第七十二夜(音の日)

「いつ聴いても素晴らしい音色でございますね、お嬢様のバイオリンは」

「聞いてたの?」

「失礼いたしました。紅茶をお持ちしたのですが練習の邪魔かと思い、こちらで待たせていただきました」

「全然気づかなかったわ。ありがとう、そこに置いといてちょうだい。ちょうど休憩しようと思ってたところよ」

「以前弾いていらしたのとは別の曲のようですね。どこかで聞いたメロディーではありますが」

「流行りの曲をバイオリン向けにアレンジしたものよ。原曲が好きなの」

「CMで流れていた曲でしょうか。SNSでも真似を動画を投稿する方が多いとか」

「そうなの。わたしもバイオリンを弾いてる姿アップしてみちゃ」

「なりません」

「食い気味」

「お嬢様はSNSの恐ろしさを理解されていませんので。不特定多数の人間に顔と声を晒し、自分の日常を公開するなど言語道断でございます」

「今はみんなやってることよ」

「お嬢様の場合はリスクが高すぎます。お嬢様のことを知っている不届き者が、お嬢様を利用せんと列をなして向かってきますよ」

「オーバーね」

「とにかくなりません。たとえ顔を隠しても、身体的特徴から個人を特定するのはけっして難しいことではありませんからね」

「はいはい、わかりました。ほんのちょっとの冗談すら許してくれないなんて、ほんと意地悪ね」

「お嬢様のご冗談は笑えないのですよ」

「でも残念な気もするわ。教室じゃ課題曲ばかりだから、流行りの曲を披露する機会なんてめったにないし。このアレンジ結構気に入ってたんだけど、誰も聞いてくれないのはちょっと寂しいわね」

「旦那様と奥様なら、喜んで聞いてくださるのでは?」

「あの親バカ二人が? そりゃあ大喜びでしょうね。嬉しさのあまりリサイタルでも開いてくれるんじゃないの」

「……やりかねませんね」

「そういえば覚えてる? わたしがはじめてあんたの前でバイオリンを弾いた時のこと」

「どうだったでしょう。あまりよくは……」

「あんまり酷い音だったから、『ノコギリ狂騒曲』って呼びやがったのよ」

「…………」

「それ聞いて悔しくて、バイオリンに熱を入れるようになったのよね。ピアノの方が好きだったし得意だったけど、とにかくあんたをギャフンと言わせたくて」

「その節は……たいへん失礼を……」

「責めてないわよ。そのおかげでバイオリンが好きになれたんだし。むしろありがたいくらいね」

「わたくしも大好きでございますよ……お嬢様のバイオリンの音色」

「その言葉が聞きたくてやってたようなものね。さあ、休憩おしまい! たまにはあんたのリクエスト聞いてあげましょうか」

「では、お言葉に甘えまして……」

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