヒは答えた。講義までにはまだ時間があるし、間に合わなくてもべつにかまわない。ユウヒが引き返す形で、ふたり連れ立って横断歩道を渡った。ロータリーの中心にはちょっとした広場があり、待ち合わせスポットになっている。
「なんで歩行者用の信号には黄色がないんだろうな」
点滅する青信号を見てユウヒが言う。その横顔をアサヒはちらりと見たが、他意はないようだ。
「いくつになった」
「えー、たったひとりの弟の歳、忘れる?」
「正確には知らないから」
「冗談だって。十九。誕生日は結局わかんなくて、八月一日ってことになった。兄ちゃんは二十歳だよな。大学生?」
「政経学部の二年」
「かっけー。頭よかったし、真面目だったもんな」
「おまえは?」
「ラーメン屋のバイト店員。高校のときから続けてんだ」
進学はしていないのか。高校は卒業したのか。突っ込んで尋ねるのははばかられた。
「今日もこれからバイトなんだ」
「このへんなのか?」
「いや、
「ああ、
「『ああ、世田谷に』」
ユウヒはアサヒの口まねをして、頭のてっぺんから足の
「東京住みのわりには
「ほっとけ」
「そうだ、連絡先、交換しようよ」
言いながら、ユウヒはもうパーカーのポケットから携帯電話を取り出している。アサヒもバッグから携帯電話を取り出した。
「あ、兄ちゃんもフツーのケータイなんだ。iPhone4Sとかスマホとか気になるけど値段がなあ」
最新機器に興味はなかったが、「だな」と話を合わせた。経済事情については進路のことより
考えてみれば十年ぶりの再会だった。横断歩道を挟んで偶然に互いを見つけ、それから五分たらずでこうしていつでも連絡を取り合えるようになったのだと思うと、とても奇妙な感じがした。
「いろいろ話したいけど、バイトだから行くわ。改めて会おうよ」
「ああ」
「なるべく早くな。メールする」
じゃあなと別れて歩き出したとたん、背中から「兄ちゃん」と呼びかけられた。振り返ると、ユウヒは後ろ歩きで横断歩道を渡りながら、いっ、と口を横に広げて歯を見せた。
「いいじゃん」
アサヒは行儀よく並んだ自分の歯列を舌でなぞった。
3
「その歯、きれいにしましょうね」
アサヒを引き取って家に連れ帰る車の中で、母は言った。助手席に座った彼女は、乗り込んでからずっと前方か窓の外に顔を向けていたので、後部座席のアサヒには、白い耳たぶの下で揺れるピアスしか見えなかった。透明な宝石はダイヤモンドだろうと思ったが、そもそもアサヒは他に宝石の種類を知らない。揺れるダイヤモンドのピアスが、記憶にある最初の母親の姿になった。その前に児童相談所で対面したはずなのだが、何も覚えていない。
「それなら任せてくれ。パパは歯医者さんだから。矯正は早いほうがいい」
ハンドルを握る男がルームミラー越しにアサヒを見た。パパという言葉に対する反応をうかがったのだと、そのときにはわからなかった。アサヒが黙っているのをどう受け取ったのか、新しい父親はぴかぴかの眼鏡の奥で目を細め、「僕のことは好きなように呼んでね」と優しく言った。アサヒははっとして、急いで「はい」と答えた。
「そんなにかしこまらなくていいんだよ」
「かしこまる、なんてわからないわよ」
「あ、そうか」
言葉の意味はなんとなく知っていたが、黙っておいた。〝お父さん〟がよくラジオを聴いていたから知っている、とは言うべきでない気がした。
これから暮らす家は、東京の世田谷という地域にあり、〈こづか歯科〉と看板のかかった
いちばん偉いのは五歳の
兄を受け入れたとまでは言わないまでも、彩がアサヒにあからさまな敵意を示すのをやめたことで、両親はほっとしたようだ。家族が増えたお祝いだと言って、父はホールケーキを買ってきて、とっておきだというワインを開けた。ココアのためのケーキもあった。アサヒはケーキを
「飲みすぎよ、パパ。
「はーい。彩ぁ、ママに叱られちゃったよ」
父は七歳下の母に頭が上がらないように見える。でも、ひと切れのケーキと一杯のワインをおなかに収める間に、母は「ありがとう」と「おいしい」を数えきれないほど連呼した。食器を片付けたあとにも、またありがとうと告げた。
「なんだよ、大げさだなあ。そうだ、日曜日は家族みんなでどこかに出かけよう。ディズニーシーなんてどうだ。オープンしたら行きたいって言ってたろ。ママとアサヒと彩とで相談しといて。それから歯の矯正の話だけど、なるべく早いほうがいいから、知り合いの矯正医に話してみるよ」
「そうよね、お願い」
車の中で自分をパパと呼んだときと同じく、新しい息子を呼び捨てにしたときにも、父はアサヒの反応をうかがっていた。アサヒはケーキの残りがしまわれた冷蔵庫を未練がましく見ていたが、彼の視線と、それに母の緊張した視線も、はっきりと感じた。
その夜、生まれて初めて与えられた自分の部屋に向かって階段を上る前に、アサヒは両親に告げた。
「おやすみなさい……パパ、ママ」
慣れない呼称は、口に入れたものの大きすぎた
足元を
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