第42話 逃亡の朝2

 少年が全てを把握したころ、少女は彼に聞こえるよう背を抱きしめたまま問いかけた。

「そっちは、大丈夫だったの。怪しく思われなかった」

「母が起きてて、びっくりしたけど。でも、大丈夫です」

「配達行くって?」

「早番だからって」彼が苦笑したのが、背を抱く少女には伝わる「そんなの、一度もないのに」

「出かけてたことは、言われなかった、何か」

「特に何も。放任主義だから」

「超放任だね」

「そう」

 可笑しくもない話に笑いながら、自転車は信号の点滅する通りを横切り、テールランプと並走し、幅ぎりぎりの路地をすり抜ける。街を知り尽くした彼は、彼女が不運にももたらしてしまった時間のロスを立派に取り戻し、タイムリミットの五分前には駐輪場に自転車を滑り込ませた。二人が横切った広場には猫の子一匹見当たらず、まだ眠りの中にある駅前の時計台を通り過ぎ、南口のある二階の高さへ階段を駆け上がる。脇のエスカレーターも、人のいない時分では、じっと沈黙している。

 駅の構内に入り込み改札を抜けると、始発で会社に向かうサラリーマンの姿がぱらぱらと見られた。疲れを残している風の彼らが、通学には早すぎる時間にやって来た二人を気に留める様子はない。

「ちょっとだけ」彼はそう言って、ホームにある男子トイレへ駆けて行ってしまう。

 こんな時にと彼女は呆れてしまうが、僅か数秒でそれを反省した。駆け戻ってきた彼から濡れた青いハンカチを受け取り、頬に当てる。冷たい夜風に晒されて忘れかけていた熱がぶり返すのを、冷えた布は心地よく冷やしてくれる。「ありがと」礼を言うと、彼は照れたようにはにかむ顔を見せた。


 並んで電車を待ちながら、向かいに見えるのは、ビルの隙間から顔を出す朝焼けと、まだ眠りたいとぐずつく街並み。薄まる青色に、不思議な白や紅色が混ざり、空の色はため息を吐くほど美しい。この広い光景の中で、誰かを愛する想いや、殺したいほど憎く思う人々が押し込められて暮らしているとは、にわかに信じ難くさえある。

「どこまで行こうか」終点の切符を握りしめ、少女が言った。

「どこまでもいこう。大人になれるまで」少女の顔を仰ぎ、少年が言った。

 どこまでも行けるに違いない。二人は顔を見合わせて笑い合う。


 朝靄の中から静かにやって来る列車の姿は、どこか幻想的だった。

 二人掛けの座席に並んで座ると、数分も待たせずにドアが閉まる。列車が再び走り始めると、二人は安堵のため息をついた。

 こちらを気にする誰かの姿は見られず、目が合うのは天井の中吊り広告に住む、車内美化を訴えるキャラクターだけだ。ようやく窓際の少女は、背もたれに深く背を預けた。すぐ横では、あまりに時間がなく、荷物の選別など出来なかったという少年が、通学用の鞄を両足と座席の間に置き直している。

 少しすると、アナウンスと共に電車の速度が落ち始め、客の顔を入れ替えると再び颯爽と走り出す。明け方の五時半。二人がいつも出会う時刻では、乗り込む乗客の姿はまだまだ数えるほどしかいなかった。

「各駅より、特急の方がよかったですね」ごめんなさいと少年が済まなさそうに言うのに、驚いて彼女は振り向いた。

「何で謝るの」

 むしろ果てしなく我儘を言っているのはこっちだ。彼女が疑問を抱くほどに、彼は彼女がまだ知らないほどに優しかった。

「早い方がいいって言ったのは、私だよ」

「でも、特急は調べなかったから……」

 彼が手帳に時刻表を書きつけていた理由は、今では推察できる。恐らく彼は、何があろうとも特急の速度でこの街を去るつもりはなかったのだ。

「……ほら」

 バッグから取り出したスマートフォンで特急電車の時刻表を調べ、彼に突き出した。「鈍行でも、こっちの方がずっと早いんだし。電車の速度より、朝の早さの方が大事だったんだからさ」そう言われ、彼はようやくほっとした顔をみせた。

「それにさ、特急って高いじゃん」

 学生の身として避けられない問題に、彼女は笑って肩を竦めた。

「交通費って仕方ないから払うけど、結構どこに行くにもかかるんだよね」あの日、行き先を海岸に決めた理由の一つを思い出す。「私、お金持ってないよ。お母さんの財布から、ちょっと盗んだだけ」

「お金、持ってるから大丈夫ですよ」

「嘘つけ。新聞配達なんて儲かるわけないじゃん」

 彼女の軽口に笑いながら、彼は鞄から二つ折りの財布を取り出すと、彼女に差し出した。

「持っててください」彼女が持つスマートフォンから下がるのとお揃いの鈴が、財布のチャックに結ばれたお守りの先でちりんと鳴る。

「こう見えて、ぼく、お金の管理下手なんです。家計簿つけられる人なんて、本当に尊敬する」

「女々しいから、つけてるように見えるけどね」

「そういうとこなんだ」

 彼女の馬鹿にする台詞も今やさっさといなし、財布を持った手をもう一度動かした。迷う彼女の右手にそれを握らせ、これでいいんだと頷く。

「私だって、家計簿なんかつけてないよ。自販機使った日の掛け算しかしてないし」

「それでも、ぼくよりずっと頭いいんだから」

「あんたの偏差値知らないけど」

「全校最下位ですよ」

「全校? 嘘つけ」

「嘘です」

 このやろう、と彼の頬をつねろうとし、それが出来ない右手を彼女は見下ろした。それなりに厚みがあり、重くはなくとも決して軽過ぎはしない。それだけで、毎朝積み重ねた努力や寂しさ、孤独の塊を、彼はここに全て詰め込んでやってきたのだと彼女は理解した。

「持っとくだけだよ。年下のお金勝手に使っちゃうとか、最低じゃん、私」

 嘘をついたばかりの少年は、財布を取り返そうとはしない。その笑顔は、彼女が決して自分を失望させる不義理を働かないと信じているが故だった。

 彼の想いに対する嬉しさに緩みそうになる頬を引き締め、彼女は預かった財布をバッグにしまった。はみ出た組み紐を滑り込ませ、女の子らしい微笑を消すと、年上らしいいつもの毅然とした表情を取り戻す。

「もし危なくなってもさ。お金がなくって」

 仕方のないそんな状況は、最悪の場合ではない、と彼女は思う。最悪は、もっとずっと、悪いところにある。

「私、よく稼げる方法知ってるから。大丈夫だよ。何とかなる」

 彼は咄嗟には意味を理解できなかったらしい。

 だが、彼女の言う仕方のない状況は、彼の思う最悪の一つだった。精悍な彼女の瞳を見ている間に、その言いたいことを理解した少年は、眉間に皺を寄せる。うっかりブラックのコーヒーを口にした時とは桁違いの心外さを表情に映した。

「絶対にさせない」彼女が心を壊し、天井を見つめて数を数える状況は、彼にとっての最悪だった。「そうなる前に、ぼくが何とかする」

「根拠ゼロじゃん。男なんて、限界があるよ」

「限界は、ぼくが決めます。あなたはもっと、自分を大事にしてください」

 そういう彼の台詞や瞳には、一点の曇りも躊躇もない。自分を大切にして、こうした自分勝手を今まさにつき通しているのに、彼はまだこんなことを言ってくれる。だから彼女は、隠せない表情で嬉しさを伝えてしまう。

 互いの優しさに触れあったおかげか、疲れたふたりは並ぶ相手にもたれかかり、手を重ねた。それぞれ、少年は左手を、少女は右手を。仮に二つに折っても決して重なり合わないシンメトリーで、強く硬く手を握り締め、愛しい人の体温を感じる。その温もりに、彼女は目を瞑る。隣にいる彼となら、きっと全てが上手くいく。そうして、信じられる。

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