第22話 お守り
古い町並みのおかげか、どこか情緒を感じさせる朱色のポストが鎮座する角を曲がり、二人は人通りの少ない細道へ足を踏み入れた。
両脇に軒を連ねていた店も次第に数を減らし、代わりに現れた竹藪が長身を天へ伸ばしている。おかげで強すぎる直射日光が木漏れ日へと姿を変え、生息範囲が異なるのか蝉の声も聞こえなくなった。思い出したように吹く風がさらさらと笹の葉を鳴らせば、いつの間にか少女の暑いという嘆きも消え、少年が服の襟を摘んで風を送る動作も止んでいた。
そうして歩くうちに、入口で見た地図に描かれていたマークの通り、小さな赤い鳥居が姿を現した。鳥居の脇の手水舎、手前の拝殿と奥の本殿、木造の社務所だけを備えた神社は、三段の石段を上がるとすっかり中が一望できるほど小さく、人の姿はなかった。
「神様、信じてるんですか」
それぞれ手を清め、ポケットから出したハンカチで手を拭きながら少年が尋ねた。
「なに、信じてたら悪い?」
「悪いなんて、ないですけど。こういうの、馬鹿にするんじゃないかって」
「してるよ」
「やっぱり」
無下に言い放つ少女に、いつもの通りだと少年は苦笑する。余裕の満ちる笑みで首を傾げる少女の髪が、肩にさらりとかかる。
「大体さ、神様ってなに。なにしてんの」
「それは……色々、決めたりしてるんじゃないですか」
「色々って」
「その、人間にはできないこと」彼も首を傾けて考える。「寿命とか、運命だとか、目に見えない色々を」
「ふーん。運命ね。すっごいよね」心のこもらない感嘆。「それができるのにさ、えこひいきが過ぎるよ。気に入ったやつはとことん可愛がるくせに、気に入らないやつはどん底までいじめるんだから」
祈ったところでと、少女は思う。これまでの人生、神様にいくら祈っても願っても、泣き叫んだって助けてなんてくれなかった。あの人に手を出される最中なんて、かつては嫌になるほど懇願したのに、未だに何一つ救われていない。むしろ悪化さえしていることに気づいてからは、祈ることを止めた。人並みの代償は払ってきたはずなのに、相応の還元が成された気などさらさらない。
ただ一つだけと、言葉にしないまま少女は少年を見返した。いいことと言えば、彼と出会えたこと。彼と知り合える道筋を神様とやらが決めていたんなら、これだけは感謝してやらないでもない。
「目の前で悪口なんか言ったら、聞こえますよ」
いくらか声を抑える少年は、どこかおぼつかない視線を周囲に巡らせる。
「目の前ってなによ」目に見えない神様とやらに気を遣う、そんな子どもっぽい仕草が可愛らしい。この少年の存在が、神様が可愛げのない自分に与えたせめてもの温情なのだろうか。
だけど、もう少し余りをくれてもいいじゃないか。せめて、互いの存在を周りに言えるほどの幸福をくれたっていいのに。
砂利を踏みしめ拝殿へ歩く少年の背中を、少女は後ろを歩きながら眺める。
少年が少女にとって極力人に知られてはならない存在であるという現実が、地元からバスで一時間かかる今日の道のりだった。少女の隣を歩く誰かの姿を、クラスの人間、いや、学校の誰かが目にすれば、きっとたちまち根も葉もない噂が際限なく広がるだろう。あの桜庭菜々の人間らしさ、つまりは弱みを一度でも握れば、やつらは決して離さない。馬鹿がつくほど真面目で、泣きたくなるほど優しい少年は、人に知られて恥ずかしい人間などでは断じてない。だがそんな事実など、やつらが構うはずがない。
