第23話 二秒間
休館の水族館まで辿り着き、また来られたら中に入ろうと約束した二人は、もと来た道を辿ることにした。
随分と涼しく見えたアイスキャンデーを一口ずつ交換した。冷たく甘い、ミルク味とレモン味。協議の結果、それぞれ違う美味しさがあると決まった。
行きに素通りした店を覗き時間をかけて歩いたが、夏の一日の陽は確実に傾いていた。西日が互いの頬を照らす頃、初めの地図の前まで戻ってきてしまった。
意味の掘り下げという無粋な真似などせず、右手に海岸の見える海沿いを、一つ向こうのバス停まで歩くことにした。砂浜と道路を隔てている腰ほどの高さの防波堤に上がり、少女は歩き出す。「危ないですよ」と歩道側の少年が見上げた。
「へーきへーき。よく見えるよ、海」
陽の沈む海を見て彼女が笑ってみせると、彼はそれ以上何も言わないまま、再び歩き始めた。
交わす言葉もなく、誰ともすれ違わないまま、ただ帰り道へと歩を進める。左手側に低い山が迫る海沿いの道は長く、緩いカーブを描くおかげで先は見通せない。バランスをとる少女の前には、数歩分先を進む少年の背中。耳にかかる黒髪が、強い西日に照らされて、うっすらと橙に染まっている。
黙ってそれを見つめていた少女は、口を開き、透き通った声をこぼした。
「私、今から消えるよ」
えっと少年が振り向いた背後に、少女の姿はなかった。
慌てて防波堤にとりついた彼が見下ろす砂浜で、少女はおかしく笑っている。およそ二メートルの高さだが、下は柔らかな砂地で、平気な姿をしている彼女に呆れる彼は安堵の息をついた。
「ほら、こっちおいでよ」
彼女を引き上げるには少し高さがある。そうして手招きされた彼は、同じように防波堤に足をかけ、軽く飛び降りた。
広く続く砂浜は、水族館の方角に豆粒のような人の影が集まって見えるだけで、ここまでやって来て遊ぶ誰かの姿はない。遊泳可能な場所が水族館近辺に限られているせいか、シャワーや海の家といった設備も見当たらない。
浜辺に重なるブロックに並んで腰を下ろし、眩しい日の入りの水平線に向き合った。
「海、真っ赤だね」
少女が零す言葉が、砂浜にぽとりと落ちる。黙ってしまえば穏やかに打ち寄せる波の音だけが響く海では、燃えるような太陽が水面を赤く照らしている。
「燃えてるみたいですね」
前髪の向こうから、目の前に広がる海を見つめる少年の瞳にも、髪を染める色と同じ橙が映り込む。深い深い彼の瞳に、陽が沈んでいく。
「海の中、熱くないのかな」少女が言った。
「あれだけ赤いから、熱いかもしれない」少年が返す。
「深海魚出て来ちゃってさ、熱いから。打ちあがってないかな。そしたら面白いのに」
あんなに太陽が燃えているんだから、きっと水中も熱いだろう。いつか画面で見た奇妙な形の魚たちが、熱い熱いと上を目指して飛び上がる光景は、写真に収めれば歴史に残るに違いない。
深海魚、という言葉が彼女の口から出てきたことに一瞬目を丸くした少年は、それが以前自分が彼女に語った話であることを思い出すと、柔らかく口元を緩める。
「リュウグウノツカイとか」
「デメ、なんとかとか」
「デメニギス」
「そうそう。あとなんてったっけ、ラブカとか」
「かっこいいですよね、ラブカ」
「おこちゃまめ」
「すごく見てみたいけど、やっぱりいいです」
顔を見合わせて笑う彼は、小さくかぶりを振った。
「どうして。好きなんでしょ。剥製なんかじゃなくて、生きてるんだよ」
「深海にいるから、深海の魚なんです。海から出てしまえば、そこに住むべき場所はない。陸地は、彼らの生きる世界じゃない」
「彼らって、なにそれ」
随分顔見知りな言い方だと笑いながら、少女は少年の瞳を見つめ、そうして納得した。夕陽の差し込む彼の深い瞳には、まさに海の底で生きるべき彼らの姿があるのだ。誰にも見えない、自分しか歩かない世界で、息苦しさに耐えて水面を見上げる彼のそばにいるのが、聞きなれない、見慣れない姿の生き物たちなのだ。
伸ばした手で、少女は少年の髪をかき上げた。戸惑い、一度目を閉じる彼の前髪を親指ですくい、残りの指で横の髪を押さえつけ、彼が中々人に見せたがらない顔を夕陽に晒して目を見つめる。
「前から思ってたけどさ、あんた、こうしてみたら綺麗な顔してるのに」
まだ中学生の風貌を抜けられない、あどけなさの残る少年の面立ちは、すっきりしている。あまり他人に笑顔を見せず、ともすれば不愛想だと取られ、その瞳すら隠してしまう彼の顔は、好きだと言った彼女の贔屓目を抜いても十分に整っていた。
「どっちに似たの。お父さん、お母さん?」
「母親です」迷うことなく少年は言った。
「即答じゃん。お父さんかわいそう」
「ぼくは、母親似です」
すぐさまきっぱりと言い切る彼の顔から手を離し、彼女は笑いながら、目が見えるようにと長い前髪を横に分けてやる。
「こうしてさ、ちゃんと顔見せて、もっと笑って、面白いこと言って。テンション上げてけばいいのよ」
「それはもう、ぼくじゃないですよ」
「勿体ないって言ってんの。男でしょ、モテたくないの?」
