4章 宣戦布告

第43話 遠い街まで

 二人が揺れない地面を踏みしめたのは、時刻が午前八時を迎えるころだった。言葉数の少ないまま、駅前でカロリーを摂取するためのパンを買った。とあるテレビ番組で紹介されたのだと宣伝ポスターがでかでかと謳っていたが、駅前のロータリーを眺めて食べたそれが美味しいのかどうか、少女にはよくわからなかった。隣でただ口を動かす少年も感想は同じだろうから、聞くことはしなかった。

 人通りの多い場所でわざわざ手を繋いで歩けば、邪魔にもなるし他人の目にも留まってしまう。だが、僅かでも不安が高まれば、もしくは相手の心細さを感じては、どちらからともなく手のひらを差し出し握り合った。


 果たして、今現在、やつらを撒けた場所に立っているのだろうか。電車を乗り継いで県境を超えたが、二人が確信を得ることはできない。距離を取れば安心なのか、時間が経てば安全なのか、はかり知れない。影のようにまとわりつく不安を心に住まわせたまま、電車を乗り継ぎ、ただひたすら歩いた。

 思い出したように他愛のない会話をぽろぽろと零し、更にもう一つ県境をまたいだ電車から降りた先は、人通りの絶えない人口二百万都市の市内だった。多くの人とすれ違いながら、自分たちが光に集まる虫のように、魚のように、人の集まりに惹かれていたのだと二人はようやく気がついた。

 オフィス街と歓楽街の境目。娯楽施設に向かう若者の中には、地元では見られない詰襟の男子中学生や、赤い棒ネクタイを首から下げた女子高生の姿がある。彼らのように制服を着ていないことを怪しまれるのか、私服に着替えて出かけるただの中高生だと気にも留められないのか、二人には窺い知れない。

 ジャケットに通学鞄の少年は、右手側を歩く少女の、夕陽に照らされる横顔を仰ぐ。

「だいぶ、歩きましたね」

「そうだね」彼女の言葉は素っ気ない。

「半日ぐらい、経ちましたね」

「うん」

「疲れてないですか」

「平気」

 足が棒のようだと嘆く身体の本音など、これっぽちも見せてくれない彼女に、少年は肩を落としてみせた。

「ぼくは、疲れました」

 決して弱音を吐かない、体力のある少年は、深いため息を一つ吐く。立ち止まると、スニーカーのつま先で軽く地面を叩いた。

「男が、疲れたとか言うなよ」

「本当だから」

 自己犠牲が過ぎる少年が頑固に言ってくれるのに、疲れ果てていた少女は思わず明るい笑みを見せる。疲れた顔をしていない少年も、それを見て笑ってくれる。

「少しなら、きっと大丈夫ですよ。足を止めたって、またすぐに歩いて行けば」

「そうだね。お腹空いたし」

 痩せた腹を撫で、音を拾いにくい雑踏を逃れ、彼の袖を引き路地に入った。本屋や雑貨屋、そして徐々にやかましいゲームセンターやカラオケが立ち並び、ファストフードのチェーン店の前では、数人の高校生たちがたむろする。

「イートインじゃ、あんま休憩になんないよね。あ、そっか、地図使えばいいのか」

 バッグからスマートフォンを取り出し、一つのアイコンを叩く彼女を見ながら、彼は苦い顔を作った。

「変なところ、言い出さないでくださいよ」

「補導はされないようにしとくよ、一応」

 今となっては補導どころか、足の着く場所さえ可能な限り避けねばならない。

 だが、懐かしい互いの台詞に、二人は顔を見合わせて小さく声を上げて笑った。覚えてたんだ。言葉にはせず、そんな台詞を交わした。


 四階建てのネットカフェは薄暗く、眠たげな受付店員は、特に怪しむ素振りもなく二人を奥に通した。一階には数個のブースに、漫画が並ぶ本棚とドリンクバー、STAFFの文字が入った事務所への扉、東西に二つの階段といった最低限の設備しか見当たらない。

 ドリンクバーからそれぞれ水を入れた紙コップを片手に、受付に近い西階段から二階へと上がる。部屋の中央に並ぶ本棚を、小さなブースがコの字型に取り囲むフロアには、客の姿はひと目には見られなかった。遠くから物音は聞こえるが、それがどの方角なのかもわからない、閑散とした店だった。

「平日だから、人少ないのかな」

 彼女の疑問に、階段から奥へ二つ目のブースを開ける少年が振り返る。

「そうですね。普通は、明日も学校とかあるし」

「こういうとこって、遅くに混んできたりするんだって。終電逃したリーマンが、朝まで過ごすんだって」

「そんなに遅くなるって、大変ですよね。仕事って」

「知らないけど、飲んだりもするんじゃないの、大人って」

 天井が低く壁の薄いブースの中はシンプルで、二人が並んで座れるほどの広さしかなく、床の半分は掘りごたつに埋められている。マット素材の床に座り込み、そこに足を突っ込む彼女を見ると、彼も静かに閉めた扉の鍵をかけた。簡素なテーブルには比較的画面の大きなノート型パソコンと、電気スタンドが乗っているだけだ。小さな子どもなら、秘密基地みたいだと却って喜ぶかもしれない。

「あんたのお父さんとか、飲んだりしないの」隅のコンセントでスマートフォンの充電を始める彼女が問いかけた。

「滅多にないです。すぐ酔っちゃうんだって。飲み会なんかも最低限で。年末とか」

「ふうん」

「ぼくには、早く飲めるようになったらいいなって。そしたら、一緒に美味しいところ行こうって」

「飲めないのに」

「そう」

 その時を思い出して彼が嬉しそうに笑うのを見ると、彼女も疲れを忘れて何だか嬉しくなってしまう。

「煙草も吸わないの」

「昔は吸ってたけど、やめたって。母と結婚する時に」

「へえ」彼女は目を丸くした。「いいお父さんじゃん」まるでうちみたいに。

 大好きな家族を誉められ、少年はその通りだと、恥ずかしげでも誇らしそうに頷いてみせた。

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