第24話 遠い花火1
停留所にやって来たバスに乗り込んだ時分には、太陽はほぼ海の中に姿を消し、星空を引き連れる夜がうっすらと空に滲み始めていた。
あれだけ人がいたんだからさぞ混んでいるだろうと二人は話していたが、乗り合わせる乗客は点々とニ、三人が散らばるのみで、予想外に空いていた。
進行方向を向いて右側、窓際に少女、その隣に少年を乗せたバスは海岸を離れるべく走り出した。これであと一時間は座りっぱなしだ。
「ほんと、ブラコンなんだね」
少女の横で、少年は身体から離したボディバッグのチャックを開け、中身を軽く整理している。携帯電話すら持たない彼の荷物は随分と少なく、バッグの体積のほとんどを占めているのが、土産用の一つの紙袋だった。
途中で少年に似合わない眼鏡と少女に似合う帽子を見つけた店で手に入れた、彼の弟への土産だった。弟は現在、食玩のミニカーに執心だと彼は口にしたが、あいにく土産物屋にめぼしいミニカーは見つけられず、ぬいぐるみなら外れないだろうと当てをつけたのだ。幸い、海に近いおかげで所狭しと並べられた種々の魚を選ぶことが出来た。
中でも色黒のチョウチンアンコウを選ぼうとした少年の手を止め、その弟の姿を知らない少女も頭を悩ませ、最終的に二人の意見が一致したのが、可愛らしくデフォルメされたくじらのぬいぐるみだった。爽やかな青い体に、二つに割れた尾びれ、白い口元には黒く太い線が一本走り、まるで笑っているように見える一品だ。幼児ならば両手で抱えて丁度いい大きさだろう。
「そんなに可愛いんだ」
以前も、頼まれてもいないお使いの帰りに、彼がわざわざ年の離れた弟のためにおやつを買っていたことを少女は思い出す。
紙袋の端を丁寧に下り、中身がつぶれないようにしまい直した彼は「可愛いですよ」といつかの公園で見せたのと同じ柔らかな表情を見せた。
「今朝も、どこ行くのってずっとついてきて。普段バイトに行くときはすぐに諦めるのに、察しがいいから、本当は休みなんだって何故かわかっちゃって。泣きそうになるのが、可哀想だけど、可愛いんです」
「親にはなんて言ってきたのよ」
「友だちとって」
「ふうん」
素っ気なく、窓のへりに肘をついて頬を支える彼女に、彼も問いかけた。
「なんて言ってきたんですか」
「友だちと」
「ふうん」
真似をする鼻先を軽く弾いてやると、彼も苦笑する。そんな彼も、彼女の存在を周囲に公には出来ないのだ。だが二人にとって、深い詮索はただの傷を広げる自傷行為にしかなりえない。
「弟が生まれた日のこと、まだ覚えてます」
決して大きくない、それなのにきちんの彼女の耳に届くいつもの少年の声は、愛する家族を語る。
「寒い、初雪の降る十二月で、ぼくは冬休みに入ってて。病院で待ってたけど、中々生まれなくって。夜中、待合室の椅子で眠ってたら、父親が起こしてくれて。生まれたんだって」
まるで目の前に当時の光景が広がっているかの如く、彼は目を細める。
「あの子が生まれた日、みんなが笑っていました。母も、父も、父方の祖父母もいて。可愛いねって。元気だねって。やっと会えたねって。みんな笑顔で、喜んでて、母も元気でいてくれて。ぼくも、本当に嬉しかった」
弟が望まれて生まれたことが、少年には嬉しかった。たった一人の弟が、周囲の祝福と笑顔の中で誕生し、愛されて成長する未来を確信すると、堪らなく幸せだった。
「それまで、赤ちゃんなんて全然違いが判らなくて。どれも同じにしか見えなかったけど」
「口悪いな」
「あなたほどじゃないです」
右手の甲を彼女が軽くつねると、彼はいたいと漏らして小さく笑う。
「だけど、弟は一番可愛かった。他の赤ちゃんと並んでても、すぐにわかりました。どの子が、ぼくの弟なのかって」