「ぼくには、そんなの……」困り切って上手に笑えない彼は、彼女が手を離すと指で髪を梳き、いつも通りに目元を隠してしまった。
そうして、海の方へと目線を戻してしまう。どれほど笑顔を見せるようになっても、彼が失った自信や目元を隠す理由は、容易に解決される問題ではなさそうだった。
じっとその様子を眺めていた少女は、にっこりと笑って唐突に投げかけた。
「ねえ、私のこと、好き?」
「え?」
ふっと浮上するような単音を空気に浮かべ、少年は誰もが求める笑顔を見せる少女に目を向けた。
「どういうこと……」
「私が聞いてんの。好き、嫌い、二者択一、どっち?」
「それは、もちろん……すき、です」
恥ずかしさを未だに隠しきれないまま、それでも彼は「好き」と言う。視線を泳がせ相手の目を見つめられずとも、そんな自分を嫌ってしまおうとも、彼は嘘など吐けない。
「じゃあさ、証拠見せてよ」
「証拠って」
「最初はさ、私だって分かってるよ。無理矢理だったでしょ。何も知らないあんたにさ。挙句には泣かせちゃったし」
「無理矢理なんて、そんなこと、言わないでください。ぼくは、そう思ってないから。それに、泣いてなんかないです」
名前さえ教え合わないまま、全ての順序が壊れていた。だがそんな彼女の台詞を、少年は懸命に否定する。
「ほんとに? それなら、いいんだけどさ」
「ぼくだって、好きだって言ったんだから」
「それならさ、証拠見せてよ」
少女は、沈みゆく夕陽に勝る明るい笑顔を向けた。顔を上げる向日葵のように鮮やかで、水を浴びる紫陽花のように涼やかな、誰にも真似できない笑顔で。
「キスして」
短い言葉に、少年は目を丸くした。咄嗟に逸らすことさえ忘れた瞳で、彼女の大人びた表情を見つめる。
「全部私からじゃない。始めっから、今までずっと。あんたの性格もわかってるしさ、仕方ないって言えばそれまでだけど。女の子に引っ張られてばっかの男って、どうよ」
「それは」戸惑う彼は呟く。「確かに、情けない、ですけど」
「ね。だから今度は、私は何もしない。あんたのこと、疑ってなんかないよ、今更。だけどね、待ってるから。待ってたいの」
不器用な彼が精いっぱい告げてくれる「すき」に今になって疑惑など抱かない。それでも少女は、望む相手が与えてくれる愛が欲しかった。促した結果であれど、自分が愛する相手が、愛してくれる人が、伸ばしてくれる手のひらの温もりが。これまで無意識に望み、それでも得られなかった、自ら答えてくれる、愛おしい存在が。
そして瞼を閉じる少女を見つめる少年も、迷ってなどはいなかった。
彼にとっても、彼女は特別な人間だった。傷ついてほしくない、決して傷つけたくない、いつまでも笑っていて欲しい相手であることに、間違いはない。だからあの神社で、彼女が幸せに笑っていられるようにと願ったのだ。
ただ、今は、これまで慣れることなく残ってしまった無垢で幼い心が邪魔をする。恥ずかしいと、叫んでいる。自分からだなんて、そんなの駄目だなどと、幼稚な言葉を並べている。
音を立てず、深い呼吸をし、彼はぎゅっと手を握り締めた。彼女は待っている。待ってくれている。早くしなければ。迷う理由なんてないんだと、あどけない言葉たちを諫めた。
震える瞼を閉じた。
心臓が、うるさかった。
一生懸命に全力を振り絞り、精いっぱいに、触れるだけのそれは、時間にすればほんの二秒ほど。
少年が顔を離すと、少女も瞼を開いた。それは彼女にとってのキスという行為においてあまりに短い時間だったが、それは長い年月をかけて望んでいた時間だった。
かけがえのない、二秒間。彼の勇気が姿を現し、形となって彼女に応えた、胸が苦しくなるほど愛おしくなる瞬間。音もなく、ほんの僅かな温もりを抱いて流れた時間。
「真っ赤だね」
とても目を合わせられないまま、彼が彼女に向けている顔は、今日最後の夕焼けを浴びて一層赤らんでしまっていた。
「夕焼けのせいです」
苦しい言い訳を呟き、唇を引き結んでしまう少年は、必死に何でもない風を装っているが、顔色まで誤魔化しきることはできない。「嘘ばっか」と少女は頬を緩める。
「ほんとですよ。あんなに赤いんだから」
「ふーん。それで耳まで赤くなるもんなんだ。じゃあ、私もなってるはずだよね。どう、赤い?」
そう言って彼女が顔を寄せて耳を近づけると、彼は尚のこと恥ずかしがり、もう顔も向けられず横顔を髪に隠してしまった。手で顔を覆うことさえしないが、もし潮が満ちていれば、深く海に潜り、体温が下がるまで隠れてしまうだろう。
胸の奥が苦しいのに、少女は彼に微笑んだ。悲しい苦しさではないから。ようやく知ることのできた、愛おしく、切なく、いつまでも抱きしめていたい苦しさだ。窄まる胸の奥が温かい。この温もりを与えてくれる存在が、手を伸ばせば触れるどころか抱きしめられる距離にいる彼が、恥ずかしがり屋の少年が、何よりも誰よりも、大好きでたまらない。
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