第40話 大好き

 一人語りに休符を打った少年は、細く長い息を吐くと、左腕を額に乗せる。半分だけ閉じた瞼の裏側で、ただ天井を見上げた。

「見ないだけでいいんだ。知らない振りをして、あと少しで出て行けば、みんな幸せになれる」

「あんたは幸せなの」

「……多分」彼は困ったように目を瞑ると、表情だけで笑った。

「救いないね」

「現実なんて、そんなもんだよ。ノンフィクションは、無慈悲で冷たいんだ」

 仕方のないノンフィクションに生きる彼は「だけど」と息を吐く。

「知ってるのに、それでもって思っちゃうんだ。いつだって」

 瞼に瞳を隠し、彼が深く潜っていくのを彼女は知っている。深海へ沈むのではない、不本意に深度を深めるのではない、自ら水をかき、深く、深く潜ってしまう。誰の手も届かない、光も薄まり感じなくなる深海に。それでも頭の上にあるはずの、どこまでも差し込む光を求め、顔を上げたまま。泳げない、歩くのがやっとな深い海の底を、たったひとりで。

 指先で少女が頬をつついてやると、彼はゆっくりと目を開け、腕を額に乗せたまま首を小さく曲げる。

「私たちって、どこかで血が繋がってたんだね」

「そういうことだね」

「残酷だよね」

 だがもしも、この世界とは違うどこか。二人が初めから真に幸せに生きる世界線とやらが存在するのなら、きっと出会うことすらなかったのだ。

「ねえ、あんたが生まれたのって、十五年前のいつなの」

「誕生日? 八月十二日」

「ふーん。なるほどね」

 訝しげな彼に対し、彼女はにやりと口の端を歪めてみせた。

「暑い日だったね」

「そりゃあ、真夏だからね……。なに言ってるの」

「私、覚えてるし」

 目を丸くして仰天する少年は、その瞳を穏やかに細めると小さく笑った。

「覚えてるわけないよ。だって、あなたは二歳だよ。物心なんて、まだまだつかない年だし」

「馬鹿にしてるな」正論を唱える少年の鼻先を、少女は細い指先で軽くつつく。「私の成績がどんだけ優秀か知らないくせに。舐めんなよ。しょぼい常識が当てはまると思うな」

「そんなことまで言ってないよ」

 鼻先を軽く手でかき、少年は首を傾げて頬でシーツを擦った。彼女の真意が汲み取れない。

「覚えてるって、何を覚えてるの。その日に何かあったの」

「なんかね、ずっと笑ってた。そんだけ覚えてる」

「なにそれ」

「一日中笑ってた記憶がある。嘘じゃないから」

 彼女の言いたいことを理解した彼は、口を尖らせて穏やかに笑ってみせた。

「……うそ」

「だまれ」

「うそつき」

「だまれよ」

 嘘つきと繰り返して頬を緩める彼に、実力行使だと少女は正面から抱き着いた。ぱっと背を向けてしまう彼の脇腹に手をやり、足を絡めて逃げられないようにすると、たちまち堪え切れない笑い声が聞こえてくる。さらに首筋に手をやると、くすぐったさに首を曲げ、抵抗しようと手を伸ばしてくる。それも無視して脇に触れると、もう降参だという声がした。

「だめ、嘘つきとかいいやがった」

「嘘だよ、ごめんってば」

「やーだ、許さない」

 二人は幼い子どものように笑い、転げまわった。重すぎる、暗すぎる全ての重みを今この瞬間だけは思考から消し去り、ただ一つの想いだけを通じて声を上げて笑う。


 大好き。


 それがふたりのすべて。大好きだから、全てを共にするためにここにいて、今一緒に笑っている。それだけでいいのだと、もう少しだけ、少女と少年は柔らかなベッドで無邪気に身を寄せ合った。

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