第39話 早朝の話
三年前、小学校六年生のある日、少年は未明に目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、目覚まし時計の針に塗られた蛍光塗料は、明け方の四時を指していた。うつ伏せてぼんやりとしていると、ぼそぼそと話す両親の声が薄い襖の向こうから聞こえてきた。生まれてまだ半年の弟は、どうやら夜泣きのひどさは人一倍で、深夜でも明け方でも関係なく、母や父があやして寝かしつける声がよく聞こえた。今夜の夜泣きも長かったのか、三人で眠る隣の部屋から、リビングに移って寝かしつけていたようだ。
夏休みに入っている自分とは違い、両親は夜が明ければ眠りたいときに目を閉じることさえできない。それならばと目を擦り、少年は布団を這い出て襖の方へ向かった。次に泣き始める弟を抱いてあやすことぐらい、自分にもできる。おにいちゃんの役割はこれぐらい果たせるのだと、無意識のうちに背伸びをしていた。
こぶし一つ分ほど音を立てずに襖を開けると、両親の小さな声が先ほどより少しだけ大きく聞こえ、言葉も聞き取れるほどになった。そっと覗くと、短い廊下の向こう、テーブルに向かいこちらの背を向けて座る二人の姿があった。長い話の最中だ、次に会話が途切れたら、ぼくが起きてると出て行こう。そう思い、背中を合わせるように壁にもたれて座り込んだ。
耳を澄ませる。
「あの子がいなければ」
間違いのない、母親の声がした。
途端、氷水を流し込まれたように、背筋が一気に凍り付いた。息が止まった。心臓さえ止まってしまった気さえした。「あの子」というのは、今母の腕に抱かれている弟のことではない、自分を指す言葉だ。
自分の暮らす家庭が決して裕福ではないことぐらい彼は知っていたし、子どもというのはさぞ金のかかる生き物であると、どこかで聞いたことがある。それが二人もいるのだから、両親にとっては大きな負担なのだろう。
「今になって言ったって、仕方ないじゃないか」
穏やかな、いつもの優しい父親の声。母の言葉に対し、怒りも動揺もない。だからこそ、二人のこの会話は、これまで幾度も繰り返されたものなのだと、聡明な少年は悟ってしまった。
心臓が、うるさく鳴る。そのせいで、息が切れる。駄目だ、これでは二人に聞こえてしまう。胸元をぎゅっと両手で握りしめ、背を壁に押し当てた。
これ以上、聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。けれど、知らんふりをして平気でいられる気もしなかった。両親の本心を知らないでいる恐怖の方が遥かに大きく、堪らなく恐ろしい。
「覚悟して、生んだんだろう」
「……可哀想だったから……」
湿った母の声は、知りたくない真実だった。
だが、思えばずっと前から気づいていた。弟が生まれてから、その確信は一層ゆるぎないものとなった。二人の実の息子である弟とは、明らかな差があった。今後も誕生日を忘れられることなど決してあり得ない弟に比べて、自分は必ずしも歓迎されない存在だとはとうに気づいていた。
それでも、こうして言葉として形にされたことは、十余年の人生で一度もなかったのだ。腹の立つことや、やるせない思いだって数えきれないほどあったに違いない。それでも手を上げるどころか、暴言一つかけられたことはなかった。
「私も若かったから……。とっくに時期も過ぎて……殺すことなんて、出来なかったのよ……」
裏を返せば、出来ていれば、殺していた。選べるのなら、望まない命なんて。
苦しい、苦しい。息が、できない。胸がぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、頭は真っ白になってしまう。
「最初から、やり直せたら……」
最初とは、どこからなのか。きっと、自分を生かすか殺すか、その選択を含む場所だろう。少年は涙の零れない瞳で暗い天井を見上げた。
やり直していたら、一ノ瀬広樹という少年は、生まれなかった。この世に存在しないまま、消えてしまっていた。
両親が真に望むのは、そうした世界。
聞きなれた幼い泣き声と、いそいであやす両親の声がする。これ以上は何も聞く必要はない。出ていくどころか気づかれてもならないと、彼は手を伸ばして誰にも知られず襖を閉めた。
全ては、今に始まったことではない。弟に向けられる至極自然な両親の愛情と、自分に向けられた歪な姿の差異など、仕方のないものなのだ。わかってる、理解している、知ってるんだ。
それなのにと、膝を抱きしめた。頭をうずめ、喘ぐように呼吸をすると、潰れる胸が震えた。知ってるよ、大丈夫、何も変わらないから。そうやって自分を宥めても、悲しいと誰かが心の奥で泣きじゃくる。どうしてどうして。どうしていっつも、ぼくだけが。なんでこんなに、悲しいの。
気づけば、あたりは更に沈んでしまっていた。深度はさらに深まり、深海の果ての果て、細い光も一層薄まる世界に、一人で蹲っていた。時たま思い出すように通りかかるのは、珍しい、見慣れない生き物の姿だけ。
一ノ瀬広樹という少年がこの世に生まれた日、笑っている誰かなど、一人もいなかった。心からの賞賛も労いも喜びさえ存在せず、ただただあるのは、悲嘆と絶望。記憶になくとも、彼はそのことを十二分によく知っていた。自分が生まれ、ようやく会えたと喜ぶ祝福の笑顔など、どこを探しても、出て来やしないのだ。
すぐに、朝は恐怖に変わった。
幾度も夜中に目を覚ましてしまい、夜光塗料が朝の四時を示す頃には、心臓が早鐘のようになり、眠るどころではなくなった。瞼を閉じ、両手で強く耳を塞ぎ、懸命に海の底へと潜っては、誰もいない何も聞こえない海底で、ただじっと時が過ぎるのを待った。あの両親の会話が繰り返される気がして、朝を迎えるのが恐ろしくなってしまったのだ。
すっかり参ってしまった中で考えた末、朝を家で迎えない方法として見つけたのが、新聞配達という仕事だった。これなら合理的に家を出ることが出来ると、学校帰りにある専売所の人員募集の貼り紙を見つけて思いついた。
もう一つの理由が、高校の授業料は自分で賄ってくれと両親に言われたためだった。吹っ切れた。それならば、無理をして家に居座る気も起きない。義務教育が終われば、この家を出よう。卒業すれば、自分の力だけで生きるのだ。そうしてこれまでやって来たのだった。
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