加えて、少女は家のためにも他人の目を避けねばならなかった。朝のアラームも極力ボリュームを下げ、玄関先に出る物音も最低限に抑え、自宅だとは思えないほどこっそりと行動する。万が一母に怪しまれ、叔父に何かしらの告げ口をされればおしまいだ。嫉妬深いあの男は、自分が気を引きたい少女が年の近い少年としきりに顔を合わせていると知れば、黙ってはおかない。頭のネジが五、六本抜けている大の男の力に、まだ少年の身体しかもたない彼が敵うとは思えない。想像しただけで少女の背筋は凍り付き、何があっても誰に対しても黙っていなければとそのたびに噛み締め、自分たちが決して周囲に恵まれない不幸を恨んだ。
「じゃあさ、あんたは信じてるんだ」
拝殿の屋根の下に入り、賽銭箱に至る数段の石段の前で彼に問いかけた。
「神様ですか」
「そう」
「……いたら、いいとは思いますけど」
「なにそれ。私とそんなに変わんないじゃん」
それだけで、少女にはわかった。恐らく彼も、神様に愛された記憶などろくに持っていないのだ。ひいき癖の強いどうしようもなく絶対的な存在に、可愛がってはもらえないのだろう。
「きっとさ、私たち、神様に嫌われてるんだよ」石段を見上げ、彼女は言い切った。
奥の本堂から自分たちを監視する相手を睨む少女の横顔に、困った顔をする少年は否定をしなかった。
互いが隣にいることを、誰の目にも晒せない。少しでも神様に愛されていれば、こんな不幸は知らなかったはずだ。
ここまで来たのならと、彼女は取り出した財布から十円玉と五円玉を一枚ずつ摘む。「ならさ」と、隣で同じように小銭を引き出す彼の方を振り向く。
「神様にさ、喧嘩売ってやろうよ」
「なんて」
「やれるもんなら、幸せにしてみやがれってさ」
「そんないい方したら、ばちが当たりますよ」
「わざわざくそ暑い中やって来て、頭下げてお金まで払うんだよ。叶えてくれなくても、それでばちさえ当てるんならさ、どうしようもない。心狭すぎじゃない」
その台詞の正当性をはかり切れず、彼は否定も肯定もしないままどこかで納得したらしい。ただ、また口の悪いことをと、呆れて笑いながら石段に足を乗せる。
年季の入った賽銭箱へ掛け声もなく同時に硬貨を入れると、それぞれ左右から太い鈴緒を握りしめ、ガラガラと大きな音を小さな神社一体に響かせた。耳を澄ませば手水舎で流れる水の音さえ聞こえそうな静けさの中、鈴の音の余韻を耳に残し、頭を下げて柏手を打った。
瞼を閉じ、直近の初詣すら幾年も前になる少女は一つだけの願いを探す。これほど文句を垂れる自分に甘い蜜を吸わせる願いなど、今更神様が叶えてくれるとは思えない。だから自分は含まれなくていい。たった一つ。気まぐれでもいい。一度だけ、願わせれてくれるならば。
今となりにいる、一ノ瀬広樹という少年が、一日でも長く笑っていられますように。
叶えてみせろ。これだけでいいんだ。これまで諦めるまで無視してきやがったんだから、今本気で願う祈りにぐらい、耳を貸してみせろ。成績向上だとか、健康や昇進や合格だとか、そんな贅沢なんて言わない。笑ってるだけでいい。願うことは、ひとつだけ。
長い祈りの間、すっかり両手を下ろして待っていた少年が、踵を返して石段を下りる気配があった。とん、とん、とん。使い古したスニーカーの足音。ようやく顔を上げた少女は、一礼してそれを振り返る。
少年は相手を急かすこともなく、太い柱のそばで、取り出したペットボトルのキャップを捻り半分ほど残る麦茶を喉に流している。炎天下から逃れても、夏真っ盛りの空気は十分熱を帯びており、油断して水分補給を怠れば、身体は干上がってしまいそうだ。
「なにお願いしたの」
軽く段を下りた少女は、ボトルの栓を直し口元を拭う少年の顔を覗き込んだ。垂れる前髪の向こうで、彼は視線を一度上に泳がせたが、答えを口にする代わりに頬を緩めた。
「内緒です」
いつも少女が見せるのと同種のいたずらっぽい表情も彼にはどこか幼さが残っている。
「言ってよ」
「言いません」
「言えよ」
「秘密です」
「言えってば」
「やだ」
珍しく、いや、初めて融通を利かせない姿を少女に見せる少年は、頑固に口を閉じてしまう。腕を掴まれ軽く揺さぶられても根負けする様子はなく、不満を隠す気配のない彼女が更に詰め寄ると、ようやく妥協案を一つ唱えた。
「あなたが教えてくれたら、ぼくも教えます」
言えるわけがないと、少女は文句を飲み込んだ。あんたの笑顔を祈ってたなどと言う台詞を、少女の意地っ張りが許すはずがない。彼女の性格が、一番の願望を他人に軽々しく教えられないものであることを知っている、彼が見せる初めての意地悪だった。
「いじわる」
自分が言えやしないのに他人には口を開けという台詞は、道理に合わない。折角祈ってやったのにと言えないまま、少女はせめて少年の細い右肩を掴み、乱暴に揺さぶりながら聞こえの悪い不満を漏らすしかなかった。
「馬鹿。あほ。クソガキ」
「ぼくは、馬鹿ですよ」
「この大馬鹿野郎、呪われちまえ、今すぐ祟られろ、ばーか!」
いわれのない幼稚な悪口を浴びる彼は、すました顔で視線を逸らし、左手の人差し指を彼女の後ろに向けた。
「ほら、お守り売ってますよ」
誤魔化されるかと口を尖らせる少女を促し、少年はどこか嬉しそうに敷地の隅の社務所へと足を運ぶ。ガラスの引き戸の向こうには、おみくじの入った箱や、お守り、お札といった品物が並んでいる。
「嫌われてたって、少しは思い直してくれるかもしれないですよ」
「嫌いだって言われちゃあ、そうそう気に入られやしないよ。こんなんで気が変われば苦労なんかしないし」
少女の気のない台詞に「それでも」と彼は笑いかける。
「何もしないより、きっとマシですよ。無謀な願いだったとしても、ほんの少しだけでも叶えてくれるかもしれない」
無謀なんかじゃない。それを言えない彼女は、内心で「おや」と首を傾げた。先程から彼は笑っている。煩すぎない、彼らしい静かな笑顔で嬉しそうにしている。
願いを叶えてくれたのだろうか。
彼の笑顔を願ったばかりの彼女は、思ってもいない文句を引っ込め、返事を待つ彼を見返した。神様の気まぐれが、この瞬間だけでも起きているのかもしれない。
それならば、これが続くというのなら。
「……わかったって」
感謝ならいくらでもする。お守りの一つで気まぐれが長持ちするのなら、安いもんだ。仕方ないなと腰に手を当て、並べられたお守りに目をやった。
初めて買ったお揃いがお守りとは、随分自分たちらしい。鳥居の下で、鈴のついた組み紐を彼女は摘む。赤、青、黄、紫と、色のついた細い紐がくるくると組み合う先には、金色の小さな鈴。軽く振ってみる指先で、ちりんと涼しげに鳴る。
「なくすなよ、このためだけにまた来るなんて、やだからね」
スマートフォンのケースに空いた小さな穴に紐を通し、外れないよう結び付けながら言った。
「なくしませんよ」
同じ機器を持っていない少年は、財布を取り出しコインポケットのチャックに結ぶ。使い古された黒い革製の二つ折り財布は、大事にしている手帳同様にどこか大人びていた。
「叶ったらいいですね。願いごと」
手のひらに乗せた鈴を瞳に映して笑う少年に、「そうだね」と少女は返した。結局、彼は願いを教えてはくれなかったが、これで十分なんだと彼女は鈴を鳴らした。
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