「本当に仲良しなんだね。そんなんさ、その子が大きくなって今みたいに遊んでくれなくなったら、兄貴のくせに拗ねちゃうんじゃない。ちょっとぐらい弟離れした方がいいよ」
「それはきっと問題ないです」
彼女の忠告に柔らかく口元で笑ったまま、彼は瞬く瞳を僅かに伏せさせた。「今だけだから」エンジン音にもかき消えそうな小さく短い台詞。
「今より物心がついて。察しのいい子だから、きっと、近いうちに解ってしまう。ぼくが、実は本当の兄なんかじゃなくて、父親の違う人間なんだって知ったら、ああして笑ってなんかくれない」
自分が四歳の時に母親が結婚した相手が、今の父親。つまりは弟の実の父なのだと、かつて彼は語っていた。
「全部知ってしまったら……。きっと、その時は、もう……」
しかし彼は辛うじて笑っている。だからこそ、この葛藤がすでに何年も彼の心の中に巣くっているのだという事実が見えてしまう。
「……そんなに、大問題なの」しかし反対に、少女は首を傾げた。「私は兄弟なんていないから、想像しかできないけどさ。こんだけ可愛がってくれる兄貴を、そう簡単に嫌いになんてなる? 親が違うのもさ、別にあんたのせいじゃないでしょ」
このご時世、異父兄弟という家族構成は当然でなくとも、騒ぐほど珍しいものだとも思えなかった。何より、少年が母親の連れ子であるという事実に対し、彼が思い悩み落ち込む必要はない。選ぶならむしろ責任があるのは親の方だ。家族の手伝いに時間を割く少年は、その分愛しい家族に顧みられているようにも見えないのに、今もこうして、家に対し思いつめた表情をしている。
「大事なんでしょ、その弟君。なんてったっけ、ゆうとくん?」
「はい。たすけるに、ひとって書いて、佑人です。大事ですよ」
「いい名前じゃんか。それに、大事ならいいじゃない」
大切な弟の名を誉められ、少年は口元を綻ばせながらもゆっくりと首を横に振る。
「いいんですかね。ぼくは馬鹿だから、わからない。嫌われるかもしれない。今まで兄貴面してたから」
彼の言う「全部」が実は父親が違うのだという事実を指すのなら、そこまで俯く必要があるだろうか。あまりに真面目に悩む姿に、彼女はむしろ呆れてしまった。
「ほんとに大事な弟なんだ」
「だから、怖いんです」諦めきる彼は、いつかやってくる弟の拒絶を口にし、力ない笑みを浮かべている。
「心配し過ぎじゃない。逆に考えてみなよ。あんたが弟なら、卵ボーロだのぬいぐるみだの買ってくる兄貴がさ、ほんの半分血が離れてるってだけで、手のひら返したりしないでしょ。そんな性格悪いやつ? あんたの弟って」
「いいえ」すぐさま少年は首を横に振った。いつになく励ましの言葉を並べ、弟をかばう少女に視線を合わせると、やがて目を細めて嬉しそうな顔を見せた。
「……ありがとうございます」
「私は知らないよ、あんたの弟も、あんたのことだって、正直さ。でも、そんな悪いやつにこうしてお土産なんて買ってやらないでしょ」
彼女は彼が膝に置くバッグを人差し指でとんとんと叩いた。指先で感じるのは、中に詰まるぬいぐるみの柔らかさ。
「他人にぜんっぜん興味持たないあんたが、わざわざ買ってやってんだよ」
「恩着せがましい……」
そう呟く彼は、コミュニケーションは苦手だが、決して他人の気持ちに鈍感なわけではない。むしろ過敏すぎるが故に、自分の行動の正確さを図り過ぎるあまり、タイミングを逃しいつも上手な台詞を見つけられずにいるのだ。
だから彼女が懸命に励ましてくれようとしていることぐらい、彼には楽に理解できる。
もう一度礼を言おうとした彼は、彼女の方を向くと「あ」の形に口を開いて一瞬固まった。
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