第41話 逃亡の朝1
午後四時に至る前、少女は家に帰りついた。いつもより一時間以上早い時刻には、彼が家の裏まで迎えに来る算段となっている。
滑り込んだ玄関から、そのまま足音を忍ばせて二階への階段を上がった。
自室ではなく、母の眠る寝室のドアを小さく開け、静かに入り込んだ。すっかり熟睡している母親の姿を足元から改めて目にし、随分と疲れているようだと思った。思えば、父がいなくなりあの叔父がやって来てから、母に真正面から向かい合ったことが、幾度あっただろうか。
こうして幾年もの心労を重ねてきた姿を目にすると、胸の奥がぎゅっと縮こまる。見て見ぬふりを繰り返す母親に、今更まっさらな気持ちなど抱けないが、かといって恨み憎むことなど永遠にできそうになかった。母も耐えられなかったのだ。最愛の夫の喪失と、幼い娘と二人きり、この世に残された孤独に。
「お母さん」少女は声に出さず口にする。「元気でね」
母の寝顔を瞼の裏に残す少女は、そっと部屋を出て行った。
自室に戻ると、デスクのスタンドの明かりの下で手早く着替え、引っ掴んだショルダーバッグに思いつく限りの最低限の荷物だけ詰め込んだ。持ち物を吟味している時間など、もう残されていない。
焦っていたためか、少女が気が付いたのはその足音が二階に到達した時分だった。不本意だが、足音のみでも、それが世界一望まない人間のものだと彼女にはわかってしまう。
咄嗟にバッグをベッドの下に放り込み、素早い深呼吸を一つ。
焦る気配など微塵もみせず、部屋のドアを開けた。煌々と明かりのついた廊下に出ると、わざわざ階下から上がってきた男と向かい合う。この男が潜む可能性を考慮せず、一階を確認しなかった数分前の自分を、少女はひどく悔いた。
「今日、泊まってたんだ」
あくびを噛み殺す演技をしながら、後ろ手でしっかりをドアを閉め、まさに殺す算段を立てていた男を見上げる。怖がるな、怖気づくなと、背を向けて部屋に逃げ込みたくなる衝動を懸命に堪える。
「どこに行ってたんだ。もう朝になるぞ」
質問に答えない男は、いつも自分が彼女を連れ回す時刻を都合よく記憶から消し去る。まさか親父面しやがるのかと、吐きたくなるような嫌悪感に彼女は包まれる。
「友だちと、ちょっと出かけてて。時間忘れてただけ」
「菜々ちゃんに、そんな友だちがいたなんてな」
「いいでしょ、いたって」
彼女は募る苛立ちを懸命に押し殺すが、叔父の不審な視線はその全体像を舐めていく。憮然として腕を組む彼女の演技は見事なものだったが、更なる確信を持つ男は、苦々しく顔を歪めた。
「あいつか」
妙に納得している風の男は、額を付き合わせんばかりに彼女へ身を乗り出し、呻く。
「新聞配達のガキか」
瞬時に止まってしまった心臓をなんとか動かし、少女はわざと眉根を寄せる。「新聞?」と、初めて聞く単語のようにその言葉を反芻する。
「不眠症の菜々ちゃんが、毎朝わざわざ構ってるそうじゃないか」
「なにそれ。子どもが配達してたの、うちって」
初耳だとばかりに首元を軽くかく仕草は呼吸をするような自然体で、見るものは確実に叔父の勘違いだと思い込むだろう。だが詰め寄る男は、もはや彼女の返事など問題ではない様子だ。
「今更とぼけたって、騙せやしないぞ」
「だから、なんのことって……」
「いつも早起きして、まるで別人の習慣だって話じゃないか」
母だ。少女は舌打ちしかける。半年の邂逅の中では、やはり同じ屋根の下に暮らす母親には、気取られる日ぐらいあったのだろう。
相手の感情の高ぶりに、これ以上の誤魔化しは逆効果だと彼女は悟った。早くも男の手はこぶしに固められ、誰かに危害を加えたくてうずうずしている。
「ちょっと話したことあるだけよ。歳が近いから」何でもないと軽く首を振る。
「あんなガキのどこがいいんだ」
「別に、いいなんて言ってないよ」
「良くない相手に、こんな時間まで付き合うか。あいつとは、どこまでいったんだ」
「大した用事じゃないし、そんな関係じゃないし。話し込んで時間忘れることぐらい、あるでしょ」
「俺は、心配して言ってやってるんだぞ」
「心配?」
思わず間の抜けた素の声を返す彼女は、腹の奥で大声で笑い、少年に呼び掛けた。ねえ、聞いた、今の。心配だって、ばっかみたい。
「心配なんていらないよ。私もう高二だよ。中学生なんかに引っかかるわけないじゃん」
「現にかかってるから言ってるんだ。それに気づかないなんて、可哀想な子だな。この時代に中坊のくせに朝っぱらから新聞配ってるやつなんて、どうせろくなガキじゃないぞ」
「なんで決めつけるの。働いてるだけなのに」剣呑とした言葉のトゲを、懸命に少女は抜いていく。今はまだ、これで相手を刺すわけにはいかないんだ。
「そんなやつの気を引く前に、さっさとここから離れよう。朝になれば迎えが来るからな」
「朝? 今晩じゃなくて?」
虚を突かれて問いかけると、叔父は「ああ」と頷く。大きな失敗を犯したのだと、彼女は気が付いた。やつらが来るのはてっきり夜だと思い込んでいたが、常識の通じない相手に、何一つ想像に近しいことなど起きはしないのだ。
「パッとしないガキじゃないか」
少年は逆光で見えなかったと言ったが、叔父は一度だけ彼の顔を見たことがあった。その時を思い出しているのか、叔父は記憶の中の少年に舌打ちする。
「あんなのといたって、菜々ちゃんは幸せになんてなれないぞ。それよりも、こっちに来れば何の心配もいらないし、学校も行かなくていいんだ」
満足げに、叔父は少女を見下ろした。瑞々しい唇をきゅっと結び、黙ってこちらを見上げる彼女は、美しく愛らしい。
「少し早いが、あいつらに電話して、今すぐ来るように言ってやる。飛んでくるぞ、菜々ちゃんのためなら。お母さんにはこっちから説明しておくからな」
頬に触れようと伸びてくる腕を、彼女は黙って瞳に映す。
「まあ、せめて、お父さんにお別れぐらいは言った方がいいかな」
身体の中、頭の中で、縫い糸のように細い何かが、こよりのように儚いそれが、音もなくぷっつりと右と左に分かれていった。
「ふざけんなクソジジイ!」
腹の底から沸き立つ声を相手に叩きつけ、彼女は伸ばされる右手を、自分の右手で思い切り叩いた。殴られ教え込まれてから、暴言一つ吐かなかった彼女の初めての反抗だった。
「誰が行くか! あんたなんか、とっとと死んじまえ! 二度と目の前に現れるな!」
空気の弾ける音が聞こえた時には、少女は足元をよろけさせ、廊下の床に這いつくばっていた。左頬が熱を持ち、殴られたのだと気づいたが、胸ぐらを掴む相手を全力で睨みつける。もう二度と、ただでは言うことなんか聞くもんか。こんなことでは絶対に、自分を、あいつを傷つけたりなんかしないんだ。
「いい気になりやがって、小娘のくせに」
苦しさに息を詰まらせる少女を軽く揺さぶる叔父は、これ以上は手を上げるべきではないと、息も荒く稀な我慢をみせる。彼女の母親を起こしこの光景を見せれば、大きなマイナスに成り得てしまうからだ。
「いっそ死んだ方がマシだってな、思わせてやる。覚悟しとけよ」
力いっぱい彼女の頭を壁に突き放し、今すぐに仲間を呼び寄せてやると言い放つ。苛立つ様子を微塵も隠さず、男は階下に下りていった。
痛む後頭部を撫で、じんじんと熱を持つ頬を押さえ、自室に引き返した少女はベッドの下からバッグを引っ張り出すと、デスクの足元から布の袋を取り出した。
スタンドの電気を消し、窓を開ける。袋から出した体育用のシューズを足にはめ、ベランダに出ると、敷地を隔てる塀を挟んで最も会いたい相手の姿を見つけた。制服ではなく、シャツにジーンズ、黒いジャケットのいつもの配達時の格好だ。彼もすぐにこちらに気づいたようだったが、その行動の先を想像すると、慌てた風に自転車のスタンドを立てた。どうすべきか、酷く困惑している。
尻込みしている暇なんてないのだと深呼吸し、少女はベランダの手すりから身を乗り出すと、家壁を沿う雨樋に手を伸ばした。手すりの上に立つと、伸ばした足を雨樋と壁を繋ぎとめる金具にかけ、身体を二階の高さで宙に移した。きしりと軋む音に鼓動が早まったが、それ以上の嘆きは聞こえない。
下は芝生だ、万が一落ちても、死にはしない。それより一か八か、今しか逃げるチャンスはないんだ。雨樋に抱き着く姿勢から、手の力を軽く抜いてしゃがみ込み、一段下の金具に足をかける。雨水で汚れた雨樋のおかげで、手にざらざらと嫌な感触が残るが、そんなこと気にしてはいられない。ゆっくりと膝を曲げて高度を下げていく。若干錆の浮いた金属は、懸命に負荷に耐えてくれるが、恐怖に竦むほど長い時間は待ってくれない。
残り三分の一程は飛び降り、曲げた膝で衝撃を受け止めた、物音で家の中か近所の住民に気づかれる前に、庭と公道を隔てる肩程の高さの塀へ駆け寄り、天辺を両手でつかむ。いきおいよく身体を持ち上げ、足を上げ、もう少しとよじ登り、下で目を丸くする彼と視線を合わせる。
両手を掲げた少年は、数歩後ろに下がってしまいながらもなんとか踏ん張り、信じられない冒険を済ませてよろめく彼女を抱きとめた。時間を過ぎても姿を見せてくれないことに不安を募らせていたが、まさかこうして登場するだなんて、露ほども思わなかった。
「こんな、危ない……」
「早く。早く行こ。見つかったら、終わっちゃう」
彼女の早口に背を押され、そのとんでもない脱出劇からさまざまな事柄を察した少年は、頷いて自転車のスタンドを倒した。
その音にさえ、叔父が勘付き、今にも現れるかもしれない。電気の点いた一階を睨みつける少女を荷台に乗せ、少年はすぐさま自転車をこぎ出した。朝焼けにはまだ時間のある坂の多い町を、二人を乗せた自転車はあっという間に駆け抜けていった。
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