第八十五夜(新年度)

「四月ね。今日からまた新しい一年がはじまるんだわ」

「お嬢様ももう大学四年生でございますね」

「早いなぁ。ついこの前に入学したばっかりな気がするのに」

「ご学友は就職活動をはじめていらっしゃるんでしょう? お嬢様は大丈夫ですか。今のところそんな気配がございませんが」

「ああ、わたしは最初からうちの子会社に入るって決まってたから。ほら、あんたが内定蹴ったところ」

「左様でしたか。ではわたくしがお嬢様の執事になる決意をしなければ、お嬢様はわたくしの部下だったかもしれませんね」

「やなこと言わないでよ。あんたみたいな底意地の悪いやつが上司とか最悪じゃない」

「ですがお嬢様。社会に出たら、上司はもとより部下も同僚も選べません。これまで以上の忍耐と社交性を求められますよ。お嬢様のことをご存知ない社員だっているでしょうし」

「わかってるわよ。パパの娘だからって甘えるつもりはないし。ビシバシしごいてもらう覚悟よ」

「それでこそお嬢様」

「でも相手のほうが悪いって思ったら徹底的にやり返すわ」

「……それでこそお嬢様」

「そう言うあんたも会社勤めの経験はないでしょ。わたしのこと注意できるの?」

「会社勤めはございませんが、アルバイトでしたらいくつか。大学時代はかけもちもしておりました」

「え、知らなかった。なにやってたの?」

「高校生のころはファミレスでした。大学に入ってからは居酒屋とバルですね。あと塾の講師と家庭教師。ガソリンスタンドの夜勤に入ってたときもありました」

「へ、へえ。そんないろいろやってたんだ」

「学費を自分で払っておりましたので」

「パパが支援してると思ってた」

「旦那様から申し出は確かにありましたが、丁重にお断りしました。使用人の孫がそこまでの特別扱いを受けるわけにもいきませんので」

「ふうん。どうりであのころ、あんたがここに来る回数が減ってたわけだわ」

「バイトと講義の合間を縫って就活もしていましたからね」

「そんな苦労したのに、結局やってることがわたしの子守りなんてね」

「子守りでしょうがなんでしょうが、わたくしにとっては天職でございますよ」

「はん。口がうまい男。やっぱあんたみたいな上司はお断りね」

「わたくしも、お嬢様が自分の部下にならなくてよかったと思いますよ」